叙想的テンス、叙想的アスペクト(2)

1.

前回触れた日本語の「た」の用法に関連して、「ムードの‘タ’」「叙想的テンス」という概念を提示したのは、寺村秀夫である。

日本語を勉強している外国人の学生の多くがふしぎに思う過去形の使いかたに、次のようなものがある。

 たとえばある学生が奨学金がもらえるようになった、と言ったのに対して、

(37)ソレハヨカッタデスネエ

と言うような場合の「タ」である。店で買いものをしたときに店員が

(38)アリガトウゴザイマシタ

というのや、また人を待たせたときの、

(39)待タセテスマナカッタネ

という、その「タ」も同じ性質のものであろう。祝福の気持や、感謝とか謝りの気持は現在のものであるのに、どうして過去形を使うのか、という疑問である。

(寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味 Ⅱ』p89-90)

 

述語の形と時との関わりのきまりを観察し、体系的に記述するためには、事実に密着して、それを客観的に描こうとする場合ー「叙実的」用法ーと、事実を話し手がある特別な心理状態で見、その事実に対する自分の反応を表そうとする場合ー「叙想的」用法ーとに分けて考える必要がある。

(寺村秀夫、前掲書、p77-8)

 

寺村は、金田一や三上の研究を受け、事実としての時間関係とは異なる原理で決定されるかのように見えるタの振る舞いを「ムードの‘タ’」あるいは「叙想的テンス」と名付け、実例に基づいて分類・整理を行った。

金水敏、「テンスと情報」)

 寺村は、「叙想的テンス」を次のように分類した。(寺村、前掲書、p105~、カッコ内は例文)

(ⅰ)期待(=過去の心象)の実現(あ、あっ!)

(ⅱ)忘れていたことの想起(どこまで帰るんだったかね?)

(ⅲ)過去の実現の仮想を表す過去形(ターンの失敗がなかったら21秒台は出た。)

(ⅳ)さし迫った要求([野次馬に]帰っ、帰っ!)

(ⅴ)判断の内容の仮想(早く帰って寝ほうがいい。)

 このうち、(ⅰ)(ⅱ)については、前回見たように、フランス語の半過去の用法に類似したものが存在する。

すなわち、(ⅰ)に対して、前回の例文でいえば、「Je t'attendais型の半過去」の

(5)(見つけて)Ah! vous étiez là. ああ、そこにおられたのですね。

が類似し、

(ⅱ)に対しては、前回の例文(8)~(11)、例えば

(9) C'est bien vous qui parliez lors de la prochaine réunion?

(次の会合で話すのは確かあなたでしよね?)

が対応している。 

(ⅰ)(5)は、発話以降も続く事象を表現している、それに対し、前回見たように、

「Je t'attendais型の半過去」には、発話時の直前まで継続している事象を表すタイプのものがあった。(前回の例文(1)~(3))

(2)(人に会って)Je te cherchais.(君を)探していたんだ。

(3)(人が入ってきて)Je dormais. 寝ておりました。

ところが、日本語にもそれに対応する、「た」による表現がある。

・(手帳を見て思い出して)しまった、忘れてた。

・そうだ、こんな本を探していたんだ!

(大久保伸子「ムードの「タ」についてーモダリティと過去を表す仕組み」より)

 

このような類似を受けて、「ムードの‘タ’」と、フランス語の半過去の用法との比較研究もなされている。

(東郷雄二「半過去形の叙想的テンス用法」、大久保伸子、前掲論文、等)

 

2.

英語の場合はどうか?

寺村によれば、(ⅱ)忘れていたことの想起(どこまで帰るんだっかね?)に関して、

英語にもよく似た過去形の用法がある。

(107)What was your name?

というような会話表現がそれだ。しかし、範囲は日本語よりずっと限られているようだ。たとえば、「今晩ハパーティーガアッタ」を、

(108)There was a party this evening.

とは言えないようである。

(寺村秀夫、前掲書、p108)

日本語、フランス語の場合に比較して、東郷は次のように述べている。

日本語においては「ムードのタ」もしくは叙想的テンスはきわめて活発である。本稿で見たように、フランス語でも日本語に較べれば限定的ながら、叙想的テンスとしての半過去の用法は、話し言葉を中心に観察される。これにたいして、英語では叙想的テンスとしての過去形は不活発であると言われている。ただし寺村(1971)は英語でも(40a)のような用法があることに触れており、金水(1998)もDan Slobinの私信を間接的に聞いたとして(40b)を挙げている。(40b)は探し物が見つかったときの発話で、WASにイントネーション核があることに注意しよう。

(40)a. What was your name?

      b. Oh,it WAS there.

(東郷雄二、前掲論文、p22)

 つまり、英語にも「叙想的テンス」的用法は存在する、ただし、日本語、フランス語ほど盛んに用いられはしないらしい。

 

その他には、フランス語と同様に、「丁寧」「婉曲」表現に過去形が用いられることがある。例えば次のように。

I was wondering if you could help me.

 (あなたに助けていただけないかと思っているのですが。)

 

 3.

「叙想的テンス」とは、表現と 表現が表す事象との間に、時制に関する「ズレ」が存在する現象だ、と言えよう。

次の例も事象と表現との興味深い「ズレ」を示している。

Vlach(1981: 280)は、たとえば、映画館や劇場などで空席かどうかを 尋ねるときの言い方として、次の進行形の例を紹介している。

(17) Is someone sitting here?

  (ここはだれか座ってますか)

だれも座っていないのに「座っているか」という質問は、文字通りに考えると矛盾になってしまう。

(溝越彰、『時間と言語を考えるー時制とはなにかー』4.5.4 )

 訳文が示すように、日本語でも、空席を指しながら「ここ誰か座っていますか?」と尋ねることがある。

ただし、この例は、すでに「ムードのタ」の範囲からからはみ出している。

以前触れた、「私はこの2年間、ずっとログハウスを建てている」のような発言が、これに類似した例である。

A氏とB氏がいっしょに食事をしており、A氏が「いま論文をひとつ書いているので忙しいんです」と述べたのに対して、B氏が「え、君はいまハンバーグを食べているのではないのかね」と返したとしよう。

柏端達也「行為と進行形表現」p17 )

A氏は論文を書いていないのに、書いている。このような「パラドックス」は、ありふれたものだが、もう一つのimperfective paradoxと呼べるかもしれない。

 

4.

3.で取り上げた「ズレ」は時制のズレではないだろう。では、何のズレか?という問いは一旦横に置いておく。

 

「叙想的テンス」は、事象とその表現との、時制のズレに関わる概念であった。それに対し、アスペクトのズレに関わる「叙想的アスペクト」という概念を考えることができるだろう(cf. 渡邊淳也「叙想的時制と叙想的アスペクト)。

その例は、絵画的半過去imparfait pittoresqueをはじめとする、フランス語の半過去の用法に見ることができる。

さらには、結末の半過去(imparfait de clôture, imparfait conclusif) とよばれる用法をみよう。

 

(4) Comme elle avait été à l'Opéra, une nuit d'hiver, elle rentra toute frissonnante de froid. Le lendemain elle toussait. Huit jours plus tard, elle mourait d'une fluxion de poitrine.

     (Maupassant, Regula, dans Conte et nouvelles, vol.1, p407)

ある冬の夜、彼女はオペラに行ってきたので、すっかりこごえてかえってきた。翌日、彼女は咳をしていた。1週間後、彼女は肺炎で死ぬのだった

 

この例において、「彼女が死んだ」という結果は、元来は完了アスペクトを有する事態であり、単純過去で示されてもよさそうなところである。それにもかかわらず、あえて半過去を用いることにより、事態の内部に視点をおいて眺めたような形で、あたかもスローモーションのようにえがき出される(このこと自体は絵画的半過去と同様である)ようになり、「重大な結果」という意味効果がもたらされるのである。したがって、この例もまた、事態そのものの完了アスペクトの標示よりも、その事態の見かたを規定するためのアスペクト標示を半過去がになっていると考えられるのである。

(渡邊淳也「叙想的時制と叙想的アスペクト」p194)

ここでも、「視点」「眺める」という比喩が説明に用いられていることに注意。

(この比喩の根深さは何に由来するのか?)