表出のディレンマ おまけ

 

   「信ずる」「願う」「欲する」といった動詞が、「切る」「噛む」「走る」といった動詞もまたとるような文法的形態をすべて示すことを、自明のこととは見なさず、何かきわめて奇妙なことと見なせ。(PPF93 藤本隆志訳)

 

 もちろん、ウィトゲンシュタインは、「信ずる」「願う」「欲する」といった動詞がそのような文法的形態を(すべては)備えない言語のほうが、すべての文法的形態を備える言語に比して、「より正しい」あるいは「より自然である」と言おうとしているわけではない。
むしろ、「以前には問題の無かったところに敢えて問題を呼び起こす」(RPPⅠ1000)つもりで言っているのであり、「あなたを不安にする別の物事に驚くように、それに驚きなさい」(PI524)と言いたいのである。
「そのとき、問題は、あなたがその一つの事実を別様に受け取ることによって消え去るだろう。」(PI524)

 

 ただし、非ウィトゲンシュタイン的見解にある者には、上述のように「見なす」ことも、「驚き」も、そもそも無縁だろう。むしろ、姿勢転換(「その一つの事実を別様に受け取る」)を少しでも促すものがあるとしたら、「信ずる」「願う」「欲する」といった動詞がそのような文法的形態を全ては示さない言語が実際に存在すること、であろう。

 

では、現実に、そのような言語は存在するのだろうか?
あれこれ、見知らぬ国の言語を探すまでもない。日本語に向き合おう。

 
日本語の形容詞は、英語やフランス語と違って、繋辞なしに文章の述語となることができる。その点では、英語やフランス語の動詞に似ている。
その中で、属性形容詞、感情形容詞という分類がなされる。

◆(2)のような感情形容詞には他に次のようなものがあります。
 怖い、恐ろしい、悲しい、うれしい、つらい、苦しい、痛い、眠い、嫌だ、好きだ、心配だ、苦手だ・・・
 (初級を教える人のための日本語文法ハンドブック、庵功雄 他、 p372)

「イ形容詞」の感情形容詞において、3人称の使用は通常制限を受ける。

感情形容詞は、人の内面の状態を表す点で主観性の強い表現である。
したがって、感情形容詞を述語とする文の主体は普通、1人称(疑問文では2人称)である。・・・
例(5)あなたは車がほしいですか。
 (6)?太郎は車がほしい。
(基礎日本語文法 ‐改訂版-、益岡隆志・田窪行則、p21)

 

◆第三者が感情形容詞の主語になるのは次の場合です。
①「~がる」を付けた動詞を用いる場合(「好きだ、眠い」を除く)

(6)田中君はいつもちょっとのことですぐ怖がる

・・・
②伝聞や様態の表現や「~のだ」文

(8)田中君は悲しそうだ

・・・
③タ形などで描写された過去の事実

(11)彼の無神経な態度にみゆきはとても悲しかった
・・・

これら①~③の性質は「ほしい」「~たい」(願望)と共通した性質です。
(初級を教える人のための日本語文法ハンドブック、庵功雄 他、p374)

 

コトの内容を自分の願望として伝えるのが、「~たい」です。・・・留学生は自分以外の人にも使ったりして、変な日本語になることがあります。


22)?私の家族は日本に来たいです


「~たい」は話者の気持ちを表す表現ですので、話者以外の人には使えず、例文のような場合は、「日本に来たがっています」「日本に来たいようです」「日本に来たいみたいです」などと言わなければなりません。
(日本人のための日本語文法入門、原沢伊都夫、第7章)

興味深いのは、疑問形に限って2人称でも普通に用いられること、過去形で人称制限が取り払われること、である。

さらに、感情形容詞に似た人称制限がある語句に、「~と思う」がある。

17)○(私は)日本が試合に勝つと思う。
18)?田中さんは日本が試合に勝つと思う。


話し手である私が「~と思う」と言うのは自然ですが、主語が「田中さん」になるとなんか変ですね。・・・
ではどうしたらいいかと言うと、「田中さんは日本が試合に勝つと思っている」と言えばOKでしょう。そうすると、今度はどうして「思っている」なら言えるのだろうかという疑問が湧いてきます。
(日本人のための日本語文法入門、第8章)

このように、日本語においては、心理的概念を表す語が人称制限をうけることは少しも珍しくない。

似た様な例は、ル形をとる心理動詞(の一部?)にもみられる。
例えば、心配する、反省する、うんざりする、など。

私は、彼の将来を心配する/している。
?彼女は、彼の将来を心配する。
彼女は、彼の将来を心配している。

 

私は、彼女の行動にはうんざりする/している。
?彼は、彼女の行動にはうんざりする。
彼は、彼女の行動にはうんざりしている。

「思う」も、ル形心理動詞も、3人称現在が通常用いられないのに、「ている」をつけると使用可能になる。
ただし、以上のような制限は、主に日常会話を中核とする言語活動(バンヴニスト風に言えば、discours?)において、の話である。

例えば、脚本のト書きの中では、「彼女は、彼の将来を心配する。」のような表現も違和なく用いられる。

 

これら、テンス、アスペクト、ムードが関わった人称制限およびその解除については言語学において様々に論じられ、説明されている。

 

そこで、次のように問うことが必要だろう。
これらの事実は(ウィトゲンシュタインが謂うところの)「哲学」とどこまで関わるのか?言い換えれば、「哲学」は、このような言語使用の事実に対し、どこまで関わるべきか?
これらの事実に対する「説明」はどのような意義をもっているのか?そのような説明の「哲学的意義」は何か?