第四種動詞の周辺(12)

1.

Wolfgang Klein, Time in Language  でのpresent tense の定義は、「time of utterance(TU) が topic time(TT) に含まれていること」であった。

topic time の長さが様々であり得ることを根拠の一つとして、Klein は、歴史的現在のような変則的なpresrnt tense用法を、上の定義を堅持しつつ説明しようとした(cf.  Klein, Time in Language, p133-6)。その紹介は今は省くが、全体として疑問の余地の無いものになっているとは思えない。

さらに前々回見たように、"habitual"の説明においては、矛盾が生じているように見える。

そこで、テンスのさらに基礎にあるものに目を向けたい。

 

2.

テンスの機能の根本は、ある期間(time span,ここではTT)を、別の期間(通常はTU)との関係において時間的に位置づけることにある。

あるいは、テンスとは、このような一般的な関係づけの一部である。というのも、TTが関係づけられる相手は、TUと決まっているわけではないからである。

後者の期間が持つ機能は、いわゆる「投錨点」anchoring pointである。それが与えられる仕方には3通り、deictic, anaphoric, calendaric, がある( ibid., p121)。TUが投錨点となる場合は、関係づけの在り方の一部に過ぎない。

自然言語には、calendaricな投錨点に全般的に依存するテンス・システムをとるものはない。しかし、日付を記した碑文のように、calendaricな投錨点を利用するケースは多々存在する。)

一般的に、テンスとは、TUを投錨点としたdeicticな関係づけによるシステムと見なされている。しかし、TUが何時であるのか、疑問の余地なく受け入れられるのは、実際の会話の現場等に限られる。前回見たように、書かれた文では、投錨点は、TUではない場合がある。Huddleston&Pullum の The Cambridge Grammar of the English Language で、time of orientation(To)という概念が立てられた(p125)のは、それゆえである。

さらに、書かれた言葉においては、TUやToは結局のところ曖昧に終わることがある。

また、発信者、受信者も、そのことを了解した上で発信・受信する場合がある。例えば、小説の中の文章を考えてみればよい。

これらのことは、素朴な経験的事実であり、少しも例外的な事態ではない。その可能性はむしろ書かれた言葉の本質に属するであろう。

 

3.

Klein は、その後の ”How time is encoded” (2009)において、TUをテンスに関する基礎的概念とすることを批判し、新たな理論構成を試みている。

自然言語の時制に関する探究は)特定のテクストタイプへの偏りが強い。時間表現に対する従来の研究は、多くの場合、現実に起こる単数の出来事を扱っている。他のテクスト・タイプ、例えば指令、説明書、法令は、もし扱われるとしても、この偏りを背景として分析されることになる。これは少なからず問題を孕んでいる。重要な時間的カテゴリーであるテンスは、situation を発話の時点moment of speech へと関係づけるものとされる。だが、小説、ケーキのレシピ、法令における発話の時点とは一体何なのか?しかも、これらのテクスト・タイプは、何も珍しいものではないのである。(Klein,p4 )

時制の投錨点はdeicticに与えられると、伝統的に見なされてきた。すなわち、いわゆる「今」の時点、「発話の時点momemt of speech」、「発話時time of utterance」TU がそれである、と。この強く根付いた観念は、様々な偏見を反映しており、テンスに関する従来の探究は、これらの偏見によって性格付けられている。(ibid. p8)

このように、発話時speech timeの概念は ー 文が発声された時刻を意味するのであればー 出来事が時間に位置づけられる仕方の、特殊なケースに過ぎないのである。(ibid. p10 )

TUを基盤とすることの不都合は、Kleinの言うように、小説、法令等のテクストを考えて見れば明らかであろう。このようなテクストの時間表現については、個別的に明らかにすべき様々な問題があるだろう。だが、今は立ち入らない。

Klein は、上述の論文で、TU, TSit, TT という三つ組によるシステムから、CLAUSE-INTERNAL TEMPORAL STRUCTURE とCLAUSE-EXTERNAL TEMPORAL STRUCTURE との関係づけという理論的枠組みに移行している。その検討も別の機会とする。

次回は、さらに、To(TU)の曖昧化(不定化)と 第四種動詞のル形用法について考えてゆきたい。

 

 

 

 

 

第四種動詞の周辺(11)

1.

Time of utterance(TU)を根本概念とすることの問題点は、手紙文を考えてみればわかりやすい。手書きの文章の例でもよいのだが、「音声年賀状」を例に取ろう。

A氏が、12月20日に「新年あけましておめでとうございます」と発話・録音し、クラウドストレージに上げる。

QRコードを生成し、はがきに印刷して、B氏に送る。その際、間違って一般郵便物の方に投函したので、年内の12月25日にB氏のもとに届いてしまう。

B氏は、はがきのQRコードからストレージ内の音声ファイルを再生し、「新年あけましておめでとうございます」というA氏の言葉をその日のうちに聞く。

「新年あけましておめでとうございます」は、既に定型化した あいさつ文であるが、ここでは敢えて、「年が改まった今はめでたい時分です」という意味の、真偽を問うことも可能な叙述文と見なしてみよう。

 

2.

「新年あけましておめでとうございます」という発話のTUはいつだろうか?

実際に音声が発せられた12/20だろうか?A氏が、その日に音声が再生されるのを意図していた翌年の1/1だろうか?それとも、B氏が実際に発話を聞いた12/25であろうか?

それとも、これは意図された通りに届いた発話ではないから、TUを問うのは意味がないのだろうか?

あるいは、意図した受信時以前に発信者が死んでしまった場合は、TUはどうなるのか?この世を去った者の「発話」が死後に行われる、でよいのか?......

このような問いについて一つ一つ考察する余裕はない。通常の叙述文でも、「遠隔地にいる相手の受信時刻を考慮して、テンスを調整した文章を録音・送信したが、ミスにより意図しなかった時刻に受信されてしまう」といった事態は想定可能である。その場合、TUを何時とみなすかは、発信時刻や受信時刻のみでは決まらないだろう。

 

3.

こうした問題を考慮した理論的システムも提案されている。

例えば、Huddleston&Pullum(以下H&Pと略す) によるThe Cambridge Grammar of the English Language では、ReichenbachやKlein に似ているが異なったテンス・アスペクトのモデルを採用している。これとKlein のものとを比較してみよう(cf. H&P,p125-7)。

まず、大まかには、H&Pの time reffered to(Tr) がKleinのTTに、time of the situation(Tsit) がTSitに対応する。そして、time of orientation(To)は、Trとの位置関係によって文のテンスを決定するエレメントであるが、通常はTUに一致する。

一方でH&Pは、TUに対応するものとして、deictic time(Td)を設けている。

これを説明するため、H&Pのように、”time of encoding ”と”time of decoding ”という概念を導入しよう。Toは、普通前者に当たるが、書き言葉では、後者に一致する場合がある。”Td”という概念は、この両方を共に表すものである。

[4] ⅰ I am writing this letter while the boys are at school. [Toは time of encoding]

     ⅱ You are now leaving West Berlin.[看板の表示]  [Toはtime of decoding]

 

通常の会話で、the time of encodingとthe time of decodingは一致するが、書き言葉では両者が異なることがあり得る。一致する場合には、Toは、[i]のように、the time of encoding、つまり書き手の時間に同定されるのがdefaultである。しかし、[ⅱ]の看板の例では、Toはthe time of decoding、すなわち受信者の時間である。だが、このような違いは何らかの形で言語学的に有標化されていない。deictic time という用語は、この双方のケースをカバーするものである。つまり、これらの言語的な出来事そのものを意味するのである。(H&P,p126)

このように、特に書き言葉の場合、time of encodingとtime of decodingの解離が露わになることがある。しかし、(上で「有標化されていない」と指摘されているように、)Bernard Comrieによれば、その2つの違いを文法や語彙に反映させた人類の言語は存在しない。

一方、時間に関して話し手と聞き手の時間的位置の相違は比較的最近の発明である文字の発明、またもっと最近の出来事である録音の発明によってはじめて可能になった。しかし、人類の言語は今でも話し手と聞き手にとっての時間的直示中心temporal deictic centreが同じであるとの仮定の下で使われている。「今」のための語彙が二つあり、一つは書き手が手紙を書いている瞬間を指し、もう一つは読者が判読する瞬間を指すような、またテンス体系の中にこの違いを特定するための区別を持っているような言語は明らかに存在しない。……手紙やそれに類するコミュニケーションで、直示中心を話し手か聞き手のどちらに置くべきかについて規則ができている文化もあるが、それは言語の文法には影響を与えていない。(Comrie, Tense, p15-6, 久保訳p22)

この背後には、次のような、よく指摘される、素朴な同時性の仮定が支えとしてあるのだろう。

一般的に、時間における現在点は話し手と聞き手の双方にとって同じであるが、空間では話し手と聞き手が別の位置にいて会話をすることが可能である(Comrie, p15、久保訳p21-2)

話し手の”ここ”は、必ずしも聞き手の”ここ”ではない。そのことは誰もが受け入れて言葉を使っている。しかし、それに対し、話し手の”今”と聞き手の”今”とは一致するはずだ、と通常考えられている。そして、物理学(特殊相対論)の世界とは対照的に、この「同時性」は絶対的である、と。ある時点が「現在」であることは、いかなる主体にも共通する。また、2つの事象が同時であるか否かは、全ての主体にとって等しく決定されている。それがわれわれの素朴な「実感」なのであろう。

この実感が、言語による社会的生活の過程で「構築」されたものであるのか、あるいは他の根拠を有しているのかは、また別の問題である。

 

戻って、時にToは、Tdとも一致しない。いわゆる相対テンスの場合である。

既に述べた通り、Toは通常、Tdに同定される。その場合、テンスはdeicticに解釈されている。ただし、常にそのように解釈されるわけではない。

[5] ⅰ If she beats him he'll claim she cheated.   [non-deictic past]

    ⅱ If you eat any more you'll say you don't want any tea. [non-deictic present]

cheatの過去形/doの現在形は、それぞれ、TrがToに先行すること、同時であることを表示している。だが、ここでのToがTdではないことは明らかである。(H&P,p126)

ⅰの発話に先立って彼女の行為があるわけではなく、Toは、彼の主張の時点である(もちろん、それらの行為、主張が現実として存在するかどうかは決まっていない)。ⅱにおいても同様に、Toは発話時ではない。

ToとTdを概念的に区別しなければならないのは、こういうわけである。両者は、通常一致するとはいえ、常に必然的に一致しなければならないわけではない。(ibid.,p126)

 

初めの「音声年賀状」の例に戻ってみよう。

time of encodingは、12/20、time of decoding は12/25である。いずれもdeictic timeと呼ばれる資格を持つ。しかし、話し手の意図からすれば、Toは、そのどれでもなく、1/1だと考えられる。この例を相対テンスと呼ぶかどうかは別として、To≠Tdの例になっている。

このように、H&Pのテンス・アスペクト システムは、Tr, Tsit, To, Td の4つを基本的概念とする。そして、必ずしもTo=Tdではない(あるいはTo=TUでない)ことが特徴であった。

しかし、これまで多くの論者が強調してきたように、一般的にテンスのシステムは、deicticな仕方で時間軸上に位置づける仕方を典型とするのではないのだろうか?

そうであるとしても、To=TUあるいはTo=Tdをテンスの本質と考える限り、数々の文の解釈はうまくゆかないだろう。

そして、引用文でH&Pも指摘しているように、話し言葉と書き言葉では、傾向が異なる。話し言葉では、To=Td=TUという、default解釈( phono-deictic 解釈、と呼んでおこう)の圧が極めて強いのである。

 

第四種動詞の周辺(10)

1.

習慣相の説明のところで、Kleinの "habitual"という概念を紹介し、そのポイントが複数のTopic time(TT)を表現する点にあることを説明した。

そこには、まだ不明瞭な部分が残っている。Time  of utterance(TU) と、それら複数のTTとの関係である。

habitualの例として、日本語や英語で見られるような、動詞の現在形で習慣を表す場合を考えよう。

私は朝、昼、晩に歯をみがく。

He gets up at seven.

Kleinの見方に拠れば、これらの文は、複数のTTにおける、同じ事象を表現する。アスペクト的にはperfective である(TT⊃TSit)。

では、それぞれのTTとTUとの関係はどうであろうか。

Kleinに拠れば、現在テンスの定義は、TUがTTに含まれることであった(TT⊃TU)。

とすれば、定義からして、各々のTTはいずれもTUを含んでいる、と考えたくなる。つまり、これらのTTは、TUという時点を共有した期間の集まりである、と。

 

ところが、これではおかしなことになる。と言うのも、この構造なら、TUの近傍でsituationが一回生起するだけで、(ほぼ)すべてのTTについて、TT⊃TSitとなる。つまり、TUの近傍で一回生起しただけで、習慣が成立することになる。

 

しかし、本当に習慣が成立すると言えるのは、下の図のような場合であろう。この時、それぞれのTTについてTT⊃TSitであるためには、situationは複数回生起しなければならない。つまり、複数の、TUを含まない期間Pについても、P⊃TSitである必要がある。

このように、habitualのTTには、TUを含まないものもなければならない。

だが、その場合、Kleinによるpresent tens の定義(TT⊃TU)からは外れてしまう。

 

2.

これを説明するモデルの考え方には、2つある。

まず、前々回の仮説のように、複数のTTを包み込むDomain of TT(DTT)を設定し、TUがDTTに含まれることが、この場合のpresent tensの意味である、とする方向。

もう一つは、TUを基本概念とはせず、より基礎的な概念に立ち返って考えてゆく方向である。

ここでは、どちらが説明として適切か、は措いて、後者の道を進む。実のところ、Kleinにおいても、TUは根本概念とは言えないからである。

 

 

第四種動詞の周辺(9)

1.

野田高広は、広義での習慣を表わしながら、現在時制でル形の容認度が低い、つまりル形習慣文を取りにくい動詞群の存在を指摘している。例としては、<通う、付き合う、暮らす、住む、定期購読する、営む、愛用する、養う>等である。(cf. 野田「現代日本語の習慣相と一時性」p208)。

太郎は新宿の職場に*通勤する/通勤している。

花子は太郎と*付き合う/付き合っている。

花子は大阪で*暮らす/暮らしている。

太郎は囲碁雑誌を*定期購読する/定期購読している。

太郎はハーブ石鹸を*愛用する/愛用している。

私の父は時計屋を*営む/営んでいる。

(以上、野田、p208-9)

野田は、ル形の容認度には若干の個人差があることを認め、「一般に対話の場面を設定した場合のル形の容認度は低く、小説などの語りの文脈でのル形の容認度は比較的高いようである」と言う。また、これらの動詞と第四種動詞との類比にも触れている(p209)。たしかに、「対話の場面でのル形の容認度は低く、小説などの文脈での容認度は比較的高い」という特徴は、これまで話題にしてきた第四種動詞の「恒常性用法」にも共通している。

 

これらの動詞の性質は、野田以外の研究者からも注意されてきた。

それら研究者の述べていることから、これらの動詞を特徴付けてみよう。

数年にわたる行為を意味する動詞

 学校で、はとをかっているところもあります。(二上 16)

この例文で、「かっている」は毎日する個々の行動がくりかえされることを意味しはするが「くりかえし」の例にははいらない。「かう」ということ自体が数日から数年にわたる行為を意味するからである。従って、「毎日かっている」は正しくない。同じような語として、「くらす、生活する、住む」などがある。(吉川武時「現代日本語のアスペクトの研究」p198)

 

「いきる」「くらす」「住む」などは、ながい期間の持続をあらわす動詞である。......これらは、ひとつひとつの具体的動作はいろいろであるが、全体をとおして、ひとつの動作としてあらわしているのである。(高橋太郎『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』p99-100)

「愛読する」や「かよう」などは、動作としては、ひっきりなしにつづくわけではない。けれども、こういう動詞は、そうした非連続のくりかえしをひとまとめにしたものを、ひとつの動作としてあらわすのである。この種の動作は、...大規模な動作といえる。(高橋、p108)

 

なお、「通う、通勤する、交際する」のような、多回性を、語彙的意味自身のなかにとらえている動詞がある。これらでは、時間的限定性の抽象化が進んでいるともいえるが、スル形式で、テンス的に<現在>を表すことができない。反復性ではないであろう。(工藤真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト』p154)

その他に、鈴木重幸は、「職業としての動作はふつう継続相だけがもちいられ、完成相はもちいられない」ことを指摘している。また、それに準ずる例も示している。(鈴木「現代日本語の動詞のテンス」p23)

寅「なにしているんだい、商売は」リリー「私?......歌うたってるのよ」(男はつらいよ 64)

このごろは、英会話をならっています。

工藤も同様の指摘を行っている(p160)。また、語彙的アスペクトから見た動詞分類において、これらの動詞を、「人の長期動作動詞」と名付け、主体動作動詞の一部に位置づけている(p76)。

 

野田は、上の吉川の指摘を受けて、「これらの動詞には「毎日」「いつも」「しょっちゅう」などの頻度を表わす副詞句が共起しにくいという特徴が認められる」と言う(p209)。

 

以上から、問題の動詞は、どのように特徴づけることができるであろうか?

これらの動詞は、個々の動作が繰り返されることを表わしている。例えば、「愛用する」は、その対象を使用する個々の行為の全体を「大規模な動作(高橋)」「長期動作(工藤)」のように表す、と見ることができる。

個々の動作は、長期にわたる繰り返しがなかったならば、その動詞の名で呼ばれることはないであろう。一日だけ、ハーブ石鹸を楽しみつつ使用したとしても、他の日に一切使うことがないなら、「ハーブ石鹸を愛用した」とも「愛用していた」とも言えない。一日だけ、飼い主に代わって鳥の世話をしたとしても「鳥を飼った」「飼っていた」とは言えない。この点で、Vendlerのactivity verbの典型例である、「歩く」「ダンスをする」といった動詞とは異なっている。

いくつかの動詞では、背後に長期にわたる慣習的行為があれば、その全体から個々の動作を取り出して、個別にその動詞の名で呼ぶことができるだろう。例えば、ある日の、バス停まで歩き、バスに搭乗して、オフィス近くのバス停で降り、そこからオフィスまで歩く行為を振り返って、「その日私は、早目に通勤した」と言うことができる。そうであっても、ル形を用いて習慣文のつもりで「私は、◯◯町のオフィスに通勤します」とは言いにくく、「通勤しています」が自然であろう。ただし、個人のプロファイルを紹介する文章の中では、ル形の「〇〇町のオフィスに通勤する」も自然である。(話し言葉と書き言葉での違い。上でも触れたが、この点で、恒常性用法の場合によく似る。)

それに対して、「暮らす」の場合、特定の一日について、「その日も〇〇市で暮らした」と述べるのは奇妙であり、「暮らしていた」が適切である。「暮らす」に比較すれば「通勤する」のほうが個別の行為を動詞の名で呼びやすいという特徴を持っている。「暮らす」も、個人のプロファイル紹介のような書かれた文章では、ル形が許容される。

 

2.

この種の動詞の詳しい検討は別の機会とする。

恒常性用法と習慣文について、当ブログでは、いずれもアスペクトは「中和」されず、その性格が生きている、という立場をとってきた。

恒常性用法については、影山が指摘したような、期間を表す副詞句との共起可能性の違いに、ル形/テイル形のアスペクト的性格の違いが現れていると解釈した。

習慣相については、野田の研究を参照しながら、非限定的用法と限定的用法の区別、非限定的用法内部でのアスペクトの現れについて見てきた。

 

第四種動詞と長期動作動詞については、ル形のとりにくさは、ある程度まではアスペクトの面から説明できるかもしれない。

「暮らす」「飼う」のような長期動作動詞については、次のように。

例えば、ある一日、普段の生活の手順を踏んで特定の様々な動作を続けて行うことは、たしかに「暮らす」に含まれる行為の一バリエーションであり、それを完結したひとまとまりと見ることも可能である。しかし、その一日の行為は、「暮らす」という「大規模な動作」「長期動作」の部分であるから、「その日、彼女は大阪で暮らした」とperfectiveに述べるのは不適切であり、「暮らしていた」とimperfectiveに用いなければならない、と。(TT⊆TSit, つまりTopic timeがTime of Situationの部分をなすことが、imperfectiveの意味であった。)

ただし、期間の副詞句の表す期間が、TT⊃TSitとなり得るほど十分に大きい場合は、「暮らす」や「愛用する」をperfectiveに用いることには問題がない。「彼は、15から18歳になるまで、海外で暮らした」「祖父は晩年、木のステッキを愛用した」のように。

 

次に、恒常性用法、第四種動詞について。

議論のために、いずれの第四種動詞も変化動詞を原義とすると仮定しよう。すなわち、語彙的アスペクトの面では、変化動詞である、と。さらに、ここまで示してきたように、文法的アスペクトも機能している、とする。もし具体的な期間を示す副詞句が添えられたなら、その期間において語彙的・文法的アスペクトの性格に沿って事象を述べることになる。

テイル形に副詞句が添えられた場合は、その期間において「変化結果」の残存状態を表すことになるが、これには問題はないだろう。つまり、ここでは第四種動詞の原義を変化動詞と見なしており、その「変化結果」が、第四種動詞の表す恒常的な状態に相当する。恒常的な状態であれば、どの期間をとっても、その状態が持続する期間に含まれるはずである(TT⊆TSit)。

そこで、ル形をとる場合、つまり恒常性用法の場合について考えよう。その文法的アスペクトはperfectiveである。

ゆえに、恒常性用法においても、期間の副詞句が添えられたなら、その期間においてperfectiveに事象を表さなければならない。

しかし、多くの第四種動詞においては、、現実には変化の起こった瞬間は存在しない。したがって、どんな期間的副詞句が添えられても、perfectiveの条件(TT⊃TSit)を満たすことはできない。

また、副詞句が、英語のfor+期間(例:for two hours)のような種類のものである場合、変化動詞との相性は悪いはずである。(「昨日午前0時から正午の間に、死んだ」とは言えるが、「昨日午前0時から正午の間、死んだ」とは言えない。)すなわち、変化動詞という語彙的アスペクトの性格が生きているなら、副詞句の種類による相性の悪さも存在するだろう。

 

3.

とはいえ、期間の副詞句を伴わない恒常性用法や、連体修飾時には、アスペクト的性格は失われているように見える。その意味で、アスペクトの「中和」という考え方にも理はあるように思われてくる。

伊豆諸島は、神奈川県の南の海上浮かぶ

ヒマラヤの峰々がそびえる様は壮観であった。

それは、あまりにばかげた話だ。

あるいは、この場合、「変化結果の状態にある」という(アスペクト的)フェーズの解釈が強制される、というべきだろうか。

では、その場合にアスペクトの「中和」ないし「強制」を可能にしている条件は何だろうか?

ここで一旦、テンスに目を向ける必要があると考える。

 

 

第四種動詞の周辺(8)

1. 

ここまで扱ってきた「イタリア北部にはアルプスの山々がそびえる。」「南北に約750㎞、東西約120㎞のエリアに26の環礁が浮かぶ。」といった文は、習慣を表わす文とは異なり、繰り返される事象を表現するものではない。そのためか、西田論文には、これらの文を習慣文と比較する視点はない。(今後、このような文を、西田に従って、「恒常性用法」と呼ぶ。)

西田は、奥田靖雄の言葉を用いて、「恒常性用法」を「アクチュアルでない現在」の表現であるとした(西田論文、p4)。同じく奥田に影響を受けた鈴木重幸は、ル形による習慣相の文を、「非アクチュアルな現在」の表現の一種とした。鈴木によれば、「非アクチュアルな現在」とは、

これは、動きや変化の現実の特定の一つの時間への関係づけが捨象または一般化されて、不特定、不定数の時間に関係づけられること、あるいはその可能性があることをあらわすものである。発言の瞬間にはその動きや変化は非アクチュアル、ポテンシャルである。非連続的に不定数くりかえされる動きや変化をあらわしたり、主体(対象)にポテンシャルに関係して、それを特徴づける動きや変化をあらわしたりする。(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」、p16)

(鈴木は、ル形による「非アクチュアルな現在」の表現をいくつかに分類しているが、これについては後述する。)

とすれば、<「アクチュアル」でない現在>の表現という点において、「恒常性用法」とル形習慣文とを比較することも無益ではないだろう。(もちろん、西田と鈴木で「非アクチュアル」の意味には多少ズレがあるかもしれない。)

 

その場合、まず気づく相違点がある。「恒常性用法」は、専ら「書き言葉」や特殊な状況(ビデオのナレーションなど)で用いられるのに対し、ル形習慣文は普段の「話し言葉」においても用いられる、という点である。

私は毎朝6時に{起きる/起きます}。

したがって、前回行ったような、文末にヨ・ネ・マスが付加できるか否かのテストの結果は、いずれも可となり、その点でテイル形習慣文との違いはない。

私は毎朝6時に{起きるよ/起きているよ}。

私は毎朝6時に{起きるね/起きているね}。

私は毎朝6時に{起きます/起きています}。

 

2.

ル形習慣文と時間的副詞句の共起の問題、テイル形習慣文との違いについて。

前々回、特定の時間的副詞句との共起可能性をめぐって、ル形「恒常性用法」とテイル形同内容文との相違を確認した。それとパラレルな、ル形習慣文とテイル形習慣文との違い、コントラストが見出されるだろうか?

たしかに、習慣文においても、副詞句との共起関係における違いが認められる。しかし、「恒常性用法」の場合と同じ副詞句で同じコントラストが示されるわけではないので議論は複雑になる。それを別にしても、ル形習慣文と時間的副詞句との共起の問題を精確に捉えるのは容易ではない。

 

影山は、恒常性用法について、次のような対照を示した(前々回を参照)。

*上海には{今まさに / 今のところ}数々の超高層ビルがそびえる。

上海には{今まさに / 今のところ}数々の超高層ビルがそびえている。

*信州には{何千年ものあいだ / 今まさに}3000m級の山々がそびえる。

信州には{何千年ものあいだ / 今まさに}3000m級の山々がそびえている。

ここで挙げられた、「今まさに」「今のところ」「何千年ものあいだ」のような副詞句について見てみよう。

 

「今まさに」を「~している」とつなげると、テイル形は動作継続の読みになりやすい。よって、「今」で代用してみよう。次のような例が考えられる。

あの頃は延ばし放題でしたが、今は、ひげは毎日{剃ります/剃っています}。

今のところ、私は、スーパーでは現金で{払います/払っています}。

これらの例では、ル形、テイル形とも共起可能のようである。

鈴木は、「このごろ、今は、今では、今でも、最近は......」など過去から現在にかけての漠然とした期間を表わす副詞句や「去年から、~してから、~以来、...」などの期間を表わす副詞句は、ル形習慣文とも共起する、と言い、次の例を挙げている(cf. 鈴木、p23)。

このごろはパイプタバコをすいます。

今では弟が手つだってくれます。

女房がしんでからは、わたしが子どものめんどうをみます。

しかし、主体の一時的な状態を表わす次のような例では、テイル形が自然で、ル形はどこか不自然に感じられよう。

太郎は最近ジョギングをしている/?する。(野田高広「現代日本語の習慣相と一時性」p197、下線は引用に際し挿入。)

 

もう少し違いがわかりやすいのは、「何千年ものあいだ」のような、特定の期間を表わす副詞句の場合である。

地球は太陽の周囲を{回る/回っている}。

何億年もの間、地球は太陽の回りを{?回る/回っている}。

私は、朝6時に{起きます/起きています}。

私は、ここ3日、朝6時に{*起きます/起きています}。

比較した場合、地球の例の方が、ル形の許容度は高くなりそうである。

以前、次のような例を挙げたことがある。

殺人が起きたのは夜11時頃と推定されたが、容疑者Aは、殺人が起こった日の4日前から、夜9時から3時までの深夜アルバイトを{していた/*した}。

野田、上記論文では、次のような例が挙げられ、テイル形をとる理由が単に期間の長短によるのではないことが論じられている(p198, 206)。

太郎は小学生の頃からジョギングを{している/*する}。

太郎は30年前からタバコを{吸っている/*吸う}。

私は一昨年から毎朝、公園を{走っています/*走ります}。

ただし、これらの例では、ル形を許容する話者も少なからず存在するように思われる。あるいは、その可否は、文脈が大きく影響することが考えられる。

期間を表わす副詞句であっても、両方とも共起可能な場合もある。(ただし、下の例はタ形であり、過去の習慣文であるが)

父は約60年間、自動車を{運転した/運転していた}が、先日免許を返上した。

父は80歳になるまで、毎日、晩酌を{した/していた}。

このように、「今は」、「このごろ」のような漠然とした副詞句においても、期間の副詞句との共起関係においても、単純な一般化は困難である。

 

これらの事例に影響する要因として考えられることに、文を主語の特性規定に使用する場合に、ル形が選好されるということがある。つまり、属性叙述におけるル形との親和性、である。工藤真由美は、「個別主体であれ、一般的主体であれ、次のように<特性規定>の文となった場合には、スルのみである。」(工藤、『アスペクト・テンス体系とテクスト』、p159)と述べているが、工藤の<特性規定>は属性叙述に相当する。

次の例を見よう(鈴木、p24)。

水は百度ふっとうする

酒は米からつくります

鈴木は、ル形による「非アクチュアルな現在」の表現を大きく分け、(1)非連続のくり返しの現在(2)コンスタントな属性の現在(3)一時的な状態の現在、を挙げている。上の例文は⑵に属する。

⑶の例は、

「眠っていますね。相変わらず」「随分眠るな。もう十時間近く眠っている」

「ああ、いい風がくるね」 (鈴木、p29)

⑶に属する文も、鈴木によれば、その機能は属性叙述である

これらの文は、主体の個々の動きや変化の実現をあらわしているのではなく、その質的、量的な側面を主体の属性として表現しているといえるであろう。(鈴木、p29)

(1)と(3)の中間として、ある特定の期間における主体の習性属性(益岡隆志)を規定する文章が存在するだろう。

例えば、上の例で、

このごろはパイプタバコをすいます。

今では弟が手つだってくれます。

女房がしんでからは、わたしが子どものめんどうをみます。

それぞれの文は、「このごろ」、「今頃」「女房の死後」という期間における、主体の属性叙述に使用されている、と見ることができる。もう少し言うなら、主体を、その期間において、そのような特性を持った存在として措定するはたらきがある。このようにいわば、「特定の期間における属性」の叙述と言うべきものが存在する。

反対に、

私は、ここ3日、朝6時に{起きています/*起きます}。

で ル形が許容されにくいのは、「朝6時に起きる」という習性属性を「ここ3日」という期間について規定することが(一般的には)不自然なせいではないか。このような文は一時的な事象の叙述と見ることができる。

ただし、往々にして、一時的な状態を属性として述べる文と、一時的な事象として述べる文とは区別が困難な場合があるだろう。また、文脈の中で、一方が他方に転用されることもあるだろう。

(※この区別と転用の問題は、ウィトゲンシュタインにおける文法的命題と経験的命題の区別問題一方から他方への転用の問題を思い出させる。さらに言うなら、鈴木の⑶は、ウィトゲンシュタイン「美学的説明」に類比可能であろう。「その属性は単に潜在的なものでなく、現に目のまえに顕在化している点で、コンスタントな属性の現在とことなっている。」(鈴木、p29。下線は引用に際して挿入。))

ル形/テイル形の選択の問題には、文の情報構造の影響をも考慮に入れる必要があるかもしれない。ただし、今は詳しく立入る余裕はない。

 

3.

習慣文と時間的副詞句の共起の問題を十分に解明することはこの場では不可能である。

ここでは、当ブログが方法的に準拠してきたWolfgang Kleinの時制論をベースに、現時点での仮説として、習慣文について次のように考えておきたい。

・日本語の習慣相は、限定的用法と非限定的用法とに分けられる。限定的用法は、もっぱらテイル形をとる。非限定的用法は、事象のアスペクトによって、テイル形、ル形が使い分けられる。(<限定的/非限定的用法>は、野田、上記論文における<限定的/非限定的解釈>を、用語的にアレンジしたものである。cf. "テイル形と習慣用法")

・非限定的用法は、Kleinの言う"habitual"に相当し、ある期間における、複数のTopic timeを表現する。

・複数のTTを包むより広い期間は、高橋太郎の言葉を用いれば、「ひろげられた現在」、「ひろげられた過去」である(高橋、『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』p169, 196)。これを、暫定的にDomain of Topic time(DTT)と呼んでおこう。

・時間副詞句によって表された期間を仮にPeriod of temporal adverbial(Ptadv)と名付けておく。文が複数の時間的副詞句を含む場合は、より広い期間の方をPtadvとする。

・限定的用法では、PtadvはそのままTopic time(TT)となり、TTはTime of situation(TSit)の部分をなす。アスペクト的にはimperfectiveであり、専ら、テイル形をとる。

Ptadv=TT, TT⊆TSit

 非限定的用法では、Ptadvは基本的にDTTを表す。アスペクト的には、ル形もテイル形も取り得る。

Ptadv=DTT, DTT⊃TT, すべてのTTについてTT⊃TSit、あるいはTT⊆TSitのいずれか

(Kleinによる<perfective/imperfective>の定式化については、"2022/06/01" を参照。)

・Ptadvが、複数のTTがとれないような短いものである場合、非限定的用法は表現できず、ル形はとれない。ただし、限定的用法は、一般にそのような短い期間についても表現可能である。

・文が主体の属性叙述に使用される場合は、ル形が選好され、非限定的用法となる。

 

4.

属性叙述とル形の結びつきは、まさに「恒常性用法」が、その一例となっている。習慣文の場合にも同じく、属性叙述とル形の親和性というう現象を認めることができよう。だが、時間的副詞句との共起関係に関しては、それがそれぞれ異なった結果をもたらすために議論が複雑になっている。

また最初に確認したように、習慣文の場合、<はなしあいのテクスト>においてもル形が許容される点が、恒常性用法と異なっている。

ところが、習慣や属性を叙述すると思われるのに、ル形が許容されない一群の動詞が存在し、第四種動詞との類比を呼び起こす。ここに、恒常性用法と習慣文との類比がさらなる興味を呼ぶ理由がある。それについては次回へ。

 

 

第四種動詞の周辺(7)

1.

西田光一「恒常的状態を表す日本語動詞の語用論的分析」の内容について見てゆく。

西田が挙げた例を再掲する。(p1.下線は西田による)

(1) 駒ケ岳<雫石町> 火口内には女岳の中央火口丘と爆発跡がみられる。火口壁の外側、男岳北方には阿弥陀池を挟んで寄生火山女目岳がそびえる。(地名)

(2) 千手観音坐像(峰定寺)久寿元年(1154)創建の峰定寺の本尊。...丸顔が円勢風をよく継いで、円信作の可能性のある西大寺十一面観音像に似る。(美術)

(3) スリランカの南西約700㎞に浮かぶモルディブ共和国。南北に約750㎞、東西約120㎞のエリアに26の環礁が浮かぶ。島は約1200もあり、世界屈指の美しいホワイトサンドビーチと極上の海に囲まれている。(現代)

(4) 青山~表参道を歩く ハチの墓は青山墓地にある。ここは、地名の由来でもある青山家屋敷の跡地。岡本綺堂尾崎紅葉国木田独歩斉藤茂吉、...吉田茂といった日本近代史に名を連ねる人々の墓が並ぶ。(東京)

(5) 菊池序光(生没年不詳) 江戸時代後期の装剣金工。菊池序克にまなび、のちに養子となって菊池家2代目をつぐ。柳川派の手彫りにすぐれる。江戸神田にすむ。本姓は中山。通称は伊右衛門。 (人名)

ここで挙げられた動詞の多くは変化動詞または第四種動詞に分類することができる。(3)「浮かぶ」、(4)「並ぶ」も、ここでは動作ではなく、「浮かんでいる」「並んでいる」という状態を表わしている。しかし、(1)から(4)は、ル形のままで現在の状態を表しており、非‐状態動詞の一般的な使用原則から外れている。また、(5)は、現在・未来形によって過去の状態が表されている点でイレギュラーな用法となっている。全体に、場所に関わる動詞が多いが、「似る」「すぐれる」のような例外もある。

(1)〜(4)の動詞は、テイル形に替えることが可能で、その場合も意味は変化しないように見える。西田は、これらの例におけるル形とテイル形とは、アスペクトとは別の対立をなす、と言う。西田は、このようなル形を恒常的状態を表す用法、または恒常性用法と呼んでいる(p2)。

 

西田は、奥田靖雄に倣って、(非-状態動詞の)ル形は発話時と同時に進行するアクチュアルな現在を表すことができない、とする(p4)。上の(1)〜(4)について言えば、いずれも現在時点を含んだ、持続的な「状態」について語っているのだから、本来テイル形が要求されるはずである。ル形が可能なのは、これらが「アクチュアルでない現在」を表すからだと言う。では、それはどのようなものか?

 

まず、話し手と聞き手とが発話の場を共有しているような現場では、このような用法は使用され難いこと、対してテイル形は許容されることを、西田は次のテストによって示している(p4)。

・文末に、ヨやネをつけて聞き手に確認を求めることが可能か

・丁寧体のマスがつけられるかどうか

県境に駒ケ岳が(そびえている / *そびえる)ヨ・ネ

県境に駒ケ岳が(そびえています/ *そびえます

このように、テイル形では両方とも可能であるが、ル形はいずれも許容されない。

 

※ちなみに、以前見た、ル形とテイル形で変わらない動詞については、テイル形もル形と同様に、これらの操作は許容される。

君の作風は以前の作風とここが(違う/ 違っている)ヨ・ネ

君の作風は以前の作風と色調が(違います/ 違っています)

従って、この種の動詞は、ここでの考察からは一旦外しておく。

 

西田は、次のように結論付ける。

終助詞や丁寧体の欠落は、この種のル形が対面する聞き手に向けて使われないことの反映である。(p5)

前回、ドキュメンタリーや解説動画のナレーションであれば、「...に~がそびえます」のような言いかたも許されるかもしれない、と注意した。それもまた、対面する聞き手に向けて使われてはいないことが影響していると考えられる。

これらル形の恒常性用法について、西田はまた、次のようにその使用の状況を描いている。

この文脈では、話し手(特に書き手)が当該状態について全ての知識を持ち、聞き手(特に読み手)は話し手の発話に接して初めてその状態を知ることになる。(p1-2)

すなわち、これらの用法は、次の2つの点で特徴づけられる。

①発話現場の非共有:対面的場面での使用ではない。あるいは、「はなしあいのテクスト」(工藤真由美)ではない

②話し手と聞き手における知識の非対称、そこから生じる役割

これに

③聞き手の不特定性

を加えてもよいかもしれない。

...恒常性のル形は面前の聞き手に向けて使われない。この種のル形は、話し手が聞き手に直示しない文脈に適するため、対話で使われることがなく、主に書きことばで、話し手が不特定多数の聞き手(特に読み手)を設定し、披歴的な解説をする文脈で使われる(p8)

西田の謂う「アクチュアルでない現在」は、以上から特徴づけられるであろう。

 

※やはり奥田に影響を受けた鈴木重幸は、「アクチュアルな現在」に対する「非アクチュアルな現在」を、次のように特徴づけている。

これは、動きや変化の現実の特定の一つの時間への関係づけが捨象または一般化されて、不特定、不定数の時間に関係づけられること、あるいはその可能性があることをあらわすものである。発言の瞬間にはその動きや変化は非アクチュアル、ポテンシャルである。非連続的に不定数くりかえされる動きや変化をあらわしたり、主体(対象)にポテンシャルに関係して、それを特徴づける動きや変化をあらわしたりする。(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」、p16)

 

2.

西田は、このような用法においては、アスペクトの制約の無化が起こっていると考える。つまり、テイル形もル形も同様の意味を表わしており、そこでは、ル形/テイル形によるアスペクト対立が無化されている、と。

では、なぜアスペクトの無化がここで起こるのか?

西田は、「話し手と聞き手が同じ時空間にいて同じ状況を直示的に指す発話の場面」を「対人コミュニケーションの文脈」と呼んだ上で、次のようなアスペクトに関する原則を提示する。(便宜的に、原則Aと呼んでおこう)

アスペクトは対人コミュニケーションの文脈において成立する時間表現である。そのため、聞き手の不在が保障された発話の場面では、アスペクト形式は無化するか、または非アスペクト的意味を表すのに転用される。(西田、p8)

上の例文は、いずれも聞き手の不在を前提として提示されているため、この原則に従って、アスペクトが無化され、通常、一定のアスペクト的な意味を示す語尾(「〜ている」)は、非アスペクト的な意味を表すのに転用されている。そのように西田は見做すのである。(この場合、テイル形は条件を選ばず使用可能で無標性、ル形は特定の前提のもとでのみ使用され有標性である(p2)。)

 

では、その「非アスペクト的な意味」とは何であろうか?

西田は、上の例文におけるル形は、聞き手にとっての新情報(Hearer-New)であることを示す役割をしている、と言う。そして、その機能を「ノダ」と比較する。(p6)

西田は田野村忠温の研究を参照して、ノダには聞き手の知らない、容易に知り得ないことがらを表現するのに使われる、と言う。

どうして休むの? 天気が{悪いんです / 悪いからです}。

2人の会話が同じ場所で行われる場合には、「悪いんです」は使いづらい。長距離電話のように、話し手のいる場所の天気が聞き手に分からない状況では「悪いんです」を理由の説明として使うことができる。

 

冒頭の諸例文に戻る。これらの文が、対人コミュニケーションの文脈で使われる場合には、アクチュアルな現在を含む「状態」を表すためにテイル形でなければならない。しかし、発話の場面から聞き手が不在となれば、アスペクト的意味が無化され、ル形も使用可能となる。そしてル形は新情報であることを示す役割をする。これが西田の捉え方である。

 

3.

西田論文は、さらに写真キャプションにおけるル形等のトピックに進んでゆくのだが、ここでこれまでの議論に感じる問題点を挙げておこう。もちろん、提起されたテーマの重要性には何ら疑いはない。

 

2.で記したように、西田は、冒頭の諸例文と、それらをテイル形に変えた文との間で、アスペクトの無化が起こっていると考える。

しかし、影山の研究に依って前回確認した通り、ル形とテイル形とでは、特定の時間的副詞句との共起等で違いが生じる。その事実は、アスペクト的性格の違いに通底すると、当ブログは考える。つまり、アスペクト的意味は無化されていない、と。(以前取り上げた、2種類の習慣相の問題によく似ている。これは後で取り上げる。)

さらに、西田の提示するアスペクトに関する原則Aは、過剰に強すぎると思われる。「聞き手の不在が保障された」の正確な規定は不明だが、例えば、ある人物の業績を顕彰する石碑に彫られた文章をそうとみなすなら、その中でperfective/imperfectiveの書き分けが機能しないとは考えづらい。

また、(5)の例文を見てみよう。

この文の「すぐれる」「すむ」を単純に「すぐれている」「すんでいる」に変えた文章は許容されない。テンスも変えて「すぐれていた」「すんでいた」としなければならない。

菊池序光(生没年不詳)...柳川派の手彫りに(*すぐれている/すぐれていた)。江戸神田に(*すんでいる/すんでいた)。

(5)は、過去の事実に関する文であるが、益岡の謂う「履歴属性」を表しているともみなせる。その意味で属性叙述文であり、西田の謂う「アクチュアルでない現在」に関する文だと言うことが可能であろう。しかし、(5)において単純にアスペクトが無化されていると言うことはできない。テンスとの絡みも視野に入れなければならないのである。

また、以前確認したように、第四種動詞のすべてが、書きことばにおいて、ル形での使用をもつわけではない。「経験の力も加わって、O選手の能力はずば抜けた」とは書きことばにおいても言われない。例の原則のみではこれらは説明できない。

最後に。西田は、問題のル形は、テイル形に対して有標性の表現として、聞き手にとっての新情報を示す役割をする、と言う。

しかし、そうした役割があるとしても、なぜル形なのだろうか?他の手段もあり得よう。(もちろん、ル形である必然性がないとしても、ル形の使用が不当となるわけではないが。)それを考えるためには、ル形のテンス、アスペクト機能について再考する必要があるだろう。

 

第四種動詞の周辺(6)

1.

まず、「属性叙述」とは、どのようなものか?

文による叙述に2つの対立的な様式が認められるという見方を、国語学/日本語学において導入したのは、佐久間鼎である。佐久間は、叙述の働きをする文を「いひたて」の文 と呼び、その内に、「物語り文」・「品さだめ文」という区別が存在すると説いた。

「物語り文」は、「事件の成行を述べるといふ役目に応じるもの」であり、「品さだめ文」とは「物事の性質や状態を述べたり、判断をいひあらはしたりといふ役割をあてがはれるもの」であるとされた。彼の見方で注目されるのは、物語り文と品さだめ文におけるこうような「機能上の相違」が文の構造に反映されると論じている点である。例えば、品さだめ文の特徴の一つとして、「~は」という「提題」の形をとる点が挙げられている(以上、益岡隆志『日本語文論要綱』p213に依った)。

このように、文の機能と構造の両面から、叙述文のタイプについて論じることを叙述類型論と呼ぶ。

その後、益岡隆志は、「現実世界に属する具体的・抽象的実在物を対象として取り上げ、それが有する何らかの属性を述べる」=「属性叙述」、「現実世界の或る時空間に実現・存在する事象を叙述する」=「事象叙述」、という2つの類型を立てて論じた。それぞれが、佐久間の「品さだめ文」、「物語り文」に相当する(益岡『命題の文法』p21)。

益岡によれば、属性叙述命題は、対象を表わす「主語」と、対象の有する属性を表わす「述語句」から成り、この2つの成分は、命題において対等な主要素として結びついている(益岡の謂う「主語・述語句構造」)。この構造は、のちに「主題+解説」の構造と呼ばれることになる。というのも、属性叙述文は、一般に対象表示成分が「主題」(「名詞+ハ」)の形式で表される、という特徴を持つからである。すなわち、属性叙述文は、一般的に「有題文」の形をとる。

それに対し、事象叙述命題では、述語が主要素となり、それ以外の成分は述語に何らかの意味で従属する要素である(益岡の謂う「述語・補足語構造」)。事象叙述における「主語」は、述語の補足語の一つであり、属性叙述の場合のような、文の主要素としての優位性を持たない。(ただし、文脈的な状況から「主題」化することはあり得る。つまり、事象叙述の主語が「~ハ」という形をとったり、「総記」の「~ガ」をとることもある。)(以上、益岡『命題の文法』p23-5)

益岡は、その後の『日本語文論要綱』(2021)で、属性叙述文、事象叙述文のさらなる規定を与えているが、大元の構造に変更はない。

事象叙述においてポイントとなるのは、「特定の時空間と叙述内容との結びつき」である。ゆえに、テンス、アスペクトが大きな役割を果たす。

対して、属性叙述文は、恒常的に成り立つ属性や、非時間的な性質を叙述する。益岡は、それを次のように整理分類する。

すなわち、属性のタイプとして、

A 本来的な属性

 A1 カテゴリー属性

 A2  性質属性

B 事象から派生する属性

 B1 習性属性

 B2 履歴属性

を挙げる。

それぞれの説明は省略するが、一つ、過去の履歴も、属性となりうることに注意しておきたい。

すなわちB2にあたるが、ある特定の時空間で起こった事象が、当該の対象に”履歴”として登録される場合である。登録された履歴は、その時間を越えて、当該の対象の”記録”として残ることになる。

履歴属性叙述の例) あの人は以然、地元のマラソン大会で優勝した。

(益岡『日本語文論要綱』p6-7)

 

2.

影山の挙げた例を再掲する。(影山太郎「属性叙述の文法的意義」p24)

a. イタリア北部にはアルプスの山々がそびえる。

b. そのゴルフコースの正面には富士山がそびえる。

c. 支笏湖は、北側には恵庭岳、南側には風不死岳と樽前山がそびえる。

d. 上海には数々の超高層ビルがそびえる。

いずれの文も、「そびえる」を「そびえている」に変えても、意味は変わらないように見える。

そこで影山は、これらが属性叙述文であること、そして「そびえている」に変えた文とは用法に違いがあることを、二つの点から示している(影山、同上、p25-7)。

①(点的な)期間に限定する時間的副詞と共起しない

*上海には{今まさに / 今のところ}数々の超高層ビルがそびえる。

上海には{今まさに / 今のところ}数々の超高層ビルがそびえている。

 

*信州には{何千年ものあいだ / 今まさに}3000m級の山々がそびえる。

信州には{何千年ものあいだ / 今まさに}3000m級の山々がそびえている。

②知覚動詞の補文に現れることができない(テイル形ならできる)。

*向こうの方に超高層ビルがそびえるのを見た。

向こうの方に超高層ビルがそびえているのを見た。

(この問題には以前触れたことがあるが、今は立ち入らない。)

 

3.

「そびえる」文の属性が何の属性であるかを見てゆこう。

興味深いことに、上の例文は、いずれも「~がそびえる」と、そびえている主体はどれもガ格をとっており、上の属性叙述の解説で述べたような、「主題(提題)」の「~ハ」をとる文とはなっていない。

影山は、上の例文がいずれも場所格の名詞を含んでいることに注目する。例えば、「イタリア北部には」、「支笏湖は」のように。そして、「そびえる」文から、ガ格主語、場所格名詞のどちらを除いても、非文となることに注意する。

*アルプスの山々がそびえる。

*イタリア北部にはそびえる。

 

*数々の超高層ビルがそびえる。

*上海にはそびえる。

それに対し、「そびえている」文では、「~ニ」という場所格句が省略される用法も多いことを指摘する。

…邸があっという間に壊され、樹は伐られ、ブルドーザーでならされ、忽然とビルの鉄骨がそびえている。(奥野健男『文学は死滅するか』、影山による引用、p28)

影山は、ここから、「そびえる」文の叙述する対象は、主語名詞句ではなく、場所格名詞句である、とする。

事実、上の例文は、「支笏湖は、...」を除いて、場所格名詞句が「~ニハ」と、格助詞「ハ」によって主題化されている。また、むしろその方が自然な用法である、と影山は言う。

そして、事象叙述の「そびえている」が、主語名詞句について叙述する1項動詞であるのに対し、属性叙述の「そびえる」は、意味解釈において、0項の非人称動詞となっている、と言う。影山は、これを、<属性叙述における他動性transitivity の低下>という一般的原則の内に位置づける。

 

以前軽く触れておいたが、三上章が、所動詞と場所との関係の深さについて指摘していたことが思い出される。(すなわち、他動性の低下と場所の主題化)

所動詞は必ず所に基づくとは言えないが、所動詞には位格を要求するものが多い。…位格を先頭に立てるのが多い。(三上、『現代語法序説』、p107)

影山は、上の例文が示すように、属性叙述の「そびえる」文では、場所格が文頭に来る必要があることを指摘している。

イタリア北部には、アルプスの山々がそびえる。

*アルプスの山々が/は、イタリア北部にはそびえる。

これに対し、事象叙述文では、語順は比較的自由である。

向こうにアルプスの山々がそびえている。

アルプスの山々が向こうにそびえている。

 

4.

影山は、「そびえる」以外にも同様の属性叙述機能を有する動詞があると指摘し、インターネットからの例として、次のものを挙げている。

参道には、樹齢250年以上の古木がうっそうと茂る

上海には超高層ビル林立/屹立する

ロデオ・ドライブには高級ブランドの店が軒を連ねる

熊本県東部には阿蘇山などの九州山地横たわる

いずれも、場所格名詞句(~ニハ)を伴っている。「茂る」「横たわる」には動的事象・動作を表わす用法もあるが、ここでは状態を表現している。また、「林立(屹立)する」は、元は動作を表わす動詞であるはずなのに、実際にはル形で使用する機会が(ほぼ)ない点で「そびえる」に似ている。すなわち、これらは第四種動詞に分類される動詞であろう。もし話し言葉に転換すれば(多くの場合)テイル形をとらなければならない。

参道には、樹齢250年以上の古木がうっそうと茂っています(*茂ります)。

上海には、超高層ビルが林立/屹立しています(*します)。

だが、例えば、地域を紹介するドキュメンタリーのナレーションでは、ル形(「~ます」)も(用例によっては)許容されるのではないか。つまり、話し手が聞き手に対し一方的に知識を伝授する役割を期待されるような状況においては。

この、書き言葉/話し言葉の問題と、話し手/聞き手間の「非対称」性の問題に切り込んだ研究があるので、次回に見てゆきたい。