はじめに

はじめに~略号表

 これより、L・ウィトゲンシュタインの「後期の著作」(『哲学探究』をはじめとする、アンスコムらの編集によって出版された遺稿)を読みながら、個人的な覚書、リファレンス等を記録して行く。

 

1.
ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学Ⅰ』より、

ある界隈の勝手がわかっている(auskennen)というためには、君は単にある集落から別の集落への道を知っていなければならないばかりでなく、もしもこの間違った方向に行ったならばどこに到達するのかということもわかっていなくてはならない。このことは、いかにわれわれの考察が地図を作成するためにある地方を歩きまわることに似ているかを示している。そしてわれわれの訪れる領域についても、こうした地図がいつか作成されることはありえないわけではない。(§303, 佐藤徹郎訳) 

 ウィトゲンシュタインは、様々な機会に、哲学的な探求を地表面の探索に例え、展望(übersehen)の問題をそれに結び付けて論じている。
例えば、後にThe Yellow Bookとして編集される1933-34年の講義では、哲学における困難の一つに「展望」(あるいは「概観」、原語 synoptic view)の欠如がある、と語った後、言語を地表面になぞらえ、哲学的問題を地図を作る際に我々の犯す誤りにたとえている。

地図を見れば、同じ土地の上をさまざまな道路が走っている。我々はどの道路も通行できるが、同時に二つの道を行くことはできない。それに似て、哲学においても、我々は諸々の問題を一つ一つ取り上げて行くよりほかないのだが、実際には、それぞれの問題は他のいくつもの問題につながっているのだ。・・・
哲学においては、「さあ、まず大まかにアイデアを把握しておこう」という具合にはいかないのだ。それほど話は単純ではない。なぜなら、さまざまな道の間のつながりを把握しなければ、この地域を知ったことにはならないからだ。そこで、つながりを見通すために、何度も繰り返すということを私は勧めたいのである。
(Ambrose, A., ed. (1979) Wittgenstein's lectures Cambridge, 1932-1935, p43) 

 彼の言葉を信じるなら、ウィトゲンシュタインを読む者は、似たような問題に繰り返し直面し続けることを避けて通れないだろう。その繰り返しこそは、つながりを把握するための手段として甘受されなければならないもの、ということになる。

事実、彼の「後期の著作」は、果てしの無い、いくつものテーマの繰り返しという印象を強く与えてきた。
しかも、単なる反復というよりも、見通しがたい迷宮にたとえられてきたのである。

言語はさまざまな道の迷路である。一方の側からやって来ると勝手がわかる(auskennen)が、他方の側から同じ場所にやって来ると、もう勝手がわからない。(『哲学探究』 Ⅰ §203, 藤本隆志訳)

われわれが自分たちの語の慣用を展望してないということ、このことがわれわれの無理解の一つの源泉である。(同、§122,藤本訳)

しばしば指摘されるように、これらはまるでウィトゲンシュタインのテクスト自体について語っているかのように、とてもアイロニカルに響く。彼のテクストの「展望しがたさ」ゆえに、限られた区画を堂々巡りしたあげく途方にくれてしまう読者が大量に生まれてきたのであるから。

2.
 ウィトゲンシュタインを読もうとするならば、テクストの中の果てもなく繰り返される問いの中で方向を見失わぬよう、何らかの道標を立てながら進むことは必要であろう。これから記してゆくノートは、その役割を果たすためのものである。ここでなされる議論は非常にラフな、覚書程度のものにとどまる。

哲学者の仕事は、一定の目的に向って、諸々の記憶を寄せ集めることである。(『哲学探究』 Ⅰ §127 藤本訳) 

 これに習って?まずウィトゲンシュタインの言葉を寄せ集めて、考察を加えて行きたい。
ただし、それぞれの引用文が属していたコンテクストを十分に示す余裕はないため、論旨のつながりに明確さを欠くことも多いだろう。引用文の内容については、元のコンテクストに還って理解する必要がある。その意味でも、このノートは、ウィトゲンシュタインを読むための覚書にすぎない。長年にわたる彼の思考の転変を探る余裕はないが、より早期に書かれた文章が、後に書かれた文章の内容を良く例証すると思われる場合、あえて前者を後者の説明に使用することがある。そのため、時間系列を無視した議論に見える場合もあるだろう。

3.
ウィトゲンシュタインを読みながら、哲学の内側で一般化された問題(たとえば、数学的プラトニズム)について考えることは、ここでの目標ではない。
彼の哲学上の姿勢は例えば次の部分に、端的に現れている。数学の基礎に関する議論においても、感覚の言語に関する議論においても、自分は、「言葉のいろいろな使用の仕方に注意を喚起しているだけなのだ。」と言う。(cf.『数学の基礎』Ⅱ76節、原書第3版Ⅲ 76節) 
つまり、どちらの議論でも、対立する哲学的主張のいずれかの解答を与えようとしているわけではなく、言語ゲームの多様性、それらの間の差異に注意を促しているに過ぎない、と、ウィトゲンシュタインは主張するのである。
目指すことは、哲学を専門としない一読者として、このような彼の姿勢の理解に努めながら読み進むことである。

<略号表>

ウィトゲンシュタインのテクストへの参照は、英語題名の略号を使う。節に分かれているものは、基本的に節の番号で記す。他は、ページで指示する。
ただし、
・Remarks on the foundations of mathematics は第3版を使用する。
・Philosophical investigations の新版(第4版)では、旧版の第Ⅱ部がPhilosophy of Psychology A Fragmentと改題され、パラグラフに節番号が通しで付されている。ここでは、略号としてはPPFおよび『探究Ⅱ』を用い、ページでなく第4版での節番号で表記する。

訳文について。邦訳を引用する場合は訳者を表記する。訳者による原文の補足は、場合に応じて削除することがある。
原文における強調部分は、すべて下線を引いて表記するように改変する。、
節からの引用は、抜粋である場合が多いが、それを一々ことわらなかった。引用部分の中間に省略した部分がある場合については、その部分を(・・・)あるいは、(中略)によって示す。

略号:原題
TLP,Tractatus,『論考』:Tractatus Logico-Philosophicus
PB、『考察』:Philosophical Remarks
PG『文法』:Philosophical Grammar
BBB『青色本』『茶色本』:The Blue and Brown Books

PI『探究Ⅰ』:Philosophical Investigations 
PPF『探究Ⅱ』(『心理学の哲学-断片』):Philosophy of Psychology - A Fragment
RFM『数学の基礎』:Remarks on the Foundations of Mathematics
RPPⅠ『心理学の哲学Ⅰ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅠ
RPPⅡ『心理学の哲学Ⅱ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅡ
LPPⅠ『ラスト・ライティングスⅠ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅠ
LPPⅡ『ラスト・ライティングスⅡ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅡ
RC『色彩論』:Remarks on the Colour
OC『確実性』:On Certainty
Z『断片』:Zettel
CV『文化と価値』:Culture and Value
PO:Philosophical Occasions
WLC1932-35『1932-35講義』:Wittgenstein's Lectures,Cambridge 1932-1935
WLFM『数学の基礎講義』:Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics
WLPP『心理学の哲学講義』Wittgenstein's Lectures on philosophical Psychology 1946-47
LCA『美学講義他』:Lectures and Conversations on Aesthetics,Psychology,and Religious Belief

WVC『ウィーン学団』:Ludwig Wittgenstein and The Vienna Circle

Definites に関するメモ(3) : Donnellan, Kripke, D. Lewis(3)

1.

ここまで見たようにDonnellan は、Russellらが見落とした、確定記述の指示的用法というものが存在し、Russellの記述説やFrege-Strawson説ではこれを説明できないと主張した。指示的用法では、指示される個体が記述内容を満たさない場合でも、全体の文が「ある意味で」真となる場合が存在する、とした。そのような場合、基本的には、記述説では偽に、Frege-Strawson説では真偽を問えない文になる、とされてきた。Donnellan は、それら双方に対立するものとして、自説を提示したのである。

これについて、Kripke ("Speaker's reference and semantic reference")は、次のように問う: Donnellan の論文における考察は、Russell (あるいはStrawson)の説を反駁しているのだろうか? つまり、適切に論破できているのだろうか、と(p255)。Kripke は、対論をRussell の説に絞った上で、上の問いに対して、否と答える。つまり、Donnellan の議論は、それ自体では記述説を反駁できていない、と。

これも前回見たが、Donnellan は指示的用法と帰属的用法の違いを、語用論的なものと捉えた。しかし、「ある意味で」であっても、文の真理値においてRussell 説と食い違うのであれば、それは意味論的な違いではないのだろうか。Kripke は、(Donnellan は曖昧な態度に留まっているものの)それを意味論的な違いと捉える場合にのみ、Russell 説を明確に反駁できる可能性がある、とする。そこで、意味論的な二義説ambiguity theory(Kripke が再構成したDonnellan )と意味論的な一義説unitary theory(Russell )を対比する。

その際、二重化されたreferenceの概念(semantic reference/ speaker's reference)を用いることで、一義説でも、指示的用法の説明が可能であることが主張される。

 

2.

上の内容について詳しく見る前に、前回取り上げなかった、確定記述の指示的用法と他の語句の機能との類比について簡単に触れておく。

Donnellanは、指示的に使用された確定記述を、固有名proper names に似た機能をするものと捉えた("Reference and definite descriptions"p302〜)。この論文の影響が広まる中で、帰属的用法/指示的用法の区別を、①de re/de dicto の区別と同一視しようとする議論、あるいは②非固定指示non-rigid designation/固定指示rigid designationの違いに類比して捉えようとする議論が現れた。Kripkeは両者を検討して、いずれにも否定的に解答している。その議論については、ここでは立ち入らない。

ただし、de re/de dicto との関連で、以前取り上げた話題について一言言及しておこう。

de re/de dictoは普通、内包的文脈が絡む場合に問題となるが、一般に内包的文脈は多重化させることが可能である。例えば、以前にも取り上げた、

"Hoover charged that the Berrigans plotted to kidnap a high Americanofficial"(Kripke,p)

のように。

その場合、(Russell 的に)作用スコープの多重的包含関係によってこれを説明することは可能であろうが、帰属的用法/指示的用法のようなtwofold distinction によって説明することは困難である、とKripke は指摘している。(以上の例について2026-03-15 を参照)

 

 

 

 

 

 

 

Definites に関するメモ(2) : Donnellan, Kripke, D. Lewis(2)

1.

Russellは、よく知られるように、(定名詞句を含む)確定記述を、量化を含んだ名詞句quantified noun phrase とみなした。Russellに従うと、例えば、the lead vocalist of the Rolling Stones は、Mick Jagger を表示denoteするものの、指示referはしない。The lead vocalist of the Rolling Stones is Mick Jagger という文は、次のような論理式で表される。
(L(x) : x is a lead vocalist of Rolling Stones として)
∃x(L(x)&∀y(L(y)→x=y)&(x=Mick Jagger))
対するにDonnellanは、確定記述にはこれとは異なった指示的用法referencial useもまた存在し、Russellはそれを見落としている、と主張した(Donnellan,"Reference and definite description"p281-2)。
彼は、Russellが指摘した使用の仕方を帰属的用法attributive useと呼び、確定記述は、2通りの用法に分かれた機能を持つ、と主張した。つまり、確定記述は多義性(二義性)を持っている、と。
どちらの意味で使用されているかは、文脈を離れて決定することはできない、と主張した。ある一つの文の中の同じ確定記述が、別々の状況で、それぞれ別の機能を果たすこともあり得る(p281-2)。
主張の中で確定記述を帰属的にattributively 使用する話者は、斯く斯くである者/物whoever or whatever is the so-and-so に関して何事かを述べる。対するに、確定記述を主張の中で指示的にreferentially使用する話者は、その表現によって、自分が話そうとする誰か/何かを聞き手が摘出pick outできるようにし、その上で、当の人物なり対象なりについて何事かを述べる。(ibid., p285)

指示的用法において、確定記述は、ある特定の仕事を行うための道具の一つに過ぎない−すなわち、ある人物/対象に注意を惹くcalling attention to a person or thing、という仕事への。そして一般的には、別内容の記述や名前など、それと異なった道具も、同じ仕事に使うことができるだろう。帰属的使用では、これこれであるbeing so-and-soという特質にこそ、全ての重要性があるのに、指示的用法ではそうでない。(p285)

これらの例から一般化すれば、次のように言えるだろう。“The φ is ψ “という型の文には、2種類の用法がある。その一つでは、the φ であるものが存在しない場合には何ものもψであるとは言われていないことになる。もう一つでは、the φ であるものが存在しないとしても、同様な帰結は導かれない。(p287)
Donnellanが指示的用法を説明するのに用いた言い回し、”pick out”, “calling attention to something” が注意を惹く。それらは、この用法の機能に関して重要な示唆を与えている。
 
Donnellanが2つの用法を具体的に説明する際に用いたのが、次の例文である。(Smith's murdererを確定記述とみなす)
Smith's murderer is insane.
誰がSmithを殺害したか分からずに、遺体の惨たらしい有様から、誰かが推測的に上のように発話する場合には、帰属的用法の例となる。
また、ある人物(Jones)がSmith殺害の罪状で裁判にかけられ、その場での彼の奇妙な振る舞いが話題となった際に、誰かが上のように判断して言う場合、指示的用法の例となる。
さてここで、実はSmithは自殺したのであり、誰も殺害者ではなかった、と仮定してみよう。その場合、記述に適合する人物が存在せず、上の文は偽ないし不適切な文となる。それでもなお、指示的用法においては、聞き手は、話者がSmith's murderer という語句で誰を意味していたか(Jones)を了解するだろう。
 
さらに疑問文での使用について考える。あるパーティーで、マティーニ・グラスを手にした人物に注意を惹かれ、"Who is the man drinking a martini?"と、側の知人に尋ねたとしよう。実は、そのマティーニ・グラスに入っていた液体は水であった。ゆえにthe man drinking a martiniという記述が適合する人物は存在しなかった。しかし、それでも知人は、当の問いに対して "He is ..."と答えることができよう。つまり、問いが成立し、話者が知りたかったことが返答可能に見える。
これらが指示的用法の場合に起こり得ることである。
確定記述の指示的使用においては、実際には記述が適合しない場合にも、尋ねたい人物や対象をうまく摘出picking outすることができるかもしれない。しかし、帰属的使用の場合には、記述に当てはまるものが存在しなければ、問いに対する直接的な返答は与えられないのである。(p287)
指示的用法では、記述内容に適合する個体が存在しない場合にも話者の伝達したい内容が理解可能な場合がある。
Donnellan は、さらに踏み込んで、そのような場合に話者は ある意味で真であることを言い得る、とみなす。
確定記述の指示的用法においては、記述が正確に適用できる対象が存在しない場合でさえも、真である何事かを言い得るかもしれない。ここで、真である何事かを言い得るというのは、ある者/物について真である何かを言い得る、という意味において、である。(p298)
これらが、Russellの記述説に対立する主張、すなわち確定記述の二義性の主張の根拠となっている。
 
Donellanは、この二義性は、統語論的なものではないし、意味論的とみなすのも適当でなく、おそらくは語用論的なものと言うべきだろうとする。そして、
一般的に、確定記述が帰属的に使用されるか指示的に使用されるかは、個別の場合における話し手の意図intentionの函数である。(p297)
このように、個々の現場において、話し手の意図が決定するものとみなしている。
 
2.
さて、Russellの記述説をストレートに受けとるならば、有名な次の例文は(この世界では)単に偽となる。
The King of France is bald.
この文は、
∃x(KF(x)&∀y(KF(y) →y=x)&B(x))
と表されることになり、King of Franceである個体が存在しない(KF(x)を満たす個体がない)から、全体の式が偽となる。
この点に関して、P.F.Strawsonが異を唱えたことはよく知られる(”On referring”, Introduction to Logical Theory)。また、同じ論点が、Frege ”Ueber Sinn und Bedeutung”で既に触れられていたことが現在では知られている。
彼らによれば、the King of France であるただ一つの個体の存在は上の文を使用する際に前提されているpresupposed のであり、もしそのような個体が存在しない場合、その文の真偽を問うことは適切ではない。これを真理値ギャップ説と呼んでおこう。
 
(※このようなまとめ方は簡単に過ぎようが、ここではこれ以上立ち入らない。
①前提presupposition の概念を明確にすることにも、
②問題が意味論的なものであるのか、語用論的なものであるのかを検討することにも、多大な議論が必要となるからである。
また、③特定の文が「真偽を問える文である/ない」という判断に、全般的な一致が得られるか否かは未確定であり、検証される必要がある。
さらに、以前触れた、④情報構造が文の解釈に影響する現象 を検証するのにも多大な労力が必要だからである。)
 
Frege-Strawsonの指摘した、記述によって前提された個体が存在しない場合は、Donnellanの挙げた、確定記述が指示的に使用され、指示された対象に当の記述が当てはまらない場合を含んでいるはずである。しかし先述したようにDonnellanは、自分の挙げたような文を、真偽を問えないものとして単純には扱わない。
“The φ is ψ “と話し手が言い、the φ が帰属的に使用されていて、なおかつφである対象が存在しない場合。その場合は、話し手があれこれの人物、ものについてof this or that person or thing、それがψであると言った、と報告することは正しくない。
しかし確定記述が指示的に使用される場合には、話し手はψを何物かに帰属させている、と言うことが出来る。その場合、われわれは、話し手が指示しているものに関して、われわれの目的に即してより適切な記述なり名前なりを使用し言及することができるだろう。(p301)
従って、次の結論に導かれるのである。話し手が確定記述を指示的に使用する場合、もし何物もその記述に適合しないとしても、なお真か偽である何かが言われているかも知れない。その場合、話し手の述べたことstatementは真でも偽でもない、と言うべき意味は明確ではない、と。(P302)
(※Donnellanは、「ある意味で」真/偽である、と言える曖昧性を、"statement"概念の曖昧さに関連づける。cf. p300)
Donellan は、Strawson の立場もまた、帰属的用法の場合のみに注目していて指示的用法を見逃している、とみなす。
 
なぜ、指示的用法においては、そのような違いが生じるのか。
指示的用法において、話者は、記述が適合する、特定のparticular誰か/何かの存在を前提presupposeする。帰属的用法の場合は、この特定性が欠けている。
確定記述が指示的に使用される場合、何らかの者/物が記述に適合しているという(帰属的使用の際と同様の)前提ないし含意が存在するだけではなく、それとは全く異なった前提もまた存在する。すなわち、話し手が、特定のparticular者/物について、それが記述に適合していることを前提とするのである。(p288)

恐らくより重要なのは、次のことである。帰属的用法と違って指示的用法には、聞き手によって摘出される、当該の対象right thingというものが存在する。そして、それが当該の対象であることは、単純に記述への適合に依るわけではないのだ。(p304)
上が示すように、Donnellan は、特定の対象が存在するという前提を、記述適合対象が存在するという前提とは独立したものとみなす。
この、特定的particularへの着目が、話し手の意図の問題と共に、不定名詞句の特定性specificityを問題にしてきたわれわれの注意を引く。
 
3.
このように、Donnellanは、Russell流の記述説も、Frege-Strawsonの真理値ギャップ説も、批判する。その論拠になっているのが、(Smith's murderer,  the man drinking a martini のような)「”間違った語句”を用いた、ある意味で”正しい文” 」の使用例であった。ここで、この”正しさ”もしくは”真であること”は、意味論的レベルでのことなのか、語用論的レベルでのことなのか、と問うことが出来る。
先に見たように、Donnellan は確定記述の二義性を話者の意図に関連付け、語用論的なものであるとみなしていた。が、その点を深く追求することはなかった。それゆえ、「ある意味で真」といった、曖昧な捉え方に留まった、と言える。そこを明確化し、Donnellan の論証はRussellの記述説を否定するものとなるのかを検討し、否と答えたのがKripkeの論文であり、その後の議論に幅広い影響を与えた。次回はその内容を見る。

Definites に関するメモ(1) : Donnellan, Kripke, D. Lewis(1)

1.

以前に少し触れたが、不定名詞句の指示的用法に関するFodor&Sag 論文(1982)に先行して、確定記述/定名詞句 の指示的用法の存在を提唱した論文に、Donnellan"Reference and definite descriptions"(1966) がある。この論文の影響は大きく、Fodor&Sag 論文もその下にある。

確定記述/定名詞句に関する研究の系譜上で見れば、Donnellan の説は、Russellが提唱し、論理学・哲学において標準的なものとなった「記述の理論」(記述説)に対する有力な批判の一つに位置付けられる。ただし、その後、彼の論文によってRussell の記述説が放棄されるような事態には至らなかった。それには様々な理由があろうが、一つとして、Kripke の論文"Speaker's reference and semantic reference"(1977)が、この問題を考える上で広く影響を及ぼしたことが挙げられる。Kripke は、指示的用法の現象がRussell の記述説を否定する、という見方に強く反論した。彼の反論は、指示reference という概念に関して、意味論的と語用論的という2つの層を区別することに拠っていた。

次回から改めて、この古い論争を確認してゆくのは、不定名詞句と指示の概念に関する理解を深める為でもあるが、意味論的なもの/語用論的なもの、相互の関係について考える為でもある。加えて、彼らの議論が古典的と呼べるだけの典型性を持っているからでもある。

 

2.

Abbottによれば、Russell の記述説に対する重要な批判は、大まかに3つ存在する。古い順から、前提presupposition の概念による批判(P.F.Strawson)、指示的用法の概念による批判(Donnellan)、不完全記述の例および記述対象の非唯一性の例による批判、である(Abbott,"Definiteness and indefiniteness",p4-9)。

これらの批判を取り込んで、記述説に対抗する、新たな確定記述/定名詞句の理論を示唆した論文がDavid Lewis"Scorekeeping in a language game"である。この論文は、全体としては、語用論でいう"Common ground"への同化 accommodation の問題をテーマとしており、確定記述/定名詞句に関する部分はごく一部のみであり、、理論というよりもヒントを与えたに過ぎない。しかし、"salient" 概念を用いて、記述対象が非唯一的な場合の確定記述/定名詞句の使用を説明する、その内容は、その後の議論に大きな影響力を及ぼした。例えば、Heim の有名な学位論文は、直接的にその影響を受けている。Heim のfile change semanticsをはじめとする動的意味論の系譜を理解する上でも、Lewis の議論を確認しておくことの意義は大きいはずである。

 

 

scopeに関するメモ(1)

1.  

specific indefinitesについて見てきた中で、Fodor&Sagが指摘したexceptional wide scopeの現象が、関連する議論の進展を促した、重要な論点であったことは理解されただろう。それは不定名詞句のありふれた用法でありながら、シンタクスの基本的原則を超えるような相貌を見せている。そこからの議論によって、a NP, some NP のような不定名詞句とevery NPのような名詞句とは 取り得るスコープに違いがある、とする結論が避けがたいように思われた。

しかし、さらに、見逃されてきた論点に注目することで、それとは逆の見解、つまりevery NPもa NPのようなexceptional wide scopeをとり得るのであり、両者のスコープ的特性は似通っている、という結論が引き出されるかもしれない。以下、それについて見て行く。

 

2.

Ruys observation について振り返ってみよう。

If three relatives of mine die, I will inherit a fortune. ...①

この文は、three relatives of mineが特定の3人を指すような、指示的解釈referential(existential) readingが可能である。その際、three...は、if- clauseというscope-island を越えるように見えた。しかし、特定あるいは不特定のthree relativesのそれぞれについて「当の人物が死んだら自分は...」という、分配的な解釈distributive reading をとることはできなかった。

①は、前の側面において、

If a relative of mine dies, I will inherit a fortune. ...②

と、

後の側面において、

If every relative of mine dies, I will inherit a fortune. ...③

と類似点をもつ。

このように、three relatives のような不定名詞句は、あたかも、単数不定名詞句a NPとuniversal quantifierである every NPとの中間であるかのように振る舞う。

そこで、さらに大胆に、a NP とevery NPの類比を進めてみることはできないだろうか。

 

2.

まず、③にはreferential reading が可能でないとされた。しかし、②にそれが可能であるとされたのは、quantificational reading とreferential reading の区別が明瞭であったからではないだろうか。②のreferential readingにおいては、 a relative of mineのminimal witness setは、特定の単集合singleton setに固定される。quantificational readingにおいては、minimal witness setは複数の単集合であり得る。そこにはバリエーションがある。

every relative of mine は、一般にはquantificational readingしか持たないとされる。その場合、文脈を固定すれば、常に固定的なメンバーから成るminimal witness set を持つ。平たく言えば、そのような固定的なメンバーを意味する。さらに言い換えると、minimal witness setが単一でバリエーションを持たない。したがって、もしreferential reading が可能であったとして、minimal witness set を構成する個体は、quantificational readingの場合と変わらないだろう(minimal witness setが変化することがない)。

では、every relative of mineも、distributive でない、scope island 越えが可能な、referential な機能を持つ、しかし、それがa relative of mineのように、他のバリエーションとの対比が無いので意識されない、と考えてはどうか。

 

一方、a relative of mine の可能なminimal witness set は、いずれも単数の個体からなる、単集合である。minimal witness setがそれぞれ複数の個体からなるthree relatives of mineの場合と違って、そもそも異なったメンバー(個体)各々による「分配」は問題にされない。何と言っても、メンバーが一つだからである。では、文②のa relative of mineにも、実際はdistributive reading の是非を問うことができ、否定的に答えられる、と想定してはいけないだろうか。

 

ここまでで気付かれたのは次のことである。

・量化子のreferential readingの是非が意識されるのは、その量化子のminimal witness set に複数のバリエーションが存在する場合である。

・量化子のdistributive readingの是非が意識されるのは、その量化子のminimal witness set が複数の個体からなる場合である。

(cf. Szabolcsi,Quantification, 7.2.2)

たとえ普段意識されなくとも、a NP に分配的機能を、every NP に指示的機能を、問題にすることができるとしよう。もし、前者に分配機能がなく、後者に指示的機能があるとするならば、両者の振る舞いは接近するだろう。

 

3.

さて、二つの量化子を含む文のdistributive reading においては、スコープ上位の量化子のminimal witness set のメンバー各々に、下位の量化子が「分配」される。このとき、分配される下位の量化子のメンバーは、上位の量化子のメンバー各々によって決定される。これを、上位の量化子に対してreferentially dependentである、と呼ぼう。

Every boy loves a girl.

この文のquantificational reading において、a girl の指示する対象は、各々のboyによって変化する。つまり、各々のboyに対してreferentially dependentである。

これに対し、下の文の場合、

Every boy loves every girl.

文脈を固定すれば、every girlの意味する集合(minimal witness set の意味で)は一定であり、"every boy"に対して、referentially dependentになり得ないように見える。一般にevery NPの意味するもの(あるいはminimal witness set )は、(文脈を固定すれば)一つに決定されるはずであろう。

しかし、現実の言語使用においては、必ずしもそうならないのではないか。

次の文を考えてみよう。

Every child ate every apple. ...④

シナリオ④

ある小学校の一クラスが、ある農場の見学を行った。休憩時間に農場から、児童一人当たり数個ずつ、リンゴが提供された。児童達は皆、時間内に各々配られたリンゴを全部食べてしまった。

対比の意味で、下の例を見ておこう。

Every child tasted every apple. ...⑤

シナリオ⑤

ある小学校の一クラスが、ある農場の見学を行った。休憩時間に農場から、数種類のリンゴが提供された。それぞれの種類について、どの児童にも最低一切れづつ行き渡るように、切り分けられ配布された。児童達は皆、時間内に各々配られたリンゴの全ての種類を食べてみた。

シナリオ④は、every apple がそれぞれのchildに「分配」される解釈である。「分配」された、それぞれのevery apple は、(minimal witness setにおける)メンバーを異にする。

それに対して、⑤のappleは、リンゴの種類を意味し、every appleの内容は、いずれの児童に対しても一つで変わらない。

 

④のような使用と解釈の可能性を認めるならば、every NPも、a NPと同様に、上位の量化子のスコープ内でreferentially dependentとなることができ、functional readingも可能となる。

これによって、every NPとa NPとの類比はさらに強くなる。

例えば、

Some child ate every apple.

という文は、functional readingとquantificational readingの対立に似た、二義性を持つのである。つまり、some child が自分に割り当てられた分のリンゴを全て食べたという解釈と、その場にあるリンゴ全てを食べたという解釈、である。

 

4.

以上のような論考から、次のようにまとめてみよう(cf. Szabolcsi, "Scope and binding", p28)。

a NPのような不定詞句と every NP のようなuniversal quantifier は、 clause-boundedなdistributive scopeと、clause-unbounded なexistential scopeという2種類のスコープが可能な点で共通している。

ここで、existential scope / distributive scope という異なったカテゴリーが提起されている。existential scopeはreferential scopeとも呼んできたものである。Szabolcsi は、domain restriction とスコーレム的選択関数を用いて、そのメカニズムを統一的に捉える試みを紹介している(Szabolcsi,  Quantification, 7.2.3)。

 

ただし、このような性質があらゆる量化子に認められるのではないことが重要である。Szabolcsiは、量化子のスコープ一般が統一的な性格を持つものではないことを主張する。

例えば、Ruys observationの例外として、each のdistributive scopeが scope-island越えをする現象が挙げられている。

Determine whether every number in the list is even or odd. ...⑥

Determine whether each number in the list is even or odd. ...⑦

⑥は、リストにある数字の全体が、奇数か偶数のいずれかの種類であることを前提に、そのどちらであるかを問う読みしかない。それに対して⑦は、リストにある数字一つ一つについて、奇数、偶数のどちらであるかを問う読みも可能である。つまり、eachにはscope-islandを越えるdistributive scopeが可能に見える。

 

また、

Every fireman thought that two or more buildings were unsafe.

このtwo or more buildingsは、existential scope reading が可能でない。 似た量化子として、at least five NP, exactly five NP等が挙げられる。Szabolcsiは、これらをcounter quantifier と呼ぶ。

Szabolcsi による、ごく大まかな分類では、限定詞句DPsは、3種に区分される(cf. "Scope and binding", p36)。

そのうち2つは、例のunbounded existential scopeを取り得るものである。一つは、two NPのように、distributive reading/collective readingの違いが、述語の性格によって生じるもの。

Two boys played tennis together.

Two boys drunk a cup of coffee.

それと区別されるのが、every NP等で、distributive readingは別のメカニズムによって生じる。

残りの一つは、counter quantifiers である。

 

さらに、Donka Farkas が the scope of the descriptive condition と呼ぶものをみてみよう。

Some boy imagined that every violinist had one arm.

この文は、some boyが全てのviolinist が片腕であるような世界を想像した、という解釈をもつ。その場合、every violinist は、some boyの想像した世界に紐付けられる。もう一つの解釈は、現実世界(あるいは話者の世界)の全てのviolinistについて、そう考えた、という解釈である。

 

このように、Szabolcsiらによる、スコープ概念の捉え直しには教唆されるところが多い。ただし、これ以上の探究は別の機会としよう。

〈量化〉に関するメモ(16):Barwise & Cooper (10)

1.

前回、specificity の本質を「一通りに決まるuniquely identified 」ことに見る立場から、anchoring functionの概念を用いたspecificity理解について、基本的考え方を紹介した。
先に触れたように、specific indefinitesは、個体への指示ばかりではなく、”three students”のように、ある特定の集団を指示する場合も存在した。ゆえに可能なら、「一通りに決まる」という概念を、不定名詞句を含む量化子一般に拡張することが望ましい。
しかし、一般化量化子の理論 GQ theoryでは、量化子は<<e,t>,t>のタイプであった。つまり、量化子は、[自身に対する真なる述語の外延 である集合]の集合を(自らの外延として)表示するdenote、とされる。つまり、"Montague lift"されて捉えられている。GQ理論がこのように規定したのは、量化子全般を統一的に扱うためであったが、これは、three studentsという言葉で(例えば) {Robert,Susan,Clara}が意味されている、と考えるような、われわれの日常的な意識から乖離している。われわれがここで「一通りに決まる」と言うのは、日常的な捉え方に関してであり、GQ理論での、一般化量化子の外延がただ一つのメンバーからなる場合を言っているのではない。
 
そこで、そのような日常的な捉え方との仲介に役立つような、GQ理論の概念 witness set を導入しておこう。(cf. Barwise&Cooper "Generalized Quantifiers and Natural Language")
witness setの定義:
Aにlive on する量化子D(A)のwitness set とは、w∈D(A)となるような、Aの任意の部分集合wをいう。
別の言い方をすれば、wは、D(A)に対する真なる述語の外延となる集合の内、Aの要素以外を含まない、任意のものである。
 
例を挙げよう。Johnのwitness setは、Johnを唯一の要素とする集合である。a woman のwitness setは、1人以上のwomanからなる任意の集合であり、every woman のそれはwoman全体の集合である。two womenのwitness setは、2人以上のwomanからなる任意の集合であり、exactly two women のそれは、2人のwomanからなる任意の集合である。
またno womanのwitness setは空集合φである。
 
※文献によって、ここで witness set と呼ぶものをwitness と呼んでいることがある。混乱を避けるため、当ブログではwitness set の呼び名で統一したい。
 

2.

witness setに関する定理を紹介しておく。

まず、量化子の単調性monotonicityについて、おさらいを。

量化子Qは、X∈QかつX⊆Y⊆Eから、Y∈Qが帰結する場合に、単調増加monotone increasing(mon↑) である、という。

また、X∈QかつY⊆X⊆Eから、Y∈Qが帰結する場合に、単調減少monotone decreasing(mon↓) である、という。

mon↑の量化子を形成する限定詞Dの例として、a, every, most 等があり、mon↓の限定詞の例として、no,few等があった。(単調性は、量化子にも、限定詞にも、形容される。)

量化子D(A)がAにlive onするとしよう。wをD(A)のwitness setを領域とする変項として、次の定理が成り立つ。

①もしD(A)がmon↑であれば、いかなるXについても、

X∈D(A) ⇔∃w[w⊆X]

②もしD(A)がmon↓であれば、いかなるXについても、

X∈D(A) ⇔∃w[(X∩A)⊆w]

証明

①

⇒:X∈D(A) かつlive onの条件より、(X∩A)∈D(A)。

(X∩A)⊆Aであるから、(X∩A)はD(A)のwitness setである。かつ、(X∩A)⊆Xだから、

mon↑の条件より、(X∩A)∈D(A)。

⇐:∃w[w⊆X]であれば、witness setの条件から、あるwについて、w⊆(X∩A)かつw∈D(A)。

mon↑の条件より、(X∩A)∈D(A)。live onの条件より、X∈D(A) 。

②

⇒:①の場合同様、(X∩A)はD(A)のwitness set。ゆえに、∃w[(X∩A)⊆w]。

⇐:∃w[(X∩A)⊆w]であれば、witness setの定義から、あるwについてw∈D(A)。mon↓の条件より、(X∩A)∈D(A)。さらにlive onの条件より、X∈D(A) 。

 

3.

minimal witness setの概念を見ておこう。
witness setの内、含む要素の数が最も少ないものを、この名で呼ぶ。
minimal witness setはただ一つの場合もあれば、多数ある場合もある。
例えば、Aを一つのset termとした場合、every A のminimal witness setは、A の要素すべてからなる集合であり、通常一つである。
対するに、a A のminimal witness setは、Aの一つの要素からなる集合であり、Aが複数の要素を含む場合には複数である。この、minimal witness set の単数/複数性は、次回スコープについて論じる際に重要な意味を持ってくる。


日常的な、量化子が指示するものの概念はminimal witness setに近い、と思われるかもしれない(例えば、上のevery A, a Aの例を見よう)。しかし、at least two A という量化子を考えてみよう。この量化子のwitness setは、Aの要素2つからなる任意の集合である。それらがat least two A の指示するものである、とすることには抵抗を感じるだろう。

また、many A, most Aなど、minimal witness setの具体的な姿が明確には定めがたいものも存在する。

specificityに関するメモ(33)

1.

ここまで見てきたようなspecific indefinitesの例を統一的にとらえるために、von Heusinger が提示するのが、anchoring, anchoring function の概念である。詳細な検討は別の機会とし、アイデアのみを一瞥しておこう。
様々な種類のspecificity はそれぞれ異なったコントラストを示している。だが、それらのコントラストは、次のように一般化することで、統一を図ることができよう:
プロトタイプをなすような使用例においては、specificity の概念は、指示的意図referential intention というコミュニケーション的概念に結びついている。しかし他方で、(談話に関与する要素discourse items の)「指示的意図」が関わっているとは、極めて抽象的な意味でしか言えないような場合にも、specificity の概念は使われる。つまり、その適用は、そのように抽象的な、談話要素discourse entity間の関係に及ぶ。
それゆえspecificity とはむしろ、discourse items 間の関係を構造化する、文法化された手段grammaticalized meansであるようだ : specific indefinite は、顕著性のある談話関与者salient discourse participantやその他のdiscourse referent へ指示的に投錨されるreferentially anchoredのだ.
(von Heusinger, "Specificity" ,p97-8)
von Heusinger はspecificity を、ある種の、一般化された関数的機能としてとらえる。
文脈が2つのパラメーターを提供する: anchoring functionとanchor自体である。話者はanchoring  function を特定できなければならない。一方、聞き手にとっては、anchoring function は、意図された指示対象intended referent と同様に、unfamiliarであることが必要だ。しかもなお、聞き手はanchoring function が存在することを思い描かなければrepresentならない。他方、anchorは、話者、聞き手両者にとってfamiliar でなければならない。それによって、indefiniteのスコープ的性質が共有されるのであるから。(ibid.)
specific indefinite の「一通りに決まるuniquely identified 」という性質は、functionの概念によって担保される。つまり、anchoring functionを f とすれば、
f(anchor)=referent
という図式が適用され、anchorの項に入るものは話者であったり、propositional attitude holder であったりする。つまり、anchorは、必ずしも文中で意味される要素ではなく、談話の場に関与するそれらitemであり得る。itemは話者やattitude holder でない場合もある。
Every husband had forgotten a certain date- his wife's birthday. 
Every professor rewarded every student who read a book on the semantics-pragmatics interface.  (ibid.)
見て分かる通り、これらはfunctinal readingの例である。anchorは、それぞれ個々のhusband, professorである。例えば、f(あるhusband )=あるdate という具合に。このような例で特定性を支えるのは、何らかの指示的意図ではなく、それらanchorsとdates やbooks との間の割り当て(関数)assignment function の存在である。
von Heusinger は、ここで問題となるような割り当てのfunctionは、naturalかつ informativeでなければならないとする。しかしなお次の例のように、話者にもその精確な定義が知られない場合がある、という。
The teacher gave every child a certain task to work on during the afternoon.
(every child> task, f(child)=task)
Each reporter was assigned to a certain politician by the editor of the paper.
(each reporter >politician, f(reporter)=politician)  (ibid. ,p99)
これについて、話者が原則的にfunctionの内容をどこまで再現できなければならないかは議論の対象である、と彼はいう。
これらの例文は、a certain +名詞句の存在によって、それらの名詞句が特定的に解釈されるものとして扱われている。これらの例で、何をもって特定的解釈を小スコープ解釈から区別するか? それは話者が割り当ての仕方を実際に特定できることである、というのがvon Heusingerの想定であろう。しかし、不定的解釈、すなわち小スコープ解釈との違いは本当に明確だろうか。(genuin intermediate scope reading の場合にも、同様の、知られざるfunctionが想定可能に見えたことを思いだす。cf. 2026-06-01)このような疑問には、ここではこれ以上立ち入らない。
 
2.
以上のように、プロトタイプとなる用例では、anchoring function は、話者を項にとり、specificな指示対象を値として返すfunction である。しかし、項となるものは話者に限られるわけではない。attitude holder や、上の例のように特定の集合のメンバー(teachers , reporters)である場合がある。
von Heusinger はさらに、anchoringの3つの異なったモデル化について説明しているが、それらの紹介は別の機会にしよう。
次回は、「一通りに決まる uniquely identified 」という性格を扱いやすくするために、一般化量化子理論から witness set の概念を学ぶ。それから、Szabolcsi らによる、量化子のスコープ概念の見直しについて見ておく。

 

 

 

specificityに関するメモ(32)

1.
epistemic specificityについて、簡単なまとめ。
認知的な特性は、様々な姿で、specific indefinites に関連して現れる。
①(話者の)指示する意図
②命題的態度、内包的他動詞
③speaker-given / hearer-new or discourse-new 
(given,hearer-new,discourse-new等の概念については、2024-12-04を参照)
 
specificityの認知的な相は、当初は①によって特徴づけられるものと見えた。しかし、次の例文において、
a. George(to Lisa): I met a certain student from Austin today.
b. Lisa: George said that he met a certain student from Austin today.
(cf. von Heusinger,  "Specificity", p95)
a certain  student がspecificであるのは、George の指示的意図による。Lisa(speaker)は、それが誰だか知っていなくてよいのである。
このように、話者よりもむしろ、命題的態度をとる者propositional attitude holder の指示的意図が、specificな指示対象を決定している場合が存在する(②)。
 

2.
そのような指示的意図の対象を、話者やattitude holder は、直接的・体験的に知っている必要はない(cf. 2025-10-13)。とはいえ、何らかの被認知的な性格を要請しないspecific indefinite はあり得るだろうか。もし、認知的な構造が必要ならば、それはどのようなものだろうか。(当ブログは未見だが、Yeomの議論が参考になるかもしれない。cf. Yeom, A Presuppositional Analysis of Specific Indefinites )

 

3.
当ブログとしては、specificity の持つ認知的な性格として、③の次元を最も重視する。

...referential definites とspecific indefinites とのちがいは、前者では、意図された指示対照を、聞き手も特定することが出来なければならないのに対して、後者では、それが聞き手にとってunfamiliar でなければならない点にある。
(von Heusinger ,  p94-5)
ここで問題となる情報的非対称を、次のように説明しよう。
specific indefinite において、話者は、その特定的な対象を、直接的・体験的に知っている必要はない。また、話者が知っている必要もない(上の例)。ただ、話者は、specific indefinitesの指示対象を、特定されたものidentifiedとして扱っている。すなわち、当の不定名詞句が一般に意味する範囲(領域)より狭く、指示対象が(一通りに)限定されたものとして。さらに、聞き手は指示対象を(当の文脈における)一般に意味する領域以上に限定することができない、と話者が見なしている(そうでなければ、定名詞句や確定記述が使用されるであろう)。
discourse-newあるいはhearer-newな不定名詞句は、このような条件を満たすであろう。このようにして、specificity と情報構造の問題系とのつながりが前面に出てくる。
 
ここで「特定されたものとして扱う」とはどのようなことか?という問いが浮かんでくる。
それが単に発話時に、話者の心の中に、特定の対象に対する志向intentionが存在することに留まるならば、われわれの関心を惹かないだろう。むしろ、文の中で、とりわけ後続のテクスト(談話)において、その対象がどのように扱われるか、に われわれの関心はある。
ここまで素描してきた説明が示唆するのは次のことである:(specific vs. non-specific indefinitesの)この違いは、不定的表現そのものの解釈よりも、それに照応する代名詞を含む後続の叙述を評価する際にこそ重要となる。(Stalnaker,"On the representation of context")
定名詞句(確定記述)と specific indefinitesの使い分けにはテクスト(談話)構造が関わる。このテクスト的構造/機能こそ、明らかにされるべきものと考える。