動態動詞ル形の用法について(5)

1.

続いて、

③「虚構移動文」(cf. 三原健一、『日本語構文大全Ⅰ』p255~)

この構文は、道路、山地等を主語にとる。

中国自動車道は、吹田を起点に、しばらく市街地を走る。

金剛山地大阪府奈良県の境を南北に走る。

「虚構移動」と呼ばれるのは、道や山地が実際に走っているわけではないのに、字面ではそうなっているからである。

そして、その道や山地において変化しない特徴について語っており、属性叙述文と見なすことができる。

テイル形への変換も可能である。むしろ、ル形の文は、「かたり」のテクストや解説的なテクストでの使用に限定される傾向があるように思われる。これに関連して三原は、ル形が許容されるには、時間や場所を限定する表現を伴う必要がある、と言う(p255)。この点の検討には、今は立ち入らない。

また、「この道は走る/走っている」「金剛山地は走る/走っている」だけでは意味をなさず、場所や形状等を規定する語句が必要である。そして虚構移動文では、主要な情報は場所や形状に関する語句の部分が担っている。「金剛山地は南北に走る」の「南北に」の部分が重要であるように。次の④の一部にもよく似た性質がある(cf. 2023-10-01)。(さらに、「青い目をしている」構文において、「彼女は目をしている」が意味をなさないこと、文の主要な情報は「青い」にあること、にも似ている。)

 

④一部の第四種動詞文

これは、第四種動詞の「恒常性用法」(西田光一)として、以前検討した(2023-09-20)。ル形が用いられるのはあくまで”一部の”第四種動詞に限られる。その広がりについては、実例に即して検討されなければならない。ただし、場所格の補語を必要とする 、位置や形状に関する動詞が多いことは目に付く:例)面する、浮かぶ、そびえるetc.(cf. 2023-10-01)。また、ここでは、「かたり」のテクスト等に限られるという、強いテクスト的制限が存在する。

 

③の虚構移動文は、位置・形状に関する第四種動詞の文に、ある面で類似している。ただし、第四種動詞の多くが変化動詞の見かけであるのに対し、虚構移動の走るは動作動詞の体裁をとっている。虚構移動文を「虚構の移動を表す」ものと特徴づけるならば、この種の第四種動詞は「虚構の変化を表す」と言えるかもしれない。

そこで、前回見た、「…の味をしている」「…の色をしている」「青い目をしている」といった、感覚的性質を表す動詞について。これらも第四種動詞に分類されるが、例えば「この花は甘い香りをしている」の場合、主格「この花」が、ヲ格の「甘い香り」という動作をするわけではないから、これを「虚構動作」と呼ぶことができるかもしれない。そしてこの場合、ル形では、いかなるテクストでも使用されない。(ちなみに、ル形で使用可能な「この花は甘い香りがする」の「甘い香り」はガ格であり、「すごく腹が立つ」のようなⅥに分類される文に類似する。「…がする」と「…をする」との関係は、Ⅵで取り上げる予定である。)

すると、大雑把ではあるが、「虚構移動」文、「虚構変化」文、「虚構動作」文、いずれもがル形すなわちperfectiveになりにくいか、なれる場合にもテクスト的な制限が課され、属性叙述文となる、とまとめられよう。

 

③④ともに、対応するテイル形の文は、ある変化しない状態=属性をimperfectiveに叙述する文とみなされる。その場合、話された言葉なら、time of orientation(To)=time of utterance(TU)、topic time(TT)はTUを含むある期間、としてよいだろう。

ル形で用いられる場合も、ある属性を表すために使われ、内容的にはimperfectiveの文に見える。事実「高知県境には四国山地が横たわる」「金剛山地大阪府奈良県の境を南北に走る」のような文をperfectiveとして解釈すれば、起こるはずのない「動作」がTTの期間内に起きて完結することになるので、これはおかしい。ただし、以前見たように、実際には④では副詞句との共起関係等でテイル形文と異なる面がある(cf. 2023-10-01)。当ブログはこれを、特にテイル形の文において、アスペクト形式の示す性格が失われていないしるしと考えた。前回触れたように、副詞句や条件節との共起をめぐる、ル形/テイル形の対立は、ここで取り上げる種類の文に広くみられる。ただ、ル形文においても差異が存在するため、単純な裁断は控えたいが、その重要性には今後も注意してゆく。

 

では、これらの動詞のテイル形文は、「虚構」の移動or変化or動作を、あたかも起こっ”ている”(継続or結果存続)もののように扱うことによって、特定の状態のimperfectiveな記述を可能にしている、と言えるだろうか?(ただし、われわれは、そのような移動や動作が起こったとは普通想像しないが。)

さらに、③④のル形のテンス、アスペクトをどう捉えたらよいか?これらが、書かれた文章や、発信者から受信者へ一方向に与えられる解説としてある場合、To=time of decoding(受信時)、TTはToを含む任意の範囲、と考えたくなる。しかし、実際に動作や変化が起きた(起こる)わけではないので、perfectiveの条件(TT⊃TSit)を満たすことはない。

これらのル形文は、実際には、ある恒常的な状態を叙述する文として機能しているが、その使用にテクスト的制約が生じるのは何故か? というのが、一つの問いであった。答えを出す段階ではないが、敢えて仮説的に提出しておくなら、「はなしあい」のテクストにおいては、To=TUというdefault解釈(phono-deictic 解釈)の圧が強いので、それに基づいたテンス/アスペクト解釈(未来/perfective)が強制されてしまう(が、それは不条理である)、という理屈が考えられる。それに対し、「かたり」のテクスト、特に書かれた文章においては、time of encoding(発信時)が発信者−受信者間で共有されないことが多く、Toを曖昧化、不明化することが容易である。ゆえに、Toの曖昧化、不明化がこのような用法の条件となっているのではないか、と考えたくなる。

では、これらのル形文は、ToやTTの位置的関係に依って表される、通常の文法的アスペクトやテンスの枠組みを逸脱するもの、とみなすべきだろうか?

残っている問題に、これらの動詞の、連体修飾時の様態がある。その問題を探索してから再考したい。

 

⑤関係動詞

金田一春彦「国語動詞の一分類」において、「違う」「当たる」といった動詞は、状態動詞と第四種動詞とを兼ねるものとされた。

この下駄は(私のと)違う。

この下駄は(私のと)違っている。

あの人は私の叔父に当たる。

あの人は私の叔父に当たっている。

金田一は、前者を状態動詞、後者を第四種動詞とした上で、両者の意味は同じであるとした。だが、両者が、語彙的レベルで異なる2つの動詞であると考えるのは不自然に感じられる。

これらに加えて類する動詞(異なる、一致する、属する、etc.)は、後の研究において「関係動詞」と呼ばれている(工藤真由美、山岡政紀)。ル形でもテイル形でも、現在の事象を表すという特徴があるが、両者の間に意味の違いはあるのだろうか?この点に焦点を当てた研究に、山岡「関係動詞の語彙と文法的特徴」があるが、今は立ち入らない。ただし、ここでも条件節との相性の良し悪しから、2つの用法の違いが見えてくることを記しておこう。

 

 

 

 

 

 

動態動詞ル形の用法について(4)

1. 

Ⅱ属性叙述 に含まれる、特徴的な構文や使用について見てゆく。

次に挙げる2つは、あるいは、Ⅵの「知覚・思考・内的状態の表出 」に分類することも可能かもしれない。ⅡとⅥとの関連を顕在的に示す例でもあろう。

①<AはBの味(香り、におい、音、肌触り、感触etc)がする>という形式の文

このみかんは酸っぱい味がする。

この花はいい香りがする。

彼の部屋は、いつも整髪剤のにおいがする。

このブザーは大きな音がする。

この生地は、ザラザラした肌触りがする。

ここでは、味覚or嗅覚or聴覚or触覚に捉えられる、[Bの部分]で表された性質/属性を、Aが持っていることが述べられている。その場合、その性質/属性を、〈「味、香りetc」といった知覚対象のカテゴリーを表す名詞〉 の 修飾句で示すことが特徴である。Bの部分は、連体修飾句として、「甘い、ゴムの、大きな、絹の、ザラザラした」等、様々な形式をとり得る。ここで、「味、香り、匂いetc.」といった知覚対象を、Cで表しておけば、①の文は「Aは BのCがする」という構造をしている。

鈴木重幸「現代日本語の動詞のテンス」は、これらを<話し手の感覚によってとらえられたものや現象の状態をあらわす文>の中に含めている(p38)。つまり、これらの文は、実際に感覚している最中に、自らの感覚の表出として発話することができる。しかし、感覚可能な対象の説明として、後から発話することも可能である。

あるいは、自らの感覚を表出しつつ、感覚対象の性質を規定することもできる。これは、前回説明した、鈴木の謂う「一時的な状態の現在」を表すル形(p28)の例となっている。

 

そこで興味深いことに、視覚に関する同様の構文は存在しない。

a. *この桃はきれいな色がする。

b. *およそ刀剣は、細長い形がする。

主語抜きの、感覚表出の発話を振り返ってみても、キャンディーを口にして「酸っぱい味がするよ」と言ったり、部屋に入って「何だか、においがする」と言うことはあるが、視覚については、夕日を見ても「ああ、赤い色がする」とは言わない。

 

ところが、a., b. をテイル形に変えて、「...が」を「...を」にすると、視覚的性質を表す文として認容される。(これらは、第四種動詞文の例としても取り上げた。)

a'. この桃はきれいな色をしている。

b'. およそ刀剣は、細長い形をしている。

また、夕日を見て「赤い色をしているね」と発話することは不自然ではないだろう。

 

これらの文は、「青い目をしている」構文に似ている。

ジュディは、青い目を [している/*する]。

リサは透き通るような肌を[している/*する]。

ただし、「青い目をしている」文では目や肌といった具体的な「もの」を「している」のに対し、上の文では「している」のは色や形という抽象的な視覚対象である。

 

味や香り、音等に関する上の例文は、いずれもテイル形でも使用できる。「...がしている」の他に「...をしている」という言いかたもあり、2つの間に、選好度に差がある場合もある。たとえば、一時的でない属性の叙述には、後者が選好されるように思う。しかし、一時的な場合には、下の「におい」の例のように、前者が選好されるだろう。ただ、これらに影響する文脈を精確に規定することは難しいので、今は立ち入らない。

このみかんは酸っぱい味[が/を]している。

この花はいい香り[が/を]している。

彼の部屋は、いつも整髪剤のにおい[が/?を]している。

このブザーは大きな音[が/を]している。

この布は、心地よい肌触り[が/を]している。

これらの「…をしている」についても、第四種動詞と捉えることが可能であろう。つまり、「…の色をしている」「…の形をしている」がル形で用いられないのと類比的に、「…の味をしている」「」...の香りをしている」等も「…の味をする」のようなル形では使われることがないのである。それに関連して、感覚表出文でも、「あ、酸っぱい味がする」「なんだか、匂いがする」とは言われるが、「あ、酸っぱい味をする」「なんだか、匂いをする」とは言われない。

このようなガ格とヲ格をめぐる問題については、のちに取り上げたい。

 

その他、ル形とテイル形での使用条件の違いがあることに注意したい。たとえば副詞句・従属節によって、

この種類の柑橘はいつも酸っぱい味 [がする/をしている]。

がいずれも可能であるのに対し、

この種類の柑橘は、皮が青いうちに食べれば、酸っぱい味[がする/?をしている]。

と許容度が変わってくる。今後取り上げる予定だが、条件を表す従属節とテイル形との相性の悪さが、動態動詞ル形の変則的用法に関連して広い範囲に見られることに留意しておこう。

 

この構文での人称制限はなさそうである。(ただし、「私は~の香りがします」とか「私は~の肌触りがします」などとは、現実に言われることはないであろうが。)

また、丁寧形やテクスト的制限(「かたり」、「はなしあい」)も特に問題はないようである。

 

文の構造について。当該の文は、意味を保ったまま、次のような形式に書き換えることができる。

このみかんは、味が酸っぱい。

この花は香りがいい。

このブザーは音が大きい。

益岡隆志は、このような文を、領域設定を持つ属性叙述文と呼ぶ。知覚対象のカテゴリーを示す名詞(味、香り、音)が「領域」にあたる。従って、上の「AはBのCがする」構造と対応させれば、次のようになる。(cf. 益岡、日本語文論要綱、p29)

[A(対象)ハ [C(領域)ガ B ダ] ] 

この構造は有名な「象は鼻が長い」構文にも共通するが、上の文の特徴は、「領域」が、味覚、嗅覚、聴覚、触覚の知覚対象カテゴリーであることだ。(付け加えれば、「青い目をしている」構文の場合にも同様の性質が見られるが、上述した違いがある。)

そして、初めに述べたように、①の文は、Ⅵに属する文と同じように、感覚内容の表出に使える。

Ⅵの文の例:「手がしびれる。」「思い出すだけでぞっとする。」「ああ、腹が立つ。」

また、Ⅶに分類される文にも、感覚知覚に関係するものが含まれ(例えば「レモンは黄色く見える」)、これらとの関係も探究する価値がある。

他にも、様々な構造的な特徴に注意することは可能だが、一旦、Ⅶまでの例について見たのちに振り返ることにしたい。

 

2. 

②<オノマトペ+する>という形式の文

オノマトペを主要な述語部に用いた叙述一般について、鈴木彩香「属性叙述文の統語的・意味的分析」は、次のような分類を提示している(p124)。

a. あの事件を思い出すとぞっと [する/*している/*だ]

b. 花子の足はほっそり [*する/している/*だ]

c. シーツがぐしゃぐしゃ [*する/*している/だ]

d. 太郎は駅前をぶらぶら [する/している/*だ]

e. この葉っぱはふちがぎざぎざ [*する/している/だ]

f. 帆布の生地はごわごわ [(?)する/している/だ]

この内で、「~する」が文法的であるのは、a,d,f であり、その中でル形が(習慣相以外で)現在の事象を表すのは、a, f のみである。(f のするに(?)が付くのは、この構造の文では微妙な不自然さがあるからだが、今はそのことは無視して進もう。)

従って、この2つがここでのル形変則用法考察の対象となるが、a については、Ⅵで扱うこととし、ここではf のタイプの文について見てゆく。(ちなみに、b, e は第四種動詞の例である。)

冬になると、足の皮膚がカサカサする。

サメの皮膚は、触るとざらざらする。

これらは、対象の属性を叙述するものであって、「帆布の生地」、「足の皮膚」や「サメの皮膚」が、将来どうなるかを述べたものではないことは理解できよう。

 

鈴木彩香は、eタイプとfタイプのオノマトペの例を比較し、eは視覚的に捉えられる属性、fは触覚的な属性を表すものと判断している(cf. p125)。

eタイプ:

ぎとぎとしている/だ、つやつやしている/だ、でこぼこしている/だ、どろどろしている/だ、どんよりしている/だ, etc.

fタイプ:

すべすべする/している/だ、べたべたする/している/だ、ざらざらする/している/だ、つるつるする/している/だ、カサカサする/している/だ、etc.

 

先のfの例文で、(?)が付いた件についてすこし触れておこう。

従属節の付いた、

外の壁は、触るとざらざらする。

りんごの表面は、少し磨くだけで、つるつるする。

は、特に不自然さはなく、書き言葉、「かたり」のテクストでも用いることができる。

しかし、

(?)外の壁はざらざらする。

(?)りんごの表面はつるつるする。

は、「はなしあい」のテクストで用いられるにはさほど不自然でないが、「かたり」のテクストで、現実の記述として用いられると、やや不自然に感じられる。

(このことの傍証として、「外の壁はざらざらするよ」と「よ」を付けて用いたり、丁寧体に変えたりする(「外の壁はざらざらします」)と、自然に感じられる現象がある。)

テイル形にはそのような不自然さが感じられない。

外の壁はざらざらしている。

りんごの表面はつるつるしています。

ところが、これに「少し磨くだけで」のような条件を表す従属節を加えると、やや不自然になる場合がある。これはル形とは対照的である。

外の壁は、たとえ洗っても、ざらざらする/?している。

りんごの表面は、少し磨くだけで、つるつるする/?している。

これは、①の場合に見られた、相性の悪さの現象によく似ている。

(このような現象の理由は何か?という疑問が浮かぶが、ここでは立ち入らない。)

ここまでテイル形やテクスト的性格と文の構造との絡みについて見てきた。この種の構文も、知覚表出に深い関りがあることから、Ⅶまで概観してから、必要に応じて再度取り上げたい。

 

 

動態動詞ル形の用法について(3)

1.

Ⅱ属性叙述 の用法に移る。

「属性叙述」については、以前簡単に紹介したが、「属性」の時間的性格については、関連する益岡隆志による属性の分類を紹介するに止め、正面からは論じなかった。

益岡による属性のタイプ

 

A 本来的な属性

 A1 カテゴリー属性

 A2 性質属性

B 事象から派生する属性

 B1 習性属性

 B2 履歴属性

(益岡、『日本語文論要綱』p7)

英語圏言語学において、一時的な属性/状態の叙述と恒常的な属性の叙述との区別は、stage-level predicate(SLP) / individual-level predicate(ILP) の区別、すなわち語彙レベルでの区別として、ポピュラーな概念となっている。ただし、ここで触れる余裕はないが、個々の述語が必ずどちらか一方に分類されるのか、されるとしたら文脈による変動をどう捉えるか、といった問題は存在する。

日本語学、例えば益岡の捉え方では、属性は一時的なものでもあり得るし(A2の一部)、習慣が成立する期間のみのものでもあり得る(B1)ため、ILPの概念をそのまま適用することはできない。

また、「属性」を一種の状態と捉える場合、「状態」という概念自体、研究者によって異なって用いられてきたという問題がある(cf. 呉揚、「日本語の<状態><状態動詞>再考」)。

そこで、日本語使用の現状に即して、様々な「状態」「属性」を表す動詞を、時間的性格によって仕分けするという課題も生じるが、ここではその余裕が無いので、一時的な状態/性質、恒常的な状態/性質、さらに(数のような)無時間的な性質について述べることをひっくるめて、「属性叙述」としておく。すなわち、一時的な状態の叙述も、「属性叙述」になり得るものとする。そして、その「属性叙述」という概念は、あえて厳密に規定せずに進む。

 

2.

鈴木重幸「現代日本語動詞のテンス」では、ル形の「非アクチュアルな現在」を表す使用が三分され、前回見た「反復や習慣」の他に「コンスタントな属性の現在」及び「一時的な状態の現在」が含まれる。

「コンスタントな属性」には、ポテンシャルな性質や非連続的なくり返しも含まれる。

水は百度でふっとうする。

あさがおは夏さきます。

つばめは春日本にやってくる。(鈴木、同論文、p24-5)

従って、Ⅰの用法との区別があいまいなものも存在する。

「一時的な状態の現在」は、形容詞の場合、コンスタントな状態との違いは分かりやすい。

○○温泉のお湯はあつい。(コンスタント)

きょうのお湯はばかにあついね。(一時的)(同上、p)

動詞においても、次のような例に区別を見出すことができる。

あの子は(いつも)、小さな声でしゃべるよ。(コンスタント)

今日のあの子は、小さな声でしゃべるね。(一時的)

「コンスタントな属性」に見えるものも、よく考えると「一時的な状態」ではないかと疑われるものが少なくない。例えば、

地球は太陽の回りを自転しながら公転する。

は、地球の「一時的な状態」とは普通言わない。しかし、遠い未来にはそうでなくなるだろうことは知られている。

益岡の習慣属性をも「属性叙述」に含めるなら、その内にも恒常的でない属性の例が多数存在する。

このような方向で、〈恒常的/一時的〉 の境界を相対化/曖昧化することは可能だが、それはここでの関心ではない。それとは別の面に注目してみよう。

鈴木は動詞ル形の「一時的な状態の現在」の例として、次のようなものを挙げる。

・「眠ってますね、相変わらず。」「随分眠るな。もう十時間近く眠っている。」

・「ああ、いい風がくるね。」(p29)

そして次のように述べる。

このようなばあい、動きや変化は発言の瞬間にすでにおこったことか、現におこっていることであるが、これらの文は、主体の個々の動きや変化の実現をあらわしているのではなく、その質的、量的な側面を主体の属性として表現しているといえるであろう。そして、その属性は単に潜在的なものでなく、現に目のまえに顕在化している点で、コンスタントな属性の現在とことなっている。これをコンスタントな属性の変種とみるか、それから派生したものとみるかについてはなお検討を要する。(p29、下線は引用に際して付した。)

鈴木において、コンスタントな属性」文と「一時的な性質」文との区別は、「属性/性質」自体の時間的性格の差以上に、このような使用の差にあるような印象を受ける。

下線部に注意したい。これらの文と「主体の個々の動きや変化の実現をあらわす」文とは、どこで区別されるのだろうか?区別があいまいになる場合はないのだろうか?

当該の文の特徴を見ておこう。以下でも鈴木論文を主に参考とし、例文もそこから多く採る。

 

3.

「コンスタントな属性」文の場合によく見られる特徴や構文としては、次のようなものが挙げられる。

・益岡の謂う「主題+解説」構造をとる。主題は「~は」で示される。

・主語や対象語が総称的genericである。

世間は色々なことを言いますわ。

うちの子はマンガばかりよむ。

・一般的な条件を示す従属節(「...すれば、...したら、etc」)や副詞句(「常に、春に、100℃で、etc」)を伴う。

(この点において、Ⅰの用法との比較対照が可能である。前回言及した、「副詞による量化 A-Quantification」の観点」。)

・評価的な修飾語を伴う。

彼はじょうずに英語をはなします。

「あの人は大変にぎやかな人ですね。」~「ええ。よくしゃべります。」

・意味役割の面から。動態動詞が、<対象theme>の特徴付けに使われる場合、<動作主agent>は文表層から脱落し、<対象>は、「~は」の形で主語/主題となる。

(<動作主>が酒を米からつくる)⇒酒は米からつくります。

(<動作主>が、このおもちゃを電池でうごかす)⇒このおもちゃは電池でうごかします。

このような構文は、受け身文による属性叙述(「酒は米からつくられる」)と比較されるが、Ⅶ自発態/可能態の属性叙述(「島が窓から見える」)との関連も感じさせる。<動作主>の脱落はこれらに共通する。

 

4.

「一時的な性質」文の特徴(ここでは語用論的なものも含む)として、多く見られるのは、

・評価的な修飾語を伴う場合。

随分眠るな。」

「ああ、いい風がくるね。」(鈴木、p29)

・目の前に顕在化している動作・状態について言われる。(すぐ上の例文もその例になっている。)

「ほら、みてごらん、ぼく、かもいに手がとどくよ。」(p29)

・目の前の行為・状態を取り上げて、非難、感心、あきれ、等、感情的評価の気持を込めて使われる場合。

「おまえは本当に俺を馬鹿にするね

「聞捨てならんことをいいますね。どうして私が生徒をたきつけたというんです。」(p29)

・「はなしあい」のコンテクストで、相手に同意を求めるように使われる場合。上の諸例からもそれは見て取れようし、「ね」「よ」等の終助詞の使用もそれを現わしている。共同注意を促し、合意形成を図る発話。

 

5.

人称制限は、一般的には両方とも存在しない。

テイル形への移行について。コンスタントな属性の場合は、習慣相の「非限定的解釈」から「限定的解釈」への移行に類似する(前回を参照)。

うちの子はマンガばかり読む。

うちの子はマンガばかり読んでいる。

ここでも、副詞句、従属節との共起関係が問題となるが、今は立ち入らない。

 

ただし、恒常的な性質の場合、テイル形で述べることは(一般的な文脈では)不自然となりやすい。

あさがおは夏さきます。

?あさがおは夏さいています。

6の倍数は、2でも3でも割り切れます。

?6の倍数は、2でも3でも割り切れています。

 

一時的な性質の場合も、テイル形は可能である。

「ああ、いい風がくるね。」

「ああ、いい風がきているね。」

ただし、テイル形での使用がどこか不自然に感じられる場合も多い。

(?)お前は本当に俺を馬鹿にしているね。

?聞き捨てならんことを言っていますね。どうして私が...

これが単に個々の行為を記録する用法の場合は、テイル形でも不自然ではない。

(あの時)おまえは本当に俺を馬鹿にしたね/していたね。

(あんたは、あの時)聞き捨てならんことを言ったね/言っていましたね。

 

ここに見た、属性叙述とテイル形の相性の悪さには、やはり、属性を表現するという用法の性格が影響していると考えられるが、ここでは立ち入らない。

(工藤真由美は、<特性規定>という言葉を使って、これらの差異について述べている。(cf.『アスペクト・テンス体系とテクスト』p159)

また、説明は繰り返さないが、属性叙述と過去テンスをめぐって、ムードの’タ’、叙想的テンスという現象があり、当ブログでも関心を寄せてきた。そこでも述語のアスペクト的性質、<状態性>が隠れたポイントであった(cf.”叙想的テンスと状態性”)。

さらに付け加えるなら、このように属性/特性を規定する文の場合、「持続」のアスペクト(つまり)imperfectiveではなく、perfectiveが選好されることをどう捉えるか?またそのような文の使用をどう特徴づけるか?というのが、当ブログがウィトゲンシュタインアスペクト知覚論や美学論を読みつつ、ずっと保持してきた問いである。cf. 2021-10-25, 2022-02-11

 

話し言葉への変更は、一般に問題はない。特に、「はなしあい」のテクストにおいて、相手の同意を得るかのように、「ね」「よ」「な」等の終助詞がしばしば用いられることに注意したい。

 

そこで、ここまで見てきた用法のTTやTo についてどう捉えるかという問題であるが、のちに見てゆく特徴的な構文を含めて、非常に多種多様な例が存在するため、今の段階でまとめるのは止めておこう。

 

6.

さて、Ⅱ属性叙述 に分類できるル形動詞文のうちに、特殊な構文をとるものが多数観察される。第四種動詞のル形用法もその一つであった。次回から、それについて見てゆこう。

 

動態動詞ル形の用法について(2)

1.

前回、ル形の変則的用法の分類として、次を挙げた。

Ⅰ 反復や習慣を表す用法
Ⅱ 属性叙述
Ⅲ 一般化して表現する用法
Ⅳ 実況解説的用法
ⅴ 遂行動詞や態度表明の動詞
Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出
Ⅶ 可能態、自発態

以下、順に見てゆきたい。まずは、細かい部分には立ち入らず、それぞれを概観できる程度に、各用法について把握してゆこう。

 

2.

Ⅰ反復や習慣を表す用法 については、既に当ブログとして、次のように捉えてきた。

・野田高広(「現代日本語の習慣相と一時性」)の謂う「非限定的解釈」習慣文の一部をなすものであり、全体として、「限定的解釈」習慣文と対立する。(「限定的解釈」習慣文は一般にテイル形をとるが、「非限定的解釈」習慣文にも、テイル形をとるものがある。)(cf. ”テイル形と習慣用法”)

・特徴的なのは、topic time(TT)が複数化されることであるが、それらのTTは、time of utterance(TU)を含むものばかりであってはならない(”第四種動詞の周辺(10)”)。ゆえに、現在の習慣を表す文であっても、一般的な現在テンスの文のように、「すべてのTTについてTT⊃TU」と解釈することはできない。

・複数のTTは一種の”量化”を受けるとみなされよう。その”量化”がどのようなものであるか、また”量化”されるTTの性格がどういったものかは、個々の実例から学ぶ必要がある。

・ただし、TUは、文のテンスの決定に役割を果たしている。すなわち、ル形習慣文の場合、TUが複数のTTを包括するdomainに含まれる(現在の習慣)か、またはそのようなdomainがTUから見て未来にある(未来の習慣)。domainがTUから見て過去にある場合は、タ形をとる(過去テンス)ことになる。TUは、domainの位置がそれとの関係で決定される参照点となっており、その関係によって文のテンスが決定される。その意味でtime of orientation(To)の地位にあると言えよう。

以上から、ル形習慣文の場合、TTが複数化・”量化”されているが、To=TUである、ただし、TT⊃TUという定式は成り立たない、と整理しておこう。

 

3.

前回挙げた、4つの観点から見ておく。

構文的特徴について。

TTのdomainは、しばしば、副詞や副詞節によって示される。すなわち、Ⅰの用法は、「時々、度々、よく、毎年、...ごとに、このごろ、今は」といった副詞や、「...して以来」「...のときは」「...の場合」といった副詞句・従属節を伴うことが少なくない。

この頃は毎日八時に起きるよ。

彼は、暇ができると大抵、映画を見にゆく。

心配しなくていい。君の英語は、レッスンにゆくたびに、上達する。

それゆえ、形式意味論でいう、「副詞による量化 A-Quantification」(cf. David Lewis "Adverbs of Quantification" , Angelika Kratzer "Conditionals " )の観点から分析することが可能であろう。この観点において、ⅠとⅡの類似と相違の明確化が期待できるかもしれない。

人称制限については、一般には問題ないだろう。

 

テイル形への変換については、上で触れたように、2つの場合を区別しなければならない。

一つは、「非限定的解釈」の領域で、反復される個々の行為が、異なったアスペクトにおいて捉えられる場合。

a. 私が訪問する時、弟はいつも酒を飲む。

b. 私が訪問する時、弟はいつも酒を飲んでいる。

 

(※ついでに言えば、bのような「非限定的解釈」テイル形習慣文の存在も、TTの複数化を想定したり、TT⊃TUという現在テンスの定式を放棄したりする根拠の一つである。

たとえば、aのようなル形の「非限定的解釈」習慣文に対する、上述とは異なった解釈として、TTはTUを含んだ一つの長い期間であり、複数のTSitが、いずれもTT⊃TSitという条件でそこに含まれる、というものが考えられよう。ここではTTは複数化されていない。

この場合、一つのTTについて、TT⊃TUという現在テンスの定義が満たされているし、個々のsituationについて、TT⊃TSitというperfectiveの条件も成り立っている。

しかし、テイル形「非限定的解釈」習慣文bの場合、この図式の内側では、imperfectiveの条件TT⊂TSitが成り立つのは次の場合のみである。

しかし、bは、次のような場合にも成り立つのでなければならない。ここでTT⊂TSitは成立しない。
 

ゆえに、この解釈は困難を抱える。

そこで、TTは、「私が訪問する時」のような条件節によって示される、不連続な複数の期間から成るとしよう。

その中で複数のsituationがperfectiveやimperfectiveの条件を満たして成り立つことが「非限定的」習慣文の構造である。

しかし、その場合、TT⊃TUという、一般的な現在テンスの定義はどうなるだろうか。

例えば、b文は、次のような場合には真となるはずである。

ここでは、imperfectiveの条件TT⊂TSitが成り立っている。ただし、現在テンスの定義TT⊃TUは満たされない。

すなわち、「私が訪問する時、弟はいつも酒を飲んでいる。」は、この図のように、必ずしもTUに弟が酒を飲んでいることを意味しない。しかし、現在テンスの定義TT⊃TU、imperfectiveの条件TT⊂TSitがともに満たされるのであれば、TU⊂TSitでなければならない。つまり、発話時に弟が飲酒していることになる。

ゆえに、上の定義はこの場合には当てはまらない。)

もう一つの場合は、「非限定的解釈」から、「限定的解釈」に移行することでテイル形をとる場合である。

あの家族は、いつも朝食にはパンを食べる。

あの家族は、一週間前から、朝食にはパンを食べている。

期間を表す副詞句と「限定的解釈/非限定的解釈」との関係という問題は、”第四種動詞の周辺(8)”で触れたが、簡単に見通せるものではないから、ここでは立ち入らない。

話し言葉において、一般には丁寧体(~ます)が使える。ただし、「住む、つき合う、愛用する」といった「長期動作動詞」においては、話し言葉あるいは「はなしあい」のテクストでは、ル形習慣的用法がとりづらいこと、その場合「かたり」のテクストにおいては許容度が上がりやすいこと、を、以前取り上げた(”第四種動詞の周辺(9)”)。これに関して第四種動詞との類似点についても触れた。

 

 

動態動詞ル形の用法について(1)

1.

第四種動詞の問題から、time of orientation(To)の不定化の話題に移っている。前回触れた、日本語 動態動詞(非−状態動詞)の「変則的用法」について見てゆく。ここで「変則的」と呼ぶものは、ル形で未来の事象を表現する、という一般的用法から外れたものををひとまとめにしている。それらの中にToの不定化の例が見られるのでは、と考える。

最初に、ごく大雑把な分類を挙げるつもりである。これは、特定の研究者の分類そのままではなく、それらを参考に暫定的にまとめてみたものである。それぞれの内部に特徴的な使用のまとまりがある場合は、各論で言及する。用法の全体を網羅しているつもりはなく、必要が生じれば後で分類に修正を加えることもあり得る。

今後、各用法を眺める視点となるものとして、①特徴的な構文、項構造②人称制限の有無③テイル形③話し言葉の許容性、という4つの表徴をあげておく。

①文を形成する項の意味格(主題役割)に注意するなどして、特徴的な構文や項の構造が存在する場合に、それを取り出す。

②人称制限については、以前に少しだけ触れてウィトゲンシュタインの読者として見逃し得ない現象であることを説いた。下の2. で感情形容詞を例にもう一度簡単に説明する。

③当該の用例のル形語尾をテイル形に変えたときに、その文が文法的であるか否か、文法的にするために他の部位を変化させる必要があるか、変えることによって全体の文の意味はどのように変化するか、2つの形の間に重大な使用条件の差異があるかどうか...等について見てゆく。

④用例文のル形語尾を丁寧体に変えた場合に、一般的な使用環境において不自然になるか否か、また、「はなしあい」(工藤真由美)の場ではどうか、に注意する。

以上の文法性、制限性、許容性等の判断は、一般的な使用の範囲で行なう。まずは、細かいところを突くのではなく、大まかな判別から話を進めてゆく。

くりかえすが、網羅的なリスト作りではなく、今後の探究の手掛かりを作るつもりで臨む。

 

2.

日本語の形容詞は、表す内容から、属性形容詞と感情形容詞とに分けることができる。(cf. 益岡・田窪『基礎日本語文法ー改訂版ー』p21)

日本人は勤勉だ。(属性形容詞)

私は車が欲しい。(感情形容詞)

「~い」で終わるイ形感情形容詞は、人称制限という注目すべき特徴をもつ。

感情形容詞を述語とする文の主体は、通常、一人称に限られる。ただし、疑問文に限って、二人称も可能。

あなたは車がほしいですか。

?太郎は車がほしい。

過去テンスでは、制限が弱まることがある。

幼馴染が亡くなったことを聞いて、道子はとても悲しかった。

これにはテクストの性質が関係する、という重要な指摘がある(金水敏「「報告」についての覚書」)。すなわち、小説の地の文のような「語り」(金水)、「かたり」(工藤)のテクストにおいては、このような制限解除が見られる。しかし、金水が「報告」と呼ぶもの、あるいは、工藤の謂う「はなしあい」のテクストにおいては、通常は解除されない。

また、「~らしい」「~ようだ」「~のだ」等の接尾辞の付加によって、二、三人称が可能になる。

どうやら、あの子は犬が怖いらしい

わかった、君は本当はうれしいんだろう

これらの現象は、「日本語感情形容詞の人称制限」の一端に過ぎないが、その詳細な確認はここでのテーマではない。これらに類似するが異なってもいる現象が、感情や思考をあらわす動詞をめぐっても生じることはよく知られる。ここで「ル形の変則的用法」と呼ぶものには、そのような動詞によるものが数多く含まれる。したがって、人称制限は、ここでの重要な視点の一つとなる。

 

3.

さて、ル形の変則的用法については、次のように分類しておきたい。

 

Ⅰ 反復や習慣を表す用法

Ⅱ 属性叙述

Ⅲ 一般化して表現する用法(cf. 『基礎日本語文法』p109)

Ⅳ 実況解説的用法

ⅴ 遂行動詞や態度表明の動詞

Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出

Ⅶ 可能態、自発態

 

用例と説明は次回以降に回すが、次の点を押さえておく。

・ⅥやⅦに含まれる動詞は、状態動詞とされる場合もあるが、ここでは動態動詞に数えておく。

・これらのうち、前回までの流れで「time of orientation(To)の不定化」「topic time(TT)の不定化」という視点を適用できそうなものは、Ⅰ~Ⅲにすぎないように見える。だが、テクストの性格の影響や、ⅡとⅥ、Ⅶとの関連も、当ブログが関心をもつテーマであり、ここで触れておく価値がある。

 

 

 

 

第四種動詞の周辺(14)

1.

第四種動詞の周辺(11) で述べたように、「はなしあい」のテクスト(cf. 工藤真由美)では、time of orientation(To)=time of utterance(TU) というdefault解釈(phono-deictic解釈)の圧力が強く、発話のテンスは、それに従って解釈されるのが通常である。

ここで、音声による発話、話し言葉、「はなしあい」のテクスト、という3者を区別しなければならない。

特定の環境が整っていれば、音声による発話でも、default解釈を免れることは容易である。例えば、20××年のある時刻に、上演中の劇場の舞台上で、ある俳優が「敵は本能寺にあり!」と叫んだとしても、その敵がその時刻に本能寺に存在することが主張されている、と受け取る人はいない。演劇、朗読会、ものまね、等の環境下では、われわれは、無理なく非default解釈に移行している。ただし、これは、「はなしあい」のテクストにおける発話ではない。

このような環境で話し言葉が使われることもあり、同様に、非default解釈を受けることが可能である。ただし、話し言葉が使われていれば即「はなしあい」のテクストなのではない。「はなしあい」のテクストにおいては、一般に話し言葉が使われるであろう。しかし、話し言葉と「はなしあい」のテクストとは異なった概念である。

だがさらに、相対テンスの使用が頻繁に行なわれていることを思い出せば、「はなしあい」のテクストにおける非default解釈も、何も珍しいものではないことに気づく。相手に面と向かって「あの日あなたは、祝賀会場で、気分が悪いことを訴えて帰りましたよね?」と言う場合、「あなた」がこの発話時に気分が悪いこと、が話題に上がっているのではない。修飾節”気分が悪い”での非default解釈への移行は自然に行なわれる。そして、”帰りました”の部分では、default解釈に戻る。

上の2つの例では、当該の文や修飾節のToは、それぞれ発話時から遡った過去のある時刻とするのが妥当である。

しかしそれでも、差し向かいで直接に会話をするという状況(すなわち、「はなしあい」のテクスト)では、間接話法や連体修飾等の場合を除いて、To=TTというテンス解釈(default解釈)が極めて強力である、とは言える。

 

2.

以上、非default解釈の可能性を確認した上で、現在テンスの変則的諸用法を非default解釈(特に、Toの非TU化、不定化)によって説明する可能性を考えてみたい。

まず日本語動詞の現在テンスにおける、テンスとアスペクトの関係について。動態動詞(非-状態動詞)については、基本形(ル形)は、通常、未来の事象を表す。現在の事象を表すには、ル形ではなくテイル形を用いなければならない。それに対し、状態動詞のル形は、現在の状態を表す。

ただし、この原則に反しているように見える、動態動詞ル形の変則的用法がある。それらは稀な例外ではなく、われわれが日常的に使用する、馴染み深いものでもある。

その紹介は次回以降に回すが、その一部をToの非TU化、不定化の観点から捉えることを試み、あわせて、これらの用法を、「はなしあい/かたり」という、テクストの性格の問題と絡めて追究する、という課題がある。それが、ここまで見てきた、第四種動詞の用法と 話し言葉/書き言葉との関連、の解明につながることが期待される。

 

3.

ただし、その前に、To(あるいはTT)の「不定化」という概念について、言及しておかなければならない。

形式意味論の研究者として高名なBarbara H. Partee は、1973年の論文 "Some Structural Analogies between Tenses and Pronouns in English" において、テンス形態素の使用を人称代名詞の使用と比較した。そして、テンスには、代名詞の場合と同様に、deicticな用法とanaphoricな用法の区別が見られることに注意した。さらに、Prior以来のtens logicとは対立的に、テンスは、量化子のような "sentence operator"ではなく、変項variableのように見なすべきであると主張した。

文において、あるtopic time(TT) が示され、それはdefiniteであることも、indefiniteのこともあり、量化されることもできる、とするWolfgang Klein の立場(cf. Klein, Time in Language, p7)は、Parteeの延長上にあると言えるだろう。

そして、Toが何時も必ずTUに一致するわけではない、とするわれわれの立場では、文あるいは節において(TTの他に)あるToが示され、それはTUに一致する場合が多いが必ずしもそうではない、ということになろう。

そして、そのようなTTやToが indefiniteである場合が、ここでいう「TT(To)の不定化」にあたる。ここで重要なのは、日常言語がTTのdefinite/indefiniteをシステマティックにマークする手立てを備えていないことである(Klein, p7)。

 

ただし、あらかじめ注意しておくべきことがある。

a.代名詞pronoun や変項variable へのアナロジーが孕む問題

Parteeは、形式意味論で、代名詞がsentence operartor ではなく変項のように扱われることから、似たような振舞いをするテンス(形態素)も、変項のように扱われるべきである、と主張した。しかし、形式意味論のように量化論理学を下敷きにした場合、代名詞の扱いがいろいろな問題を孕んで容易でないことはよく知られている。

特に、anaphoricな用法の解釈において、e-type pronounの理論、Discourse Representation Theory, Dynamic Semantic approach 等諸説が対立するが、定説はない(cf. "Anaphora" in Stanford Encyclopedia of Philosophy)。

そしてテンスを変項に類比するに当たっては、その上に、さらなる独自の問題が予想される(cf. 荻原俊幸『「もの」の意味、「時間」の意味』第3章)。

 

b. indefinite/definiteの概念

定性/不定性(definiteness/indefiniteness)の概念が形式意味論でどのように扱われているか、不勉強で理解できていないが、英語学での扱いは、それが一筋縄でいかないことを予想させる。特定性specificity と違い、定/不定性は、間主観的な問題なのである。

...定性とは、問題になっている名詞の指示対象を聞き手は唯一的に同定している(uniquely identify)はずだと話者が考えているかどうかを表す概念である......

そして、聞き手が指示対象を唯一的に同定しているにちがいないと話者が考えている場合を定、唯一的に同定しているとは考えていない場合を不定と呼ぶことにしたいと思います。(石田秀雄『わかりやすい英語冠詞講義』p112)

それに対して、ここでは新たに特定性(specificity)という概念を導入することにしたいと思います。......「特定性とは問題となっている名詞が具体的に指示している対象を話者が頭に思い浮かべているかどうかを表す概念のことである」と定義することにしましょう。この定義からもわかるように、特定的かどうかということは話者自身にとっての関心事であり、聞き手が指示対象をどうとらえているかという問題とはまったく関係がないという点で、前章で扱った定性とは大きく異なるものです。(同書、p178)

英語の定冠詞、不定冠詞の使用が間主観的な要因によって決まるのと同様に、TTやToの表現においても、間主観性の問題を考慮しなければならないであろう。

 

c. finite/infiniteの概念

definiteness/indefinitenessの対立とは別に、英語の動詞(英語のみではないが)には、定形finite form/非定形non-finite formの区別がある。また、infinite verbやinfinitive不定詞という概念もあり、日本語では、これらも定/不定という語を使って表される。動詞のfinite/non-finiteは、テンスの決定と密接に関わるが、TT,Toの定/不定と紛れてはならない。

 

このように、「TT,Toの不定化」と言っても、その基礎は極めてあいまいなままであること、その上であえて議論を進めることを頭に入れておきたい。

 

 

 

 

 

第四種動詞の周辺(13)

1. 

影山や西田が挙げた、第四種動詞他のル形用法は、漢文の読み下し文を思わせるところがある。特に、西田(5)の例は、過去の事象を述べながらもテンスが現在化されている点で、そう感じさせる。

(5) 菊池序光(生没年不詳) 江戸時代後期の装剣金工。菊池序克にまなび、のちに養子となって菊池家2代目をつぐ。柳川派の手彫りにすぐれる。江戸神田にすむ。本姓は中山。通称は伊右衛門

古典的な漢文を含めた中国語は、無テンス(無−絶対テンスと言うべきか?)言語の例によく挙げられる。してみれば、この文の「現在テンス」は、むしろ「無テンス」と見ることができるのではないか、と思われてくる。また、他の第四種動詞のル形用法も同様に、現在テンスよりもむしろ「無テンス」とみる可能性について、考えされられる。

(残念ながら、日本語史における語法の変遷や漢文の影響に関する知識がないので、突っ込んだ話はできない。)

ここから素朴な発想で、第四種動詞のル形用法では、「無テンス」ないし「テンスの中和」がポイントになっているのではないか、と考えてみたくなる。この場合の「テンスの中和」とは、time of utterance(TU)とのつながりの弱化、さらに、time of orientation(To)の曖昧化(不定化)を意味する。

以前、topic time(TT)の「不定化」について考えた。野田高広の謂う「非限定的解釈」習慣文、またKlein の" habitual"  の構造について、矛盾なく解釈するためには、TTを複数化した上で、現在テンスとTUとの結びつきが弱められることが必要だった(”テイル形と習慣用法”)。そして、結果的に、Toの「不定化」という発想へと導かれた。

関連する概念として、鈴木重幸の「非アクチュアルな現在」がある。

これは、動きや変化の現実の特定の一つの時間への関係づけが捨象または一般化されて、不特定、不定数の時間に関係づけられること、あるいはその可能性があることをあらわすものである。発言の瞬間にはその動きや変化は非アクチュアル、ポテンシャルである。非連続的に不定数くりかえされる動きや変化をあらわしたり、主体(対象)にポテンシャルに関係して、それを特徴づける動きや変化をあらわしたりする。(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」、p16)

鈴木は、「非アクチュアルな現在」として、3つの種類、

1)非連続のくりかえしの現在

2)コンスタントな属性の現在

3)一時的な属性の現在

を挙げている。内容の検討は後に回すが、このように鈴木の「非アクチュアルな現在」は、持続的な属性の他に反復性、習慣性をも含む概念である。それらの背後に、To, TTの「不定化」を想定してみたい。

 

2.  

ただし、「非アクチュアル」でありえるのは現在だけではない。「非アクチュアルな過去」、「非アクチュアルな未来」に相当する文を見出すことも容易であり、鈴木もそれらについて論じている(p31~, 53~)。

鈴木は、「非アクチュアルな過去」に、1)過去の一定の期間における非連続のくりかえしの過去、2)過去の一定の期間におけるコンスタントな属性の過去、を挙げている。

あの時もさ、君はよく指を切ったぜ。

秀吉は、小さいときの名を日吉丸といった。( cf. 鈴木、p54)

「非アクチュアルな現在」がいずれもル形で表されるのに対し、「非アクチュアルな過去」はタ形で表される。ここには形態として現れたテンス的対立がある。

それに対し「非アクチュアルな未来」は、「非アクチュアルな現在」と、動詞に形態的な違いはない。「状況語やその他の条件(文脈や場面など)で、現在をふくまないこと、未来だけにかかわることがしめされると、それは非アクチュアルな未来の意味となる。」(鈴木、p31)

以上のような「非アクチュアル」の表現においては、Toが「不定化」されているものの、Toがとり得る領域domainについては、動詞のテンス・フォームが示す範囲に含まれており、さらに副詞句や文脈によって限定されることになる。

 

これに対し、上で再引用した西田(5)の例文は、明らかに過去の事象でありながら、ル形で表現されている。これは、英語学等で、"Praesens Tabulare" と呼ばれるものに相当するだろう。

この用法では、一連の歴史的事実が単に記録され、それらがいつ起きたのかもはっきりと述べられる ー過去のものとして。 心理的な「感動」、誇張、ヴィヴィッドな語り、そのようなものは全く存在しない。それらとは対極的に、過去の事象が端的に述べられる。(Wolfgang Klein, "How time is encoded" p12)

ここで表現されているものを益岡の謂う「履歴属性」であると、すなわち(5)文は属性叙述文であると考え、属性叙述という観点から考察することも可能であろう。いずれにせよ、ここでは、テンス・フォームが、事象の現実に即したものではなくなっている。

 

3.

このように、「テンスの不定化」「テンスの中和」といった用語を使いたくなるものの、それらが指す言語現象には多様性がある。

影山や西田が挙げた第四種動詞のル形用法と、西田(5)のような用法を、同じカテゴリーに入れてよいかどうかも、簡単に判断することはできない。

例えば」、過去の事象を述べる際に現在テンス化するような事例を「テンスの中和」と呼び、「非アクチュアルな過去」のような、過去テンスを保持したまま一定の期間におけるくり返しや属性を表現する場合を「Toの不定化」と呼び分けることができるだろう。しかし、その場合、第四種動詞のル形用法を「テンスの中和」の例としてよいかどうかは、色々な角度から検討しなければ分からない。テンスの変則的用法全体について把握することなしに、「テンスの中和」について確実なことを語るのは難しい。

しかし、ここでは、暫定的に、様々な諸例を、「テンスの中和」という観点から眺めてみることにしたい。