はじめに

はじめに~略号表

 これより、L・ウィトゲンシュタインの「後期の著作」(『哲学探究』をはじめとする、アンスコムらの編集によって出版された遺稿)を読みながら、個人的な覚書、リファレンス等を記録して行く。

 

1.
ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学Ⅰ』より、

ある界隈の勝手がわかっている(auskennen)というためには、君は単にある集落から別の集落への道を知っていなければならないばかりでなく、もしもこの間違った方向に行ったならばどこに到達するのかということもわかっていなくてはならない。このことは、いかにわれわれの考察が地図を作成するためにある地方を歩きまわることに似ているかを示している。そしてわれわれの訪れる領域についても、こうした地図がいつか作成されることはありえないわけではない。(§303, 佐藤徹郎訳) 

 ウィトゲンシュタインは、様々な機会に、哲学的な探求を地表面の探索に例え、展望(übersehen)の問題をそれに結び付けて論じている。
例えば、後にThe Yellow Bookとして編集される1933-34年の講義では、哲学における困難の一つに「展望」(あるいは「概観」、原語 synoptic view)の欠如がある、と語った後、言語を地表面になぞらえ、哲学的問題を地図を作る際に我々の犯す誤りにたとえている。

地図を見れば、同じ土地の上をさまざまな道路が走っている。我々はどの道路も通行できるが、同時に二つの道を行くことはできない。それに似て、哲学においても、我々は諸々の問題を一つ一つ取り上げて行くよりほかないのだが、実際には、それぞれの問題は他のいくつもの問題につながっているのだ。・・・
哲学においては、「さあ、まず大まかにアイデアを把握しておこう」という具合にはいかないのだ。それほど話は単純ではない。なぜなら、さまざまな道の間のつながりを把握しなければ、この地域を知ったことにはならないからだ。そこで、つながりを見通すために、何度も繰り返すということを私は勧めたいのである。
(Ambrose, A., ed. (1979) Wittgenstein's lectures Cambridge, 1932-1935, p43) 

 彼の言葉を信じるなら、ウィトゲンシュタインを読む者は、似たような問題に繰り返し直面し続けることを避けて通れないだろう。その繰り返しこそは、つながりを把握するための手段として甘受されなければならないもの、ということになる。

事実、彼の「後期の著作」は、果てしの無い、いくつものテーマの繰り返しという印象を強く与えてきた。
しかも、単なる反復というよりも、見通しがたい迷宮にたとえられてきたのである。

言語はさまざまな道の迷路である。一方の側からやって来ると勝手がわかる(auskennen)が、他方の側から同じ場所にやって来ると、もう勝手がわからない。(『哲学探究』 Ⅰ §203, 藤本隆志訳)

われわれが自分たちの語の慣用を展望してないということ、このことがわれわれの無理解の一つの源泉である。(同、§122,藤本訳)

しばしば指摘されるように、これらはまるでウィトゲンシュタインのテクスト自体について語っているかのように、とてもアイロニカルに響く。彼のテクストの「展望しがたさ」ゆえに、限られた区画を堂々巡りしたあげく途方にくれてしまう読者が大量に生まれてきたのであるから。

2.
 ウィトゲンシュタインを読もうとするならば、テクストの中の果てもなく繰り返される問いの中で方向を見失わぬよう、何らかの道標を立てながら進むことは必要であろう。これから記してゆくノートは、その役割を果たすためのものである。ここでなされる議論は非常にラフな、覚書程度のものにとどまる。

哲学者の仕事は、一定の目的に向って、諸々の記憶を寄せ集めることである。(『哲学探究』 Ⅰ §127 藤本訳) 

 これに習って?まずウィトゲンシュタインの言葉を寄せ集めて、考察を加えて行きたい。
ただし、それぞれの引用文が属していたコンテクストを十分に示す余裕はないため、論旨のつながりに明確さを欠くことも多いだろう。引用文の内容については、元のコンテクストに還って理解する必要がある。その意味でも、このノートは、ウィトゲンシュタインを読むための覚書にすぎない。長年にわたる彼の思考の転変を探る余裕はないが、より早期に書かれた文章が、後に書かれた文章の内容を良く例証すると思われる場合、あえて前者を後者の説明に使用することがある。そのため、時間系列を無視した議論に見える場合もあるだろう。

3.
ウィトゲンシュタインを読みながら、哲学の内側で一般化された問題(たとえば、数学的プラトニズム)について考えることは、ここでの目標ではない。
彼の哲学上の姿勢は例えば次の部分に、端的に現れている。数学の基礎に関する議論においても、感覚の言語に関する議論においても、自分は、「言葉のいろいろな使用の仕方に注意を喚起しているだけなのだ。」と言う。(cf.『数学の基礎』Ⅱ76節、原書第3版Ⅲ 76節) 
つまり、どちらの議論でも、対立する哲学的主張のいずれかの解答を与えようとしているわけではなく、言語ゲームの多様性、それらの間の差異に注意を促しているに過ぎない、と、ウィトゲンシュタインは主張するのである。
目指すことは、哲学を専門としない一読者として、このような彼の姿勢の理解に努めながら読み進むことである。

<略号表>

ウィトゲンシュタインのテクストへの参照は、英語題名の略号を使う。節に分かれているものは、基本的に節の番号で記す。他は、ページで指示する。
ただし、
・Remarks on the foundations of mathematics は第3版を使用する。
・Philosophical investigations の新版(第4版)では、旧版の第Ⅱ部がPhilosophy of Psychology A Fragmentと改題され、パラグラフに節番号が通しで付されている。ここでは、略号としてはPPFおよび『探究Ⅱ』を用い、ページでなく第4版での節番号で表記する。

訳文について。邦訳を引用する場合は訳者を表記する。訳者による原文の補足は、場合に応じて削除することがある。
原文における強調部分は、すべて下線を引いて表記するように改変する。、
節からの引用は、抜粋である場合が多いが、それを一々ことわらなかった。引用部分の中間に省略した部分がある場合については、その部分を(・・・)あるいは、(中略)によって示す。

略号:原題
TLP,Tractatus,『論考』:Tractatus Logico-Philosophicus
PB、『考察』:Philosophical Remarks
PG『文法』:Philosophical Grammar
BBB『青色本』『茶色本』:The Blue and Brown Books

PI『探究Ⅰ』:Philosophical Investigations 
PPF『探究Ⅱ』(『心理学の哲学-断片』):Philosophy of Psychology - A Fragment
RFM『数学の基礎』:Remarks on the Foundations of Mathematics
RPPⅠ『心理学の哲学Ⅰ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅠ
RPPⅡ『心理学の哲学Ⅱ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅡ
LPPⅠ『ラスト・ライティングスⅠ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅠ
LPPⅡ『ラスト・ライティングスⅡ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅡ
RC『色彩論』:Remarks on the Colour
OC『確実性』:On Certainty
Z『断片』:Zettel
CV『文化と価値』:Culture and Value
PO:Philosophical Occasions
WLC1932-35『1932-35講義』:Wittgenstein's Lectures,Cambridge 1932-1935
WLFM『数学の基礎講義』:Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics
WLPP『心理学の哲学講義』Wittgenstein's Lectures on philosophical Psychology 1946-47
LCA『美学講義他』:Lectures and Conversations on Aesthetics,Psychology,and Religious Belief

WVC『ウィーン学団』:Ludwig Wittgenstein and The Vienna Circle

動態動詞ル形の用法について(13)

1.

続いて、「見る」の可能態・自発態について見ておく。

「見る」経験は、受動的に経験者に生じることも、主体が意志的に行う場合もあり、日本語においても、そのような様態の差異が動詞「見る」の使用に反映されている。

a. 奈良へ行けば沢山の仏像が 見られる/*見える。

b. 私は、自分がどこかの寺院の廊下に倒れていることに気づいた。扉の開いた隙間から仏像が 見える/*見られる。

c. 奈良へ行けば沢山の仏像を 見ることができる/見られる。

まず、「見る」の可能態には、「見られる(見れる)」、「見える」の2形がある。「見ることができる」という迂言的な形式もよく用いられる。

これらは、ル形で現在の状態を表わす。受身との違いに注意(テイル形の可否など。cf. 2024-03-14)。

明日になれば、君は好奇の目で見られるぞ。(受身、未来)

すでに、私は、冷ややかな目で見られているのだよ。(受身、テイル形)

 

a.は、主体が意志的に仏像を鑑賞に行く状況であり、「見られる」が適切となる。

それに対し、b.は主体の意志的な関与なしに、受動的・自発的に視覚体験が生じる状況であり、「見える」が適当となる。「見ることができる」は多くの場合「見られる」と共通した状況で使用される(c.)。

「見る」の可能態に関する、典型的な使い分けは、このようなものである。

(ここでは、自発との区別の問題は一旦措く。また、経験者or動作主という、意味役割の問題には立ち入らない。)

 

主体があるものを意志的に見る場合、多くは、そのものが見える環境に主体が身を置くかどうかが、成否のカギとなる。

しかし、その場合、見ることが能力的に可能なことが前提となっている、と言えよう。

能力可能の表現には、一般には「見える」が使用される。

彼は、本当は目が見える/*見られる。

遠くの小さな灯台が[見える/*見られる]かい?

 

一般に、可能態としてのル形の使用では人称制限が無いことに注意しよう。

彼は、時間があるから、沢山の仏像が見られる。

cf. 彼は、時間があるから、いくつもの寺院を訪問できる。

しかし、自発や知覚表出としての使用では、(経験者格の)人称制限が発生する。

岬の端に灯台が見える。

私には、岬の端の灯台が見える。

君には、岬の端の灯台が見えるかい?

*君には、岬の端の灯台が見える。

君には、岬の端の灯台が見えるらしい。

*彼には、岬の端の灯台が見える。

彼には、岬の端の灯台が見えるようだ。

これは、感情形容詞や感情表出文と共通する(cf. 2023-12-27、山岡政紀「可能動詞の語彙と文法的特徴」p14)。

 

2.

先に、意志的な「見る」の成否は、主体が、そのものが見える環境に身を置くかどうかにかかっている、と言った。

「見る」の可能態文は、他の可能文と同様に、条件節を備えたものが多く存在する。先の文もそうであった。a.の条件節「奈良へ行けば」は主体の動作を表しており、全体の文は、主体の意志的な行動についての文とみなされよう。とすれば、主節の「見られる」も意志的な行為を表し、それゆえ「見える」が不適切となる、と考えたくなる。次の場合も同様である、と。

d. 奈良公園へ行けば、鹿が見られる/*見える。

しかし、意志的な行動による視覚体験に「見える」が用いられる場合は無数にある。

スカイツリーに登れば、富士山が見える/見られる。

もう少し先まで行けば、スカイツリーが見えますよ/見られますよ。

このような例では「見られる」「見える」共に可となる。

これらの行動では、条件が整えば、「扉を開ける」等の意志的な行為は必要なしに「見える」はずである、と言われよう。では、d.の場合にも、鹿は訪れる者の目に自然に入ってくるであろうに、なぜ「見える」が不適切となるのだろう?鹿が有情の存在であることが影響するのだろうか?

それでは、次の文はどうか。

今、この双眼鏡を覗いてもらえば、営巣するミサゴが見えますよ/見られますよ。

そのレンズをズームしてゆけば、シロクマがはっきりと見えますよ/見られますよ。

ミサゴやシロクマは、鹿と同様に、有情の存在である。これらの場合、「覗く」「ズームする」という、「見る」に直結する意志的な行為が必要であるのに、なぜ「見える」が可となるのだろうか?

あるいは、何が次のような使い分けを成立させているのだろうか?

e. 近頃、都会では、牛や馬の姿はめったに*見えない/見られない

f. さっきまでいた牛や馬が見えない/*見られない

(cf. 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p277)

このように、問題は思った以上に難しく見える。

 

一つの仮説は、条件節や条件的副詞句の内容(場所の限定等)が、視覚体験が生ずるための十分条件をなしている場合、「見える」が使用できる、いうものである。

日本へ行けば、富士山が*見える/見られる

東大寺では、大仏が*見える/見られる

三保の松原へ行けば、富士山が見える/見られる。

「日本に行く」だけでは、「東大寺」にいるだけでは、富士山や大仏が見えてくるわけではない。「日本」でも富士山が見られる場所は限られている。

それに対し、三保の松原では、大体どこでも富士山が目に入るから、「見える」が可となるのではないか。(もちろん、松林の陰に入ればダメだろう。このように、条件に幾ばくかの曖昧さは残るであろう。)

また、e.では、「都会」にいる(位置するの意味で)ことは、昔であっても、牛や馬を見られることの十分条件ではなかっただろう。見る対象(牛や馬)が、決まった位置にいるとは限らない存在であるからだ。奈良公園の鹿の場合も、似た状況であるように思われる。

それに対して、f.は、「ここに居る」ことが牛や馬を見ることの十分条件だと考えられるのに、実際には見えないことを述べた文である。

あるいは次の文では、見える対象が有情の存在、動く者であろうとも、決まった位置に行けば見えることが保証される。

公園の入口まで行けば、鹿たちが見えるよ。

cf. 公園の入口まで行けば、看板が見えるよ。

以上のように、一連の行動が意図的であるかどうかは、必ずしも「見える」の使用可否を決定しない、と言える。

「見る」対象の種類や、「見る」期間が、使い分けに影響する仕方には、まだまだ不明瞭なことが多いが、今はこれ以上の探求は控えておきたい。

また、「見る」の可能態、自発、受身。これらの区別や関係には曖昧さが付きまとうが、その明晰化についても、今は措いておく。

 

3.

「聞く」の2つの可能態「聞ける(聴ける)」「聞こえる」の関係は、「見られる」「見える」の関係にパラレルであるように見える。

その喫茶店に行けば、昔のレコードが、いい音で聴けるよ。

秋になれば、虫の鳴き声が聞こえる。

彼は、高い音が聞こえない。(能力可能)

この領域についても精確に検討するには時間と労力が必要なため、またの機会としておく。

 

4.

さて、テンス・アスペクト関係に加えて、知覚動詞「見る」「見える」の問題にたどり着けたことで、ようやく(!)「アスペクト知覚は、なぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか?」(cf. 2021-10-25 , 2022-02-11)という当ブログの問いに再び接近することができそうである。この問いへアプローチするために、テンス・アスペクト論、叙述類型論、構文論といった言語学的な知見を学びつつ、現実の言語使用(日本語に限られるが)を確認しながら、ここまで来たわけである。ただし、まだしばらく「動態動詞ル形の特殊用法」という枠組みの中で進んで行かなければならない。まだまだ、重要な言語学的問題は数多く残っているからである。

実現可能文の問題に向けて

1.

ここで、少しの間 動詞ル形の問題を離れて、「実現された可能」の問題に触れておきたい。

次のような文を、当ブログでは、「実現された可能」を表現する文と呼んだ。

・うちの弟、最近は、学校に行けているよ

・○○選手、不調だった去年とは違って、いいフォームで走れています

今後は「実現可能文」と呼ぶことにする。

これらは、可能態がテイル形を取り得ることの例として持ち出されたのだが、現実には、「実現された可能」はタ形で表現される場合が多い。

休み明けの昨日、弟は不調を訴えることなく、学校に行けた

今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走れた

ここで素朴な疑問が生じる。実現可能文では、特定の事象の実現が表されている。では、その事象を非可能態で述べる文(今後、「基本態文」と呼ぶ)とは、どのように異なっているのだろうか?

a. 今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走った。(基本態文)

b. 今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走れた。(実現可能文)

単に動詞の表す事象の成立/不成立の水準を問題にするのであれば、b.がa.を含意することは明らかであるし、逆に、a.からも b.が帰結する。したがって、その水準に留まる限り、違いを述べることは難しい。

ここで、日本語の動詞は、意志的な動作を表す動詞のみが可能態(可能形)をとり得ることを思い出したい。当然、実現可能文も、意志的な動詞を使用したものに限られる。

太郎は、いびきをかいた

*太郎は、いびきをかけた

とすれば、意志性の有無がポイントであるかもしれない。

c. 彼は、その複雑な経緯を、英語で説明した。

d. 彼は、その複雑な経緯を、英語で説明しなかった。

e. 彼は、その複雑な経緯を英語で説明できた。

f. 彼は、その複雑な経緯を英語で説明できなかった。

普通に判断するなら、事象と意志性の有無との組み合わせで、

c.は、彼に英語で説明する意志があり、説明した場合、

d.は、彼に英語で説明する意志がなく、説明しなかった場合、

e.は、彼に英語で説明する意志があり、説明した場合

f.は、彼に英語で説明する意志があり、説明しなかった場合が、妥当な表現となる状況だろう。

c.とe.との違いについては、ここでも明らかではないが、[c,d]と[e,f]とを対比させれば、次のように言えそうである。

すなわち、実現可能文は、肯定文、否定文ともに、

動作主が意図的に動作を行おうとした場合に事態が実現するかどうかについて、動作主の意図が発動された後の事態の実現の成否に焦点を当てて述べる

(cf. 大場美穂子、「実現可能文の用法について」p4)

と考えたくなる。

しかし、次のように、意図になかった結果について実現可能文が用いられる場合が存在する。

g. 通りすがりに話題のメロンパンを偶然買えてラッキーだった。

h. 帰りの飛行機は座席の重複予約があったため、僕が運よくビジネスクラスに回され、思いがけず数時間リッチな気分を味わえた

i. 北海道旅行中に、札幌で思いがけず日本代表の中田英寿会えて、驚いたとともに嬉しかった。

(例文はいずれも林青樺「現代日本語における実現可能文の意味機能」、p33より)

逆に、意図した結果が実現された場合でも、実現可能文を用いると不適切な場合が存在する。(基本態文は問題ないことも確認しよう。)

彼はまずいギョウザを*作れた/作った。

先週駅前の古本屋でくだらない本を*買えた/買った。

(林、p38-9)

次の、妥当な場合と比較すること。

彼は美味しいギョウザを作れた/作った。

先週駅前の古本屋でずっと欲しかった本を買えた/買った。

(林、p38-9)

また、意図しない結果についても、次のような場合には、実現可能文は不適切である。

私は今朝思いがけずバスの中で苦手な部長と*会えた/会った。(林、p39)

次の場合と比較すること。

私は今朝思いがけずバスの中で好きな人と会えた/会った。(林、p39)

 

これらの、不適切な例と妥当な場合との対照から、林は、

実現可能文は、<(実現した)事象が主体にとって好ましい>という意味特徴を持っていると言える。(p39)

そして、主体の意志性との関係については、

主体の意図的または期待する行為は当然ながら主体にとって好ましい事象であるが、…主体にとって好ましい事象には主体の待ち望む行為の実現のみならず、主体の予期しない出来事も含まれているのである。(p39)

と主張する。

これに対し、基本態文は、事象の生起を、それが主体にとって好ましいかどうかに関わらず、ニュートラルに表す構文である、とする。(p40)

 

2.

上の議論に関連する、基礎的な事実に立ち返って確認しておきたい。

次の問、

もとの動詞が意志動詞だからといって、事象は常に主体の意志性によって生起するのであろうか。意志動詞の表す事象が実際に生起した場合に、動詞の語彙的意味における〈意志性〉が常に保証されているのであろうか。(林、p35)

この問には、否定的に答えるべきと思われる。

j. 私は昨日うっかり腐った牛乳を飲んだ

k. 先日市制100周年の記念バスに偶然乗った。(cf. 林、p36)

上のように、主体が意図せずに実現した行為についても、意志的動詞の語彙を使用して語ることは多いのである。

...語彙的意味における〈意志性〉は実際に生起した事象において常に保証されるとは限らない。したがって、実現可能文はもとの動詞が意志動詞であるものの、主体の非意図的行為の実現を表す可能性が充分にあると言えよう。(林、p36)

 

他方、意図された行為の不成立を意志的動詞を用いて否定文で表現することがある。この場合、基本態文を用いるか実現可能文を用いるかで、条件の違いが存在する。

林は、動作が生起した場合に結果的に事象の達成点に到達したかどうかに基づいて、事象のあり方には《成立、《未成立》、《未生起》、の3つのパターンがある、と言う。

《成立》:子供達が雪だるまを作った/つくれた。

《未成立》:子供達が頑張って雪だるまを作り始めたが、結局*作らなかった/作れなかった。

《未生起》:子供達は雪だるまを作りたかったが、あいにく雪が降らなかったため、結局作らなかった/作れなかった。

(cf. 林、p36)

《未成立》という事態が起き得るのは、telicで、完遂に時間を要する動詞の場合、すなわちVendlerの分類で謂うaccomplishment verb の場合、である。(ただし、実際に関わるのは、動詞よりも動詞句のレベルでの性質である。)これについては既に見てきた。(2019-08-05. )

林は、次のようにまとめている。

実現可能文は、表わす事象の成立が不確かなため、「主体の行為がどうなったか」という事象の結果に焦点が当てられ、事象の《成立》・《未生起》以外に「生起した行為が結果的に完遂されなかった」という事象の《未成立》を表わすことも可能であるのに対し、無標の動詞文は、主体の行為が実際に生起したかどうかという意味を意味を表わす構文であるため、事象の《成立》と《未生起》しか表わすことができない。(林、p43)

そのことは、上の雪だるまの例文で示されている。ただし、一般には林の主張ほど明確な使い分けがなされているとは限らず、《未成立》の場合に「無標の動詞文」(すなわち、ここでいう「基本態文」)が使用されることもある、と考える。

ここには、文脈やテキスト(語り)の構造が絡んでいるのだろうが、いまは立ち入る余裕が無い。

 

3.

1.に戻って、注意すべきことがある。主体にとって好ましい事象であれば、どれもが実現可能文で表せるわけではない。
? 横綱朝青龍は入幕したばかりの新人力士に勝てた。
入幕したばかりの新人力士は横綱朝青龍に勝てた。(林、p40)
上の文は、いずれも行為主体にとって望ましい結果について語っているのに、一方は不適切な使用となっている。
林はこれについて、実現可能文は、「事象の成立が保証されず、主体の能力や主体を取り巻く状況などの諸要素が事象の成立を妨げる可能性が十分にある」状況で使用される、と捉える。ゆえに主体が確実に事象を成立させる可能性を持っている場合は、好ましい事象であっても実現可能文であらわせないのだ、とする。言い換えれば、実現可能文で表される事象は〈得難い〉種類のものである(林、p41-2)。
以上から、実現可能文は、事象の成立に加えて、ある種の価値評価を表現する構文である、と言うことができるかもしれない。
 

4.

ここまでの議論に対して、反論があるかもしれない。

・jの「うっかり飲む」、kの「偶然乗る」、は、確かに意図された行動でなかったとしても、「飲む」「乗る」行為自体は意志的な動作と言え、それによって、可能形をとり得ると考えられる。

だが、iの「会えた」、h「味わえた」は受動的な性質のものであり、果たして意志的な行為を意味していると言えるのだろうか?これらは「自発」と呼ぶべきではないだろうか?(cf. 大場、前掲論文)

・ある行為が意志的(意図的)であるかどうかの判定には様々な規準が考えらる(命令文の有無など)。本質的な規準は何であるか。そもそも、意図的行為の本質は、哲学の伝統の中で議論されてきたが、ここでもそのレベルから議論する必要はないだろうか?

このような疑問に今答える余裕はないので、問題として留めておく。

 

5.

1,2で、意志及び行為結果と、基本態文/実現可能文との関係について簡単に触れたが、精確さが不十分である。精密な議論をして十分なレベルに上げる余裕はないが、もう少しだけ解像度を上げておこう。

まず、行為と意志との関係については、その行為をする意志、しない意志に加えて、する/しないに関してニュートラルな状態が存在する。そもそも、その行為の存在を知らない場合や無関心な場合などである。ここでは、する意志を「+意志」、しない意志を「-意志」、ニュートラルな状態を「±状態」と呼んでおく。

・およそ意志的動作を表わす動詞である限り、行為にはそれを行う+意志が伴っているものとみなされる。したがって、基本態文、実現可能文ともに、肯定文であれば、+意志が伴うはずだが、下の例のように、−意志に反して行われる意志的行為も存在する。

守男は、銃で強制されて、金庫の鍵を開けた。

・問題は、否定文と意志との関係である。

林の謂う《未成立》は、動作の発動後に、完遂に達しなかった場合であり、否定形の実現可能文で表されることが多い。

子供達が、頑張って雪だるまを作り始めたが、結局作れなかった

(上でも述べたように、行為の生起/完遂と意志の有無が、適切な文形式を完全に決定するわけではなく、テクストの構造や文脈が大きく影響する、と考える。この点には、これ以上立ち入らない。)

また、動作が生起しない場合(林の《未生起》)でも、意図(+の意志)の発動が背後にあれば、否定的な結果に終わったことについて語る場合に、実現可能文が使用される。

ジョンは、かねてから和牛をステーキで賞味したいと思っていた。去年、一週間ほど日本に滞在する機会があったが、その際には和牛のステーキを食べられなかった

・-意志があり、行為を強制されなかった場合には、実現可能文の否定形は使用しない。

宏は、納豆が嫌いだった。水戸で暮らした間でも納豆は食べなかった/*食べられなかった。

・行為の機会が存在する状況or行為可能な状況において、行為しない場合、無関心とも解釈できるが、−意志ありと解釈される場合も少なくない。両者の判別は微妙であるが、どちらの場合も、基本態文の否定形が使用される。

国男は、去年1年間東京で暮らしたが、納豆を食べなかった。

その他の±状態にも、基本態文の否定形が適用される。

(ミシェルは、そもそもナマコを食べる習慣が日本に存在することを知らない。)

ミシェルは、去年1年間日本に滞在したが、ナマコを食べなかった。

・±状態であったことを表す場合、「…したことがなかった」という言い方もある。ただし、これは+意志ありや−意志ありの場合も使用可である。どれであるかは、文脈的に判断される。

スーザンは、長年日本で暮らしたが、フグの刺し身を食べたことがなかった。

スーザンは、フグの刺身を食べたかったのか、食べたくなかったのか、無関心であったのか、この文のみからは分からない。

以上を、否定文の形式の側から見るなら、おおよそ次のようになるだろう。

①基本態文:-意志ありor±状態 が主だが、+意志ありの場合もある。

「ミシェルは、日本でナマコを食べなかった」

⓶実現可能文:+意志ありの場合(《未成立》の場合を含む)。

「ジョンは和牛のステーキを食べられなかった」

「子供たちは雪だるまを作れなかった」

③「ことがない」文:+意志あり、±状態、-意志あり、いずれの場合もある。

「スーザンは、フグを食べたことがない」

 

 

6.

さて、当ブログがウィトゲンシュタインから学んだ視点の一つは、「できる」「意図する」といった概念を「規則に従う」こととの関連において捉えることであった(cf. ”2019-03-24 ”)。非常に粗い内容ではあったが、そこで考えたことを簡潔に繰り返してみよう。

ある意志的な行為が「できる」ことを、「ある内容を持った意図を実現する」ことの可能 として捉えてみる。

さらにこれを「その意図の内容が表現する事象に、自らの行為によって実現する事象を、合致させる」ことの可能 として見る。その場合、「意図の内容」は行為の”規範”として機能している、と言えよう。

すると、実現可能文「...できた」という表現は、規範に合致する事象が実現されたことを述べていることになる。

これを、「256×38を計算したら、9728だった。」といった言明と比較してみよう。(ここでの「計算したら...だった」は、正しく計算した結果が「...」であることを意味している、と考えよう。これを<狭義の「計算」>と呼ぼう。それに対し「計算間違いをする」場合をも含めたものを<広義の「計算」>と呼ぶ。)

この文も、規範に則って行為した結果、すなわち規範に合致した結果が、9728だったことを述べている。(ゆえに、" 256×38=9728" は、今後普遍妥当な式と見なされてゆくはずである。)

3.の終わりで述べたことの繰り返しになるが、この文も、実現可能文も、(事象の成立に加えて)事象が規範に合致するものであるという、ある種の価値評価を表現する文と見ることができよう。

さて、意志との絡みで、行為の成否が判断される事象の領域は、<した/しなかった>の2分割ではなく、<した/し損なった/しなかった>に3分割されることになる(それぞれ、林の《成立》《未成立》《未生起》にあたる)。

これは、〈計算〉の概念が、<計算する/計算間違いする/計算しない>の3分割をもたらすのと一緒である。また、人間が目的をもって製造する製造物、例えば「時計」の概念が、<時計/時計でないもの>に加えて、<故障した時計>というカテゴリーをもたらすのと似ている(cf. PB31, 2019-04-02)。

これらに共通するのは、言語学の言葉で言えば、telicityである。第1のカテゴリーと第2のカテゴリーを合わせたもの(例:「計算」+「計算間違い」)が、広義の「計算」、行為、「時計」になる。ただし、それぞれ第2のカテゴリーと第3のカテゴリーの境界(「計算間違い」vs.「計算しないこと」)は(多かれ少なかれ)曖昧であり、その結果、広義の概念自体が曖昧さを孕んだものとなる。また、実際の言語使用において、広義の概念が意味されるか、狭義の概念が意味されるかについて揺らぎが存在する(cf. 2019-04-01)。

「256×38は、9728だよ」

「えっ、私、9726と計算していたわ。」

ここでの「計算」は広義の意味で使われている。そこで、この「揺らぎ」を解消すること、すなわち、狭義の「計算」のみを「計算」という言葉で意味するように使用することは、現実には不可能である。というのも、そのようにすれば、計算に関する問いや仮定、および「間違った計算」を表現することが不可能になってしまうからである(cf。PGⅡ27,  2019-03-31)。実は『論考』の帰結はそのような境地であり、「計算間違い」や「し損ない」が存在しない(表現できない)世界であった(2019-03-12)。

 

さらに、ウィトゲンシュタインが、美学的言明について、評価の機能を重視したこと、数学的命題と比較したこと、などが思い起こされる。(cf. "2020-09-30", "2020-10-16") 

しかし、これらの話題について振り返ることは時間も要するゆえ、またの機会にしておく。

 

動態動詞ル形の用法について(12)

1.

山岡政紀は、「可能動詞文」、すなわち「可能動詞」の文について、

…可能動詞文は、動詞文でありながら動作性が捨象されており、しかも必ず有題文となり、基本的に〈属性叙述〉である。

(山岡「可能動詞の語彙と文法的特徴」p10)

と述べている。山岡が「可能動詞」と呼ぶものは、意志的な動作動詞の可能形、「できる」、「わかる」等の動詞、「〜得る」「〜かねない」等の接辞を付加した動詞表現を合わせたものである。この特徴付けに対する検討は、今は行わない。

山岡は、ここから、可能動詞文において「何が(どの意味役割が)主題化されているか」に着目した分類を試みている。以下の例文では、いずれも主題が助詞ハによって示されている(ibid. p10-11)。

人には この魚が食べられる。[経験者可能]

この魚は食べられる。[対象可能]

この寮は快適に住める。[場所可能]

駅(へ)はバスで行ける。[目標可能]

バス(で)は駅へ行ける。[道具可能]

さらに、条件節を用いた可能動詞文に注目する(p11)。

ペンチを使えば太い針金でも曲げられる。[道具可能]

10時になりますから、もう泳げます。[時間可能]

山岡は、条件節を主題を代行するものと捉えて(p11)、その内容から、例文を上のように分類している。すなわち、それぞれ、道具(ペンチ)、時間(10時以降)が主題化されていると見る。

条件節と提題の名詞句「~は」を、主題化機能という共通性において捉えることは、三上章が示唆した見方でもある。

最初に書きましたように、「Xハ」は「Xニツイテエバ」という心持ちです。だから「Xハ」は、内に条件法を潜めているとも見られます。条件法「スレバ「シタラ(バ)」の末尾の「バ」と提示法の「ハ」とは、もとは同じ助詞だったろうという推定があります。(三上『象の鼻は長い』p156)

 

2.

名詞句「~は」が備わった文にも、加えて条件節が現れる場合がある。(以下の例文は、山岡、p12を参照)

私は 調子がよければ ホームランが打てます。

条件節の他に、潜在化した経験者格(一般的な「人」、あるいは文脈的に特定される人物)が主題化されている、と見なせる文もある。例えば、次の文は、「教師」が主題となっている例である。

試験が済めば 答えも教えられます。

すると、これらの文は、主題に関して、条件節が状況的な制限を課している、と捉えることができよう。

このように、恒常的な属性としての可能ではなく、条件の充足や限定された時間などの状況が前提となっている可能表現について、[状況的~]を付加して呼ぶことにする。(山岡、p12)

そこで、先に上げた条件節を持つ例文は、どちらも、[状況的経験者可能]と呼ぶことが可能である。また、

市民プールは 7月から9月までの三か月だけ 泳げます。

は、「市民プール」が主題化されているから、[状況的対象可能]と呼ばれることになる。(あるいは「市民プールでは、...」であれば、[状況的場所可能]と呼ぶことができよう。)

 

3.

さて、主題と条件節という、二重の「主題化(≒条件化)」がはたらく文は、構造的に「象は鼻が長い」のような文に類似している。例文の一つ「私は、調子がよければ、ホームランが打てます」について見てみよう。「ホームランを打つ」のは「私」であり、「長い」のは「鼻」であるから、文の語順を調整した上で比較しよう。

a. 調子がよければ、私は ホームランが打てます。(可能動詞文)

b. 象は、鼻が 長い。(属性叙述)

c. 彼は、娘が 結婚した。(事象叙述)

「象は鼻が長い」「彼は娘が結婚した」のような文は、日本語研究史において「総主文」「二重主格文」「二重主語文」などと呼ばれてきた。

ここでは、可能動詞文を属性叙述文と比較してみよう。

以前、「領域を持つ属性叙述文」(益岡隆志)という概念を紹介した。例えば、「象は鼻が長い」を、そのような文の例と見ることができる。(cf. 益岡『日本語文論要綱』p19)

[A(対象)は [B(領域)が C(述語)]]

ここで注意すべきは、直接の述定関係(主述関係)にあるのはB(領域)-C(述語) であって、A(対象)はCと直接の関係にはないことである。たとえば、A=象、B=鼻、C=長い、のように。あるいは、A=彼、B=娘、C=のように。[BがC]を「中核的な述定関係」と名付けておく。

一方、[BがC]の部分を、一つのまとまった述部(複合述部)と見なすなら、Aと[BがCだ]を、述定関係にあるものと見なすことができる([象は]-[鼻が長い])。(cf. 三原健一『日本語構文大全Ⅱ 』p7、)

そこで、a.,b.を属性叙述という点で比較するなら、a.は、「私」を主題とした「条件付きの属性」を述べる文であり、b.は「象」を主題として「鼻が長い」という恒常的属性を述べた文だと言える。

「私」-「調子がよければ、ホームランが打てる」

「象」-「鼻が長い」

しかし、中核的な述定関係、つまり[BがC]の部分を中心に見ると、違った構造が浮かんでくる。a.では、「調子がよければ」という条件節は、「私はホームランが打てる」という中核的な述定関係を条件的に制約するものである。同様に、b. では、「象(であれば)」という<条件>が、「鼻が長い」という中核的述定関係に対する「制限的条件」をなしている、と捉えることができる。

「私はホームランが打てる」←「調子がよければ」

「鼻が長い」←「象であれば」

上で注意したように、三上章に既に、「〜は」という主題形式の内に条件法を見て取ろうとする方向性があった。

そして、2024-01-14 で注意したように、属性叙述は、しばしば条件節を伴う。また、基本的に有題文である。

とすると、可能動詞文の、今回挙げたような特徴は、属性叙述文一般において観察・検討されるべきであろう。実際、下の例文のように、条件節等を用いて、様々な主題化やさらなる制約化がなされることはごく普通である。

1気圧であれば、水は100℃で沸騰する。

本州沿岸では厳冬期にも港湾が凍ることはない。

バスでは、駅まで30分かかる。

今はその余裕はないが、いずれ、「主題topicと量化」というテーマで展開できれば、と思う。

 

動態動詞ル形の用法について(11)

1.

前回に続いて、問題の動詞文が成り立つ条件について見てゆく。ル形が現在の事象を表すような可能表現の種類は多岐にわたるが、ここでは当ブログの関心から、可能態(可能形)中心に見てゆき、それとの絡みで自発態に触れたい。

まず、動詞が可能態(可能形)をとるための語彙的条件がある。それは、その動詞が意志的な動作を表す、ということである。

例えば、次のような、非意志的な動きを表す動詞は、可能態をとらない。

(雨が)降る、(人、物が)落ちる、(木が)倒れる、(事故が)起こる、消える

非意志的な動詞は、「~得る」の形で可能を表すことができる。ただし、硬く不自然な表現となるものもあるだろう。

その種の事故は、稀ながら、起こり得る

乾季でも、少量の雨は降り得る

ちょっとした振動で、その棚から物が落ち得る。(少し不自然?)

トンビから鷹は生まれ得ない

 

もう一つ、可能態を取り難いのは、次のような、心理的な動詞である。(cf. 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p265)

好む、嫌う、惜しむ、妬む、懐かしむ、しのぶetc.

前回見た、山岡が「自発態」を認めた動詞群に、部分的に重複することに注意。(cf. 山岡政紀「可能動詞の語彙と文法的特徴」p9)。

思い出す、思う、しのぶ、惜しむ、感じる、考える、悔やむetc.

故郷が思い出される

今になって、あの時の言動が悔やまれる

「部分的に」であるのは、自発態をとる動詞には「思い出す」「思う」のような、可能態を取り得る動詞も含まれていたからである。また、可能態をとらない心理的動詞すべてが「自発態」(これらの場合、形態的には受動態と一致。前回を参照)をとる訳でもない。「好む」「嫌う」の受動態は受身文として使用され、普通、自発の表現とは見なされない。

お年寄りには濃い味付けが好まれる

自分勝手な人間は嫌われる

 

以上の心理的動詞は、「愛する」「憎む」「尊敬する」「軽蔑する」といった、可能表現が可能な心理的動詞とはどう違うのか?

どちらもある対象を目ざしての心の動きであり、感情主体から対象に視点をうつして、対象の側から事柄を描きなおすことができる点も共通している。違う点はといえば、「愛憎」類では感情主が主体的に、ある何らかの理由で、ある感情を対象に対して抱くのであるのに対し、「好キ嫌イ」の類は、対象に触発された、自然な心理的反応で、しいて理由を言えと言われても言いようがない、といった意味で、主体的とはいえない心の動きという点かと思われる。(寺村秀夫、p265)

つまり、ここでも広い意味での意志性の有無が事態をわける、と言えよう。「好き」や「嫌い」といった感情は、いわば「自発的に」生ずるのである。

ここに挙げた非意志的な心理的動詞の内で、自発態の有無を分ける要因については、今は立ち入らない。また、意志性の程度については各動詞間で差があるだろうが、それにも立ち入らない。

大まかなイメージとして、次のように言えるだろう。非意志的な、①動作の動詞、②心理的動詞は可能態を取らず、②の一部が(受動態と同じ形態を用いて)自発の構文を取ることができる。

 

2.

可能態の文の項、格の構造について、見てゆく。

動作主が明示された可能態の文には、それに対応する「基本態」の文が存在する。(これを「可能態文の元の文」と呼んでおく。)

太郎には、フランス語話せる。(可能態)

太郎、フランス語話す。(元の文)

可能態文が他動詞の場合、元になる文からの<格の移動>を伴うものと、伴わないものとがある。

a. 太郎には、フランス語話せる。(ヲ格⇒ガ格、ガ格⇒ニ格)

b. 太郎、フランス語話せる。(ヲ格⇒ガ格)

c. 太郎、フランス語話せる。(移動なし)

実際には、b. ,c. の太郎は主題化されて、「太郎」になることが多いだろう。

自動詞であれば、格の移動はない。

太郎、海泳ぐ。(元の文)

太郎、海泳げる。(可能態の文。ガ格をハで代行)

もう一つ、a.型の文で、一般化された動作主格が文の表層から消えて、対象格が主題化されるものがある。

この草そのままで食べられる。(⇐[人間には]この草そのままで食べられる。)

すなわち、この文の動作主をあえて挙げるなら、一般的な「人間」である、と考えられる。

このような文は、通常、対象の属性叙述に使用される。また、形態上は、自動詞の可能表現に一致するが、ガ格(ハで代行)の表すものが、動作主か対象かという違いがある。

d. この患者はもう、食べられる。(動作主)

e. この草は普通に食べられる。(対象)

寺村は、d.のタイプを「能動的可能表現」、e.のタイプを「受動的可能表現」と名付けた(寺村、p259)。

なお、以前、<Ⅱ属性叙述>で、やはり動作主格が脱落した、次のような属性叙述文を見ておいた(2024-01-14)。

酒は米からつくります

このおもちゃは電池でうごかします

これらは、それぞれ、受動態を用いて、

酒は米からつくられます

このおもちゃは電池でうごかされます

と、受動態で表すこともできるが。

酒は米からつくれます

このおもちゃは電池でうごかせます

と、「受動的可能表現」を使用することもでき、いずれも似通った意味で用いられる。

これらの属性叙述文は、有題化、動作主格の一般化と脱落、ル形での現在表現、といった共通点を持つ。

 

3.

自発態について。(当ブログが自発態として扱う範囲については、前回を参照。)

自発態をとる動詞には、基本態においてル形で現在を表せない動詞(「見る」「しのぶ」etc.)、表せる動詞(「(…と)考える」「(...と)思う」etc.)の2種類がある。表せる場合には、例の人称制限が課される。そのようなル形文を、当ブログは、<Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出>に分類した。

私は、ここでSLが走るのを見る。(未来)

私は、SLが走るのを見ている。(現在)

私は、彼女が犯人だと思う。(現在、Ⅵの例)

君は、彼女が犯人だと思うか?(現在、疑問文でのⅥの例)

彼は、彼女が犯人だと*思う/ 思っている。(現在)

ここで謂う自発態には次のような特徴がある。通常、経験者格が一人称の場合に限られ(人称制限)、その経験者格は、文の表層から脱落する。ただし、「見える」「聞こえる」「感じられる」「思われる」etc.は、経験者格「私には」を表示することも可能である。ル形で現在の事象を表すが、タ形で過去を表すこともできる。

・私は、亡き姉のことをしのんでいる。(基本態、現在)

・f. 亡き姉のことが、しのばれる/しのばれた。(自発態、<経験者格>は、話者である「私」)

・私は、向こうに人影を見ている

・g. (私には)向こうに人影が見える/見えた。(自発態)

・私は、彼女は本当のことを言っていると思う

・h. (私には)彼女は本当のことを言っていると思われる/思われた。(自発態)

f.,g.,h.のル形文を、当ブログは、<Ⅶ 可能態、自発態>に分類する。しかし、<Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出>に分類することも可能である。人称制限の特徴も共通している。
 
自発態の場合、普通、対象格は主題化されずに現れる。
私は、亡き姉のことしのんだ。
亡き姉のことがしのばれた。(経験者は「私」)

構文的に重要なのは、「内容格」をとる場合である。山岡は、認知内容を表す名詞句や補文節の意味役割を「内容格 Content」と呼ぶ。(cf. 山岡、p13。下の例文の下線部が内容格にあたる)。

私は、彼が殺したと考える。(基本態)

彼が殺したと考えられる。(自発態)

彼が殺したように見える。

あの山際が、紫に見える。

基本態や自発態で内容格をとる動詞には、「思う」「考える」「見る」「聞く」等がある。その他に、「言える」「わかる」等の可能的動詞も内容格をとる。

明らかに、彼女が殺したと言える。

今では、彼女が殺したとわかる。

山岡の「内容格」は、益岡隆志が『命題の文法』で、「副詞的補足語」の内の「引用語」と呼んだものに相当する(cf. 益岡、同書 p91~)。「内容格」の問題は、当ブログにとっても重要なものであり、改めて取り上げる。

 

4.

可能態とテイル形の問題について。

可能態は、アスペクト的には状態動詞であるため、テイル形はとらない、としばしば言われる。確かに、次のような文では、テイル形は用いられない。
この図形は、一筆で書ける/*書けている。
しかし、可能態が「実現された可能」を表す場合には、テイル形が用いられておかしくない。
うちの弟、最近は、学校に行けているよ。
○○選手、不調だった去年とは違って、いいフォームで走れています
変化動詞のテイル形が結果存続を表すことから、「実現された可能」のバリエーションとして、動作の結果を対象の性状として捉える、次のような文が生まれる。
このレポートはよく書けていますね。
あの写真、きれいに写せてたね。
(庵功雄他、『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 p177)
また、テイル形の様々な機能から、次のような文も可能になる。
太郎は最近原稿がすらすら書けているらしい。(反復)
太郎は、一度100メートル10秒台で走れている。(履歴)
(渋谷勝己、「日本語可能表現の諸相と発展」p18)
ところで、「実現された可能」の表現ではない、「潜在的な可能」を表す場合にも、一時的な状態の表現としての<可能態+テイル形>の文が作れないだろうか?下のような例を考えてみれば、作れると考えたくなる。だが、反事実的条件文に関する問題も絡むため、今は保留しておきたい。
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てた
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てていた
「実現された可能」と「潜在的な可能」との関係についても、様々な問いが生じるが、ここではこれ以上追究しない。(cf. 渋谷勝己、前掲論文、第Ⅰ部、2. )
(ついでに、ウィトゲンシュタインが『茶色本』で、可能の表現を用いる様々な言語ゲームを想像し、その多様性について考察していたことも思い出しておきたい。cf. BBB,p100~)

 

5.

自発態とテイル形について。

ここで自発態に分類するものには、テイル形と共起するもの、しないものがある。

しない場合でも、自発態が可能形や受動態と形態を共有する場合、文の解釈によって、テイル形が許容される場合がある。

箱の破れた部分から、中身が見える/見えている。(自発)

かすかな音が聞こえます/聞こえています。(自発)

私は、その音が聞こえる/聞こえている。(実現された可能)

彼が犯人と思われる。(自発)

彼が犯人と思われている。(自発では×、受身なら〇)

彼女の早世が惜しまれる。(自発)

彼女の早世が惜しまれている。(受身で○)

ただ、そもそも「見える」「思われる」等の動詞における、受身/可能/自発の区別は、曖昧な場合が存在する。ゆえに問題は自発/受身/可能の解釈と絡み、単純ではないので、ここではこれ以上立ち入らないが、機会があれば取り上げたい。

動態動詞ル形の用法について(10)

1.

《Ⅶ 可能態・自発態》のル形用法について。

ここでも、以前紹介したカテゴリーとの中間例を見ることから始めたい。

山岡は、前回見た<感情表出動詞>の例文の中に、次のような文を、<知覚表出>として含めている(「日本語の述語と文機能の研究」p209-10)。

隣の物干しの暗い隅でガサガサという音が聞こえる

なぜかこの頃になると潮騒がいっそう高く聞こえる

「焚火をしてますわ」と妻が言った。小鳥島の裏へ入ろうとする向こう岸にそれが見える

その先が青くぼんやり光って見える

これらの文は、話者の知覚を表出する文であって、一人称の経験者格「私に」「僕に」等が潜在化したもの、と見なすことができる。つまり、話者の知覚体験が表出された文である、と。

(※「動作主格」と「経験者格」の区別は微妙な場合もあるが、「動作主には意志性が必要である」とする立場で話を進める。)

その裏付けとして、次のような三人称の経験者格を明示した文では、ル形が許容されない(テイル形ならOK)。あるいは、その経験者の能力を表す文に解釈される。(cf. 山岡、p210)

彼女にはガサガサという音が聞こえる/聞こえている

彼は、あの小さな字が見える

(以上で、ル形はいずれも可能の意味を表す。)

ただしかし、一人称の経験者格を明示したル形文もまた、経験者の能力について語る文として受け取られる。

私には、あの小さな字が見える

もう一つ注意すべきことに、経験者格が明示されたタ形は、通常の使用では、「実現された可能」をあらわす。

私には、その小さな字が見えた

彼女は、彼の助けを呼ぶ声が聞こえた

振り返ってみると、「私には、あの小さな字が見える」も「実現された可能」の表現と言えるであろう。その意味で「知覚表出」の機能も果たしている、と言えよう。英語においても、" I can see ... "と " I see ... "との異同が問題となることを思い出す。

 

ところで、「見える」「聞こえる」には、次のような使用もある。

ヤツメウナギは魚類に見える

サボテンという言葉は外来語のように聞こえる

これらは、対象(ヤツメウナギ、サボテンという言葉)の性状を述べるのに使われている。つまり、属性叙述文である。この場合の「見える」「聞こえる」は、必ずしも話者に限定される経験を表すのではない。むしろ、この文は主体一般が経験しうる事象について語っているのだ、と言えよう。

「見える」「聞こえる」という動詞も、前回の終わりに注意したような、感情ないし心理的表出と属性叙述の両方に使用されるという、二面性を持った動詞の一つである。そして、ル形で現在の事象を表すというテンス的に変則的な用法を持つ。

 

2.

この「見える」「聞こえる」は、普通「見る」「聞く」という動詞とは語彙的に区別されている。しかし、寺村秀夫のように、「見る」「聞く」から文法的に派生した、態voiceの一種であるとする立場もある(『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p272)。

それによれば、これらは見る聞くの<自発態>あるいは<自発形>と呼ばれることになる。

 

しかし、「聞く」⇒「聞こえる」は、動詞の基本形から<自発態>を作る際の一般的な規則からは外れている。

寺村秀夫によれば、自発態は、通常は、<子音動詞の語幹+eru > によって産出される。母音動詞で自発態をとるものは非常に少なく、「見る」⇒「見える」、「煮る」⇒「煮える」ぐらいである。(cf. 『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p272)

子音動詞については、これは「可能態」を産出する規則と変わらないから、寺村とは違って、独立したカテゴリーとしての<自発態>を認めない立場もある。

 

そこで一般的な「可能態」の産出規則に従えば、「見る」⇒「見られる」or「見れる」(母音動詞語幹+ rareru、ら抜き言葉の場合は+reru)、「聞く」⇒「聞ける」(子音動詞語幹+eru)となる。

他の動詞の可能態の例を挙げておく。

出る⇒出られる(母音動詞)

話す⇒話せる(子音動詞)

可能態を用いた文も、ル形で現在の事象を表すという特徴を持つ。ただし、主語が一人称に限られないことに注意。

巨大な渦潮が、鳴門海峡見られる

今の季節、山地で、ホトトギスの鳴き声が聞ける

彼はフランス語が話せる

今なら、この街を出られる

これは、一般の受動態とは異なった性質である。

その技術は、いずれ盗まれる/今まさに、盗まれている

あの男は、きっと同僚に軽蔑される/もう同僚に軽蔑されている

ここでは、ル形は未来の事象を表す。現在を表すにはテイル形を用いる。

すなわち、一般に受動態は動態動詞のテンスの原則に従うのに対し、可能態はル形で現在の事象を表す変則的テンスをとる。そして、主語に人称制限は見られない。また、通常は、「可能態+テイル形」は許容されない。

彼はギリシャ語が読める/*読めている

先に見た「彼は、その小さな字が見える」も、可能態に準じる表現と言える。

(※日本語教育では、「可能態」よりも、「可能形」として捉える方が主流のようだが、ここでは便宜上、前者を使用する。)

ただし、可能性表現は、可能態のみならず、「できる」「わかる」といった動詞にても可能であり、これらも同じようなテンス・アスペクト的特性を示す。従って、一般的動詞の可能態とこれらとをまとめて、「可能動詞」のような呼び名で呼ばれることもある。

そのテンス・アスペクト的特質から、可能動詞は、アスペクト的に状態動詞に分類されることが多い。

また、<動詞+「し得る」「ことができる」「しかねる」>といった迂言的な可能性表現も、ル形で現在の事象を表す性質を共有している。

このように、日本語の可能表現は多様な形式をとる上に、その使用条件に、共通性と細かい違いの双方が加わってくるので、簡単に総覧することは困難である。ここでは、あくまでも、変則的なテンスへの興味という切り口から、その一端を覗き見るのみである。

 

3.

一方、「自発態」については、その存在が認められる動詞が限られる上、先に触れたように、(寺村の立場では)その動詞のほとんどが可能態と形態を一にする。従って、どの程度、自発態というカテゴリーの独立を認めるべきかが問題となる。

寺村は、自発態の文は、あるものが、自然に、ひとりでにある状態を帯びる、あるいはあるものを対象とする現象が自然に起きる意味のことをあらわす、と言う(p271)。そして、次のような例をも、自発態の文とする(cf. p263-4)。

この問題が解けた

ケーキがうまく焼けた

ただし、次のような文は、可能態の文であるという(p263-4)。

太郎には、この問題が解けた

花子には、ケーキがうまく焼けた

これらの文には、動作主格(Agent)ないし経験者格(Experiencer)が明示されている(「太郎には」「花子には」)。つまり、寺村にとり、それが脱落することが自発態の条件の一つなのであろう。

このような「自発態」は、ル形で現在の事象を表すテンス的な変則性を持たない。(つまり、今回変則的用法として取り上げようとするものは、寺村の「自発態」の中で限られたグループであることに注意しておく。)

しかし、これらは、自動詞の文と見なすこともできそうである。つまり、他動詞⇔その自発態という対応は、いわゆる動詞の自他対応と紛らわしく、区別が困難な場合があるのだ。

解く⇔解ける

焼く⇔焼ける

事実、寺村も、自発形の動詞は、態の一つではなく、自動詞としてあつかわれることが多いとし、形態的、統語的、意味的に自動詞とほとんど変わるところがないと認めている(p278)。それでも、寺村が自発態というカテゴリーを立てる理由については、今は立ち入らない。

 

山岡は、意味役割の視点から検討を加え、「動作主格でなく経験者格をとる感情動詞についてのみ、自発態を認める」としている(山岡「可能動詞の語彙と文法的特徴」p9)。注意すべきこととして、この場合、「自発態」は、可能態でなく受動態と形態的に一致する。そして、経験者格を明示した、受動態としての使用は不自然となる(同論文、p9)。

①少年が故郷を思い出す。<能動態>

②少年は故郷を思い出せる。<可能態>

③??故郷が少年によって思い出される。<受動態>

④故郷が思い出される。<自発態>

他に、〈しのぶ−しのばれる〉、〈思う−思われる〉、〈感じる−感じられる〉、〈考える−考えられる〉、〈惜しむ−惜しまれる〉等。これらの中の子音動詞が、「可能形」をとりにくいことにも注意しよう。「しのべる」「惜しめる」等は使われないのである。

(寺村も、これらと重複する感情動詞群について、可能形をとりにくいことと、自発的な心理的反応を表すことに注目している。cf. 265、これについてもいずれ取り上げる予定。)

これらに自発態を認める理由の一つとして、受動態での使用(上の③)が不自然となる一方で、そこから経験者格を捨象した文(ここで言う「自発態」、上の④)は普通に使用されるという事実がある。また、④のような文は、例のテンス的変則性を持つ。

ただし、主体が能動的、意志的に思い出したり、考えたりすることもあり、その場合、意味的には経験者格でなく動作主格ではないのか、という問題がある(山岡、「可能動詞の~」p34)。しかも、そのような場合であっても、受動態文は不自然となる(p34)。ゆえに、ここでも分類に関する不透明さは消えていない。だが、この問題にも、これ以上は立ち入らない。

雑にまとめると、寺村のように「自発態」を広い範囲の動詞に認める立場があり、その場合、自発態は(大部分の動詞で)可能態と形態的に共通する。これに対し、山岡の立場では、自発態は一部の感情動詞(ないし心理的動詞)についてのみ認められ、形態的には受動態と共通する。当ブログでは、山岡の「自発態」に、「見える」「聞こえる」等を加えたものを自発態と考えておく。

 

「見える」「聞こえる」の特徴として押さえておくべきは、これらが可能性表現をもカバーしていることである。また受動態の表す意味とも被っている。

a. 彼女は若く見られる

b. 彼女は若く見える

c. 立話が彼らに聞かれたらしい。

d. 立話が彼らに聞こえたらしい。

e. 北の方に筑波山見られる

f. 北の方に筑波山見える

ここで注意したいのは、a, e のような受動態の文にも、例のテンス的変則性が備わっていることである。(その点で、上で取り上げた感情動詞群と共通する。)もっとも、これらは、受動態であるのか、可能態であるのか、判断が難しい面がある。(cf. 寺村。p274)

ただ、「見える」「聞こえる」と「見られる」「聞ける」の可能表現の間で、無視できない使用条件の違いがある。そこには、「見る」「聞く」動作の意志性の有無、「実現された可能」の問題等が関わっていよう。今は立ち入らないが、後に取り上げたい。

 

以上のように、「自発態」というカテゴリーは問題を孕んでいるとしても、可能表現と自発性表現の中に、変則的テンスをとるものが存在することは明らかである。具体的には、可能態、「できる」「わかる」等の動詞、ある種の感情動詞の「自発態」、「見える」「聞こえる」等による文である。それに加えて、<動詞+得る、ことができる、しかねる>といった形式も、同様の変則的テンスをとる。

それらは、一般的な動詞から派生するものが多いが、すべての動詞がそのような態・形式をとれるわけではない。

次回は、その条件について見てゆく。

 

 

 

 

 

動態動詞ル形の用法について(9)

1.

続いて、「一人称ル形で話者の感情や内的感覚を表出する動詞」について見てゆく。

鈴木重幸「現代日本語動詞のテンス」、高橋太郎『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』に挙げられた文例より、

・「市川君、そう君のように言うから困る。~」

・「登喜子もいいが、虐待されるんで弱るね

・「つかれるわ、わたし。......ねむらせて。ねむらせて」

・ほんとに、むしゃくしゃするよはらたつよ、…

・「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの

・「ああ、どうしたのかな、手がしびれる。」

(cf. 鈴木、p37、高橋、p68-9)

これらが示すように、問題の文では、一人称主語(「私は」「僕は」etc.)は省略されることがある(むしろ、そのほうが多い)。

これらの動詞の中には、「困る」「疲れる」のように動詞一語で感情・内的状態を表わすものと、「頭痛がする」「癪にさわる」のように動詞と補語が一体となって固有の意味をあらわす(成句化している)ものとがある。後者には、「頭痛する」のようにガ格をとるものと、「癪障る」「気なる」のようにニ格をとるものがある。そして、基本的に、ヲ格をとらないことが特徴となっている(cf. 山岡政紀、「日本語の述語と文機能の研究」p199)。これらの動詞は、対象格(Object, Obと略す)をとる場合にも、ニ格またはガ格をとり、ヲ格はとらない

あの言い方が障る。

あいつの顔がなる。

あの言い方に虫酸走る。

君の愚かさには愛想尽きる。

(cf. 山岡、p199)

「癪に障る」「虫酸が走る」のような動詞は、上の例が示すように、成句内でニ格が使われている場合には対象格はガ格をとり、成句内でガ格が使われていれば、対象格はニ格が使用される(山岡、p199)

(※山岡は、ここに分類される動詞で例外的にヲ格をとるものの存在も指摘し、その機能が対人的情意表明であると主張する。(p201)例えば「僕は君を憎む」である。 この点には今は立ち入らない。)

(※前回扱った「思う」「考える」をここに分類することも可能であろう。だが「~を思う」「~を考える」といった用法の存在から、話は複雑になる。そのことについても今は立ち入らない。)

 

2.

他方、成句内または対象格にヲ格をとる「~を気にする」「~に腹を立てる」等の動詞は、一人称ル形では現在の事象を表さない。(ゆえに、上に分類される動詞群には属さない。)すなわち、ル形では、人称を問わず、未来の事象を表す。現在を表現する場合、テイル形が必要である。

僕は、彼の対応に腹立てる/腹立てている。

cf. 僕は、彼の対応に腹立つ/腹立っている。

(私は)彼の対応気にします/気にしています。

cf. (私は)彼の対応気になります/気になっています。

しかし、「腹立つ」ー「腹立てる」、「愛想尽きる」ー「愛想尽かす」のように、これらの動詞の間に、項構造に基づいた対応を見ることができる。ここでさらに、経験者格(Experiencer,Exと略す)の現われ方を考慮にいれると、次のような対応が確認される。(山岡、p199。前の方が一人称ル形の表出文で、一人称経験者格は省略されることも多いので括弧に入れてある。)

([Ex]は)[Ob]気になるーー[Ex]が[Ob]気にする

([Ex]は)[Ob]に腹立つーー[Ex]が[Ob]に腹立てる

([Ex]は)[Ob]に心痛むーー[Ex]が[Ob]に心痛める

([Ex]は)[Ob]に愛想尽きるーー[Ex]が[Ob]に愛想尽かす

見たところ、全体の構造は、日本語動詞の自他対応のパターンに酷似する(cf. 2023-09-07)。すなわち、同一語根の他動詞と自動詞が対応、ヲ格とガ格の交替。ただし、①一人称ル形のテンス・アスペクト的変則性②成句化した動詞内でのヲ格/ガ格交替の存在、という特徴を有する。

山岡は、このような項構造に基づいた対応が、感情形容詞とヲ格動詞との間にも存在することを指摘している(p200)。

([Ex]は)[Ob]が悲しいーー[Ex]が[Ob]を悲しむ

([Ex]は)[Ob]が楽しいーー[Ex]が[Ob]を楽しむ

([Ex]は)[Ob]が悔しいーー[Ex]が[Ob]を悔やむ

人称制限のあり方も、問題の動詞と感情形容詞とで共通する。

これらの点で、ここで問題にしている動詞群は、感情形容詞に似たポジションにある、と言えよう。

さらに、山岡は、このような対立と、一般的な自他対応との違いについても言及している(「感情描写動詞の語彙と文法的特徴」p31)が、今は立ち入らない。

 

3.

ただし、ここで問題とする動詞の中には「手がしびれる」のように、”自他対応” が見出されないものも存在する。(感情形容詞の中にもそのようなものが存在する。「~がつらい」など。cf. 山岡、「日本語の~」p200)一方、「怒る」「苛立つ」「苦しむ」のように、一人称ル形での表出が可能でない動詞で、ヲ格をとらないものも多数存在する。したがって、すべての例が、ヲ格‐ガ格の対立を軸に整理できるわけではないことに注意する。

2024-01-23で取り上げたⅡ①の例をもう一度見てみよう。すると、一人称ル形での表出動詞に分類することも可能なことに気付く。

あれ、このみかんは酸っぱい味がする。あまりおいしくないよ。
この花はとてもいい香りがするな。さわやかな気分になったよ。

見た目とは違って、この生地はザラザラした肌触りがするね。

以前は、これらの例文が、主題句で表された対象の属性記述に用いられる場合を重視して、<Ⅱ属性叙述>に分類しておいた。しかし、上のように、経験者Experiencerの知覚体験の表出に用いられる場合は、ここⅥに分類できよう。(当ブログの分類は機能的な視点に基づいているので、同じ形態が複数の機能を担うことが可能であれば、複数のカテゴリーにまたがることになる。)

(これらにも”自他対応”は存在しない。)

このように、ここで問題にしている動詞文は、知覚の表出の場合も含んでいる。

 

4.

2.で取り上げたヲ格をとる動詞のように、一人称ル形での表出が可能でない動詞について。山岡は、それらを<感情描写動詞>と名付ける。そして、三人称でも可能な、感情の「描写」を、「表出」から区別する。感情描写動詞との対応の有無に関わらず、一人称ル形で現在の感情・内的状態を表出する動詞を、<感情表出動詞>と呼ぶ。

(※感情の「表出」と「描写」という概念については、さらに意味を明晰化する必要があるが、ここではその余裕が無いので先に進む。)

 

山岡は、もう一つ、タ形で現在の感情内的状態を表出する動詞群を認め、<感情変化動詞>と呼んでいる(「日本語の~」p213)。

「思ったより元気そうね。ホッとしたわ

「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」

山岡は、この種の文は、「過去に起きた変化そのもの」と「その変化結果が持続する現在の状態」を共に表し、後者の意味によって「感情表出」たり得ている、と言う(「日本語の~」p214-5)。さらに、「このように、過去時制辞を伴いながら時制意味が現在となり、現在の状態を表わす例は、日本語ではこの種の文しか見当たらない。」と主張する。これらの主張の検討には、今は立ち入らない。

<感情変化動詞>に属する動詞には、下のようなものが含まれる(cf. 山岡、「日本語の~」p215-7)。

(~に)気が付く、(~が)ひらめく、あきる、あきれる、あせる、安心する、困る、疲れる、頭にくる、いやになる、腹が減る、がっかりする、さっぱりする、

 

山岡の分類を、やや雑に、判りやすく表せば、

現在の感情・内的状態を、

①ル形で表出するもの:感情表出動詞

⓶タ形で表出するもの:感情変化動詞

③テイル形で描写するもの:感情描写動詞

となる。

そこで、感情を表現する動詞が、このように多様かつ変則的なテンス・アスペクト的性格を備えているのは何故か、これをどう説明するか、が問われるわけである。

 

5.

以上のように、感情表出や感情描写を担う日本語の動詞は、いくつかのグループがそれぞれ特徴的なテンス・アスペクトと項構造を持ち、感情形容詞をも含めて、互いに特定の対応関係に立つ。

 

山岡の他にも、例えば三原健一は、ここで扱った動詞(三原は「心理動詞Experiencer verb」の呼び名を使用している)における自動詞/他動詞の区別について、直接受動文の可否という基準に基づいた分類を示している(三原、『日本語構文大全Ⅰ』第2章)。そして、一人称ル形で現在の事象を表す動詞(山岡の「感情表出動詞」)は、すべて自動詞であることに注意している(p49)。これは、「感情表出動詞」がヲ格をとらないという事実に直観的に適合する。

山岡も、三原とは異なる独自の基準から、感情表出動詞はすべて自動詞であると主張している(山岡、「感情描写動詞の~」p30)。

(ただし、心理動詞における補語、付加語の格のとり方は複雑であり、注意して分析する必要がある。(cf. 三原、p40-9、山岡、「感情描写動詞の~」p30-2、ここでは立ち入らない。)

その上で三原は、(山岡の)「感情表出動詞」の用法は、状態表現を代用するものである、と主張する(p50)。(その是非はここでは問わない。)さらに三原は、「感情表出動詞」の用法が属性叙述である、という主張を紹介する。しかし、問題の構文は、一時的な状態を表現する場合もあるから、属性叙述という規定は強すぎる、という。「一時的な状態」の場合とは、例えば次のような場合である(三原、p52)。

そんなこと、困るよ。

うーん、その選択は迷うなあ。

この主張の是非に関しても検討は措く。

思い出したいのは、<Ⅱ属性叙述 >の分類に含めた、鈴木重幸の謂う「一時的な状態の現在」の叙述である。それは、次のような文例が表現するものであった。

・「眠ってますね、相変わらず。」「随分眠るな。もう十時間近く眠っている。」
・「ああ、いい風がくるね。」(鈴木、p29)

鈴木は、これらを「非アクチュアルな現在」の中に分類した。なぜなら、

このようなばあい、動きや変化は発言の瞬間にすでにおこったことか、現におこっていることであるが、これらの文は、主体の個々の動きや変化の実現をあらわしているのではなく、その質的、量的な側面を主体の属性として表現しているといえるであろう。そして、その属性は単に潜在的なものでなく、現に目のまえに顕在化している点で、コンスタントな属性の現在とことなっている。これをコンスタントな属性の変種とみるか、それから派生したものとみるかについてはなお検討を要する。(p29)

つまり、鈴木の見方では、このような文は、単にある出来事が起こったことを伝えるのではなく、出来事のもつ属性を伝えることに主眼がある。この側面において、「コンスタントな属性」を伝える文と共通する。従って「非アクチュアルな現在」のル形に分類可能である。

だが、「目のまえに顕在化している」ものの表現である限りで、「アクチュアルな現在」の表現である、という見方も可能だろう。つまり、このような表現は、「非アクチュアルな現在」と「アクチュアルな現在」にまたがる二重性を持つ、と捉えることができよう。注意すべきは「目のまえに顕在化している」という条件である。これは、「感覚によって把握された出来事の現在」が表現されていることを表わしていよう。

感情表出のル形文についても、この見方がヒントにならないだろうか。思い出したいのは、3. で見た、「〜の...がする」構文である。この構文は、対象の属性叙述にも、経験者の体験叙述(知覚の表出)にも使用された。ここにも、「非アクチュアル/アクチュアル」の二重性、二面性が存在する。そしてまた、「感覚」がここに関わっている。このような例のみならず、広く、感情表出文を、アクチュアルな現在の表現と属性叙述の二面性を備えた文と捉えることができるだろうか?

これ以上立ち入らないが、強調したいのは、「アクチュアルな現在」の表現に分類した感情表出動詞文と、「非アクチュアルな現在」に分類したⅡ属性叙述文との間に、上のようにつながり、中間例が認められることである。

そして、「一時的な状態の現在」の言表は、「~な」「〜ね」や「〜よ」といった対人的な機能をもつ終助詞となじみが良い。それは、感情表出動詞文にも共通する。

・「眠ってますね、相変わらず。」「随分眠る。もう十時間近く眠っている。」
・「ああ、いい風がくる。」
・そんなこと、困る
・うーん、その選択は迷うなあ

それは、その「現在」の表現が、間主観的な、確認や合意形成の機能を果たすからだろうか。

ⅠからⅦまでの用法の間の類似性、重複には、あらためて目を向けなければならないが、その最も重要なものの一つがここに現れている。

ここにとりあげた、「アクチュアルな現在の叙述(=事象叙述)/非アクチュアルな現在の叙述(=属性叙述)」という二重性を持った発話について、当ブログは、「体験の表現が非因果的説明(あるいは美学的説明)となる場合」と捉えて注目してきた(cf. 2021-06-07, 2021-06-08, 2021-10-25)。(その関心はウィトゲンシュタインのテクストを読むことに始まった。)少なくとも日本語においては、そのような発話が、変則的なテンス/アスペクト的特徴とともに存在することを確認できたと思う。

次は、Ⅶ可能態、自発態のル形を扱うが、そこから進めば、当ブログの関心をさらに裏打ちするような用例が見出されるはずである。

動態動詞ル形の用法について(8)

1.

続いて、

Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出 に移る。

Ⅴに属する、態度表明のル形については、前回見た。ここではまず、ⅤとⅥを連続的に捉える。つまり、態度表明のル形とⅥの中間例を見ることにより、Ⅵ全体に向けた導入とする。

鈴木重幸は、(前回取り上げた)「賛成する」「断る」「お願いする」等の他に、「信じる」「同情する」「思う」「考える」などを、態度を表す動詞として挙げている(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」p33~)。後者について、次のように言う。

話し手の態度表明の文には(…)、話し手の評価や判断を表明する文もある。このばあいの動詞は、上のばあいとちがって、具体的な行動における態度的な側面をあらわすというよりも、感情的な、知的な態度そのものをあらわすものである。(p35)

この「感情的な、知的な態度そのものをあらわす」動詞を、当ブログでは、<Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出>の枠に入れてみる。ただし、連続的に捉えることも可能であり、そこから見て取れることも重要なのであるが、それは後の話題としよう。

問題となるのは、一人称でのル形文であるが、鈴木の挙げている例文より

「ああ。本当に愛しているよ」「わたし、信じるわ...~」

「本当に御同情します。本当に随分苦しかったでしょう。」

「そういうあなたを、僕は立派だとおもう。」

わたしはこんどの事件を若ものが一度はとおらなければならない一種のハシカだと考えます

これらを「賛成する」「断る」「お願いする」等から区別するならば、その根拠は何であろうか。

高橋太郎の見方を参考にしよう。

「わたしはそうおもう。」というとき、そうおもうのは、まさに、それをいうときのことであり、そのまえのことでもあとのことでもないので、話しの時点のことだという意味で瞬間的といえるかもしれない。けれども、その瞬間に始発から終了までふくんだまるごとの動作としてのべているわけではない。それが話しの瞬間のことをのべているとしても、その動作がそのまえからつづいていたのかどうか、そのあとまでつづくものかどうかが考慮にはいっていない。

このことは、その<おもう><かんがえる>などの動作の過程が基準時間である話しの時点とどうかかわるかが問題になっていないということである。つまり、それは、基準時間によって動作過程が分割されるか分割されないかということと関係がない。したがって、この「おもう」は、アスペクト的な意味において、完成相でも継続相でもないのである。(高橋『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』 p65)

高橋のperfective/imperfective の捉え方が議論に関係するが、今はそれを詳しく説明する余裕がない。要するに、高橋は、このような「思う」「考える」の用法をperfective/imperfectiveの対立のいずれかには属さないものと考えている。その点で「お願いする」「頼む」「賛成する」「感謝する」のような動詞とは性格を異にしている、と。

また、つぎのような、「おねがいします」「さんせいする」など、発言そのものが行為となっているもののばあいでも、アスペクト的には、完成相の意味をもっている。

(145) ちょいと、でかけますから、おねがいします

(146) いそがしんだから、はやくたのみます

(147) わたしはさんせいする

このばあいも、すぐあとに「たのみましたよ」「おれ、さんせいしたぞ」ということができる。けれども、「おもいます」や「信じます」は、そのようにはならない。「おもいます」や「信じます」は、完成相の意味をもっていないのである。(高橋、p65)

高橋の主張している内容については改めて吟味しなければならないが、さらに、以下のことに注意しておきたい。

・「思う」「考える」「信じる」のル形変則的用法には、感情形容詞の場合とよく似た人称制限が存在する(cf. 2023-12-27)。(前回、触れるのを忘れたが、「態度表明の動詞」にも存在する。例えば三人称の「彼は賛成します」は現在でなく未来テンスとなってしまう。)

・「思う」「考える」「信じる」は、引用節をとることができる。

わたしは、彼はいい人だと思う。

・主語の「わたしは」「僕は」etc.は、よく省略される。

「思う」「考える」は、モーダルな補助動詞やコプラに近い使われ方もされる。

...会話文で非常におおくあらわれるのは、内容をしめす引用句をともなってあらわれる自動詞「おもう」である。このばあい、「おもう」に対応する一人称の主語があらわれることもあるが、それがあらわれないこともおおい。後者のばあい、「おもう」はモーダルな意味をあらわす補助動詞あるいはむすびcopula にちかづいている。(鈴木、p35。 cf. 高橋、p66-)

・テイル形、時間的副詞句との共起関係の一例。

それでも幸せだと、ときどき思います/思っています。

それでも幸せだと、近頃思います/思っています。

それでも幸せだと、長い間*思います/思っています。

それでも幸せだと、次第に*思います/思っています。

 

2.

Ⅵ、Ⅶに含まれる動詞は、いずれも、ル形で現在の事象を表すという変則性に加えて、ル形で持続的過程の中にあることを表わすという変則性を持っている。(テンス的な変則性とアスペクト的な変則性。)もっとも、寺村秀夫のように、これらを典型的な状態性表現から区別する意見があるが、その点を論ずることは後の課題とする。(cf. 寺村『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』p100〜)

上の引用が示すように、高橋は、一人称における、「思う」「考える」等と、「頼む」「賛成する」等の動詞との違いを、「動作の開始と終了」に対する関心の有無に見ている。つまり、高橋の見方では、ル形が、後者ではperfectiveというアスペクト的意味として機能しているのに対し、前者ではperfective/imperfectiveという対立における機能を果たさない。

また、前者の用法の特殊性(変則性)は、テンス面でのそれも含めて、このアスペクト的な特殊性から来るものだとする(cf. 高橋、p65, 162)。

そして、そのアスペクト的な特殊性は、次のような性格から来るものとする。

一人称現在の「おもう」や「かんがえる」が動作過程の分割・非分割に無関心であるのは、これによってつくられる述語の内容としての動作過程の対象性と、形式としての発話過程の陳述性とが未分化だからである。

......「わたしはそうおもいます。」というときは、その内容としての心的過程は、そのことばを成立させている心的過程とおなじものであるために、関係以前のものとなってしまって、アスペクト的な関係が成立しないのである。

......思考活動は、ことばのかたちで存在するのである。過去におもったということをはなすときはべつだが、一人称現在のばあいは、おもいながらはなすのであり、思考活動としての内言と表現活動としての外言が分化していない。まさに、そのことばが思考活動と表現活動の統一として存在するのである。話し手の現在の思考活動の表現がアスペクト性をもちえないのは、そのためである。

(高橋、p66)

すなわち、思考活動と表現活動とが未分化であるために、アスペクト的な意味が成立しない、あるいはそれに無関心となるのだ、と。

しかし、動作と表現とが一体である典型的な場合として、「宣言する」のような遂行動詞の一人称現在テンスの使用があるが、そちらはperfectiveとしての意味を持っている。「宣言する」行為=表現は、完結することによって、コンヴェンショナルな効力を発揮するからである。

私は、ここに、◯◯大会の開会を宣言いたします。

従って、素朴に考えれば高橋の説には疑問が出てくるが、今はこれ以上立ち入らない。

 

3.

このように問題は多々あるが、「思う」「考える」等の動詞の用法を、感情や知的態度の表出として、Ⅵの分類に入れることには一応の理がある、と言えよう。

次回は、感情や内的感覚などの表出の用法を見てゆくが、ここでも再び、当ブログの出発点に回帰していることに注意しておきたい。例えば、ウィトゲンシュタインにおける<体験Erleben>と<体験ならざるもの>の概念は、心理的概念の時間的様態に関連していた(cf. 2018-07-16)。そして、心理的概念の時間的様態は、心理動詞の語彙的アスペクトと密接に関連する、あるいは雑に言うなら、ほぼ同義である。そして、<表出>という、ウィトゲンシュタイン所縁の概念(cf. 2018-07-31)は、現実の使用においては、文法的アスペクトやテンスの制約と絡む。その、日本語における実態の一端に触れつつあるわけである。