実現可能文の問題に向けて

1.

ここで、少しの間 動詞ル形の問題を離れて、「実現された可能」の問題に触れておきたい。

次のような文を、当ブログでは、「実現された可能」を表現する文と呼んだ。

・うちの弟、最近は、学校に行けているよ

・○○選手、不調だった去年とは違って、いいフォームで走れています

今後は「実現可能文」と呼ぶことにする。

これらは、可能態がテイル形を取り得ることの例として持ち出されたのだが、現実には、「実現された可能」はタ形で表現される場合が多い。

休み明けの昨日、弟は不調を訴えることなく、学校に行けた

今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走れた

ここで素朴な疑問が生じる。実現可能文では、特定の事象の実現が表されている。では、その事象を非可能態で述べる文(今後、「基本態文」と呼ぶ)とは、どのように異なっているのだろうか?

a. 今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走った。(基本態文)

b. 今大会で、彼はフルマラソンを2時間台で走れた。(実現可能文)

単に動詞の表す事象の成立/不成立の水準を問題にするのであれば、b.がa.を含意することは明らかであるし、逆に、a.からも b.が帰結する。したがって、その水準に留まる限り、違いを述べることは難しい。

ここで、日本語の動詞は、意志的な動作を表す動詞のみが可能態(可能形)をとり得ることを思い出したい。当然、実現可能文も、意志的な動詞を使用したものに限られる。

太郎は、いびきをかいた

*太郎は、いびきをかけた

とすれば、意志性の有無がポイントであるかもしれない。

c. 彼は、その複雑な経緯を、英語で説明した。

d. 彼は、その複雑な経緯を、英語で説明しなかった。

e. 彼は、その複雑な経緯を英語で説明できた。

f. 彼は、その複雑な経緯を英語で説明できなかった。

普通に判断するなら、事象と意志性の有無との組み合わせで、

c.は、彼に英語で説明する意志があり、説明した場合、

d.は、彼に英語で説明する意志がなく、説明しなかった場合、

e.は、彼に英語で説明する意志があり、説明した場合

f.は、彼に英語で説明する意志があり、説明しなかった場合が、妥当な表現となる状況だろう。

c.とe.との違いについては、ここでも明らかではないが、[c,d]と[e,f]とを対比させれば、次のように言えそうである。

すなわち、実現可能文は、肯定文、否定文ともに、

動作主が意図的に動作を行おうとした場合に事態が実現するかどうかについて、動作主の意図が発動された後の事態の実現の成否に焦点を当てて述べる

(cf. 大場美穂子、「実現可能文の用法について」p4)

と考えたくなる。

しかし、次のように、意図になかった結果について実現可能文が用いられる場合が存在する。

g. 通りすがりに話題のメロンパンを偶然買えてラッキーだった。

h. 帰りの飛行機は座席の重複予約があったため、僕が運よくビジネスクラスに回され、思いがけず数時間リッチな気分を味わえた

i. 北海道旅行中に、札幌で思いがけず日本代表の中田英寿会えて、驚いたとともに嬉しかった。

(例文はいずれも林青樺「現代日本語における実現可能文の意味機能」、p33より)

逆に、意図した結果が実現された場合でも、実現可能文を用いると不適切な場合が存在する。(基本態文は問題ないことも確認しよう。)

彼はまずいギョウザを*作れた/作った。

先週駅前の古本屋でくだらない本を*買えた/買った。

(林、p38-9)

次の、妥当な場合と比較すること。

彼は美味しいギョウザを作れた/作った。

先週駅前の古本屋でずっと欲しかった本を買えた/買った。

(林、p38-9)

また、意図しない結果についても、次のような場合には、実現可能文は不適切である。

私は今朝思いがけずバスの中で苦手な部長と*会えた/会った。(林、p39)

次の場合と比較すること。

私は今朝思いがけずバスの中で好きな人と会えた/会った。(林、p39)

 

これらの、不適切な例と妥当な場合との対照から、林は、

実現可能文は、<(実現した)事象が主体にとって好ましい>という意味特徴を持っていると言える。(p39)

そして、主体の意志性との関係については、

主体の意図的または期待する行為は当然ながら主体にとって好ましい事象であるが、…主体にとって好ましい事象には主体の待ち望む行為の実現のみならず、主体の予期しない出来事も含まれているのである。(p39)

と主張する。

これに対し、基本態文は、事象の生起を、それが主体にとって好ましいかどうかに関わらず、ニュートラルに表す構文である、とする。(p40)

 

2.

上の議論に関連する、基礎的な事実に立ち返って確認しておきたい。

次の問、

もとの動詞が意志動詞だからといって、事象は常に主体の意志性によって生起するのであろうか。意志動詞の表す事象が実際に生起した場合に、動詞の語彙的意味における〈意志性〉が常に保証されているのであろうか。(林、p35)

この問には、否定的に答えるべきと思われる。

j. 私は昨日うっかり腐った牛乳を飲んだ

k. 先日市制100周年の記念バスに偶然乗った。(cf. 林、p36)

上のように、主体が意図せずに実現した行為についても、意志的動詞の語彙を使用して語ることは多いのである。

...語彙的意味における〈意志性〉は実際に生起した事象において常に保証されるとは限らない。したがって、実現可能文はもとの動詞が意志動詞であるものの、主体の非意図的行為の実現を表す可能性が充分にあると言えよう。(林、p36)

 

他方、意図された行為の不成立を意志的動詞を用いて否定文で表現することがある。この場合、基本態文を用いるか実現可能文を用いるかで、条件の違いが存在する。

林は、動作が生起した場合に結果的に事象の達成点に到達したかどうかに基づいて、事象のあり方には《成立、《未成立》、《未生起》、の3つのパターンがある、と言う。

《成立》:子供達が雪だるまを作った/つくれた。

《未成立》:子供達が頑張って雪だるまを作り始めたが、結局*作らなかった/作れなかった。

《未生起》:子供達は雪だるまを作りたかったが、あいにく雪が降らなかったため、結局作らなかった/作れなかった。

(cf. 林、p36)

《未成立》という事態が起き得るのは、telicで、完遂に時間を要する動詞の場合、すなわちVendlerの分類で謂うaccomplishment verb の場合、である。(ただし、実際に関わるのは、動詞よりも動詞句のレベルでの性質である。)これについては既に見てきた。(2019-08-05. )

林は、次のようにまとめている。

実現可能文は、表わす事象の成立が不確かなため、「主体の行為がどうなったか」という事象の結果に焦点が当てられ、事象の《成立》・《未生起》以外に「生起した行為が結果的に完遂されなかった」という事象の《未成立》を表わすことも可能であるのに対し、無標の動詞文は、主体の行為が実際に生起したかどうかという意味を意味を表わす構文であるため、事象の《成立》と《未生起》しか表わすことができない。(林、p43)

そのことは、上の雪だるまの例文で示されている。ただし、一般には林の主張ほど明確な使い分けがなされているとは限らず、《未成立》の場合に「無標の動詞文」(すなわち、ここでいう「基本態文」)が使用されることもある、と考える。

ここには、文脈やテキスト(語り)の構造が絡んでいるのだろうが、いまは立ち入る余裕が無い。

 

3.

1.に戻って、注意すべきことがある。主体にとって好ましい事象であれば、どれもが実現可能文で表せるわけではない。
? 横綱朝青龍は入幕したばかりの新人力士に勝てた。
入幕したばかりの新人力士は横綱朝青龍に勝てた。(林、p40)
上の文は、いずれも行為主体にとって望ましい結果について語っているのに、一方は不適切な使用となっている。
林はこれについて、実現可能文は、「事象の成立が保証されず、主体の能力や主体を取り巻く状況などの諸要素が事象の成立を妨げる可能性が十分にある」状況で使用される、と捉える。ゆえに主体が確実に事象を成立させる可能性を持っている場合は、好ましい事象であっても実現可能文であらわせないのだ、とする。言い換えれば、実現可能文で表される事象は〈得難い〉種類のものである(林、p41-2)。
以上から、実現可能文は、事象の成立に加えて、ある種の価値評価を表現する構文である、と言うことができるかもしれない。
 

4.

ここまでの議論に対して、反論があるかもしれない。

・jの「うっかり飲む」、kの「偶然乗る」、は、確かに意図された行動でなかったとしても、「飲む」「乗る」行為自体は意志的な動作と言え、それによって、可能形をとり得ると考えられる。

だが、iの「会えた」、h「味わえた」は受動的な性質のものであり、果たして意志的な行為を意味していると言えるのだろうか?これらは「自発」と呼ぶべきではないだろうか?(cf. 大場、前掲論文)

・ある行為が意志的(意図的)であるかどうかの判定には様々な規準が考えらる(命令文の有無など)。本質的な規準は何であるか。そもそも、意図的行為の本質は、哲学の伝統の中で議論されてきたが、ここでもそのレベルから議論する必要はないだろうか?

このような疑問に今答える余裕はないので、問題として留めておく。

 

5.

1,2で、意志及び行為結果と、基本態文/実現可能文との関係について簡単に触れたが、精確さが不十分である。精密な議論をして十分なレベルに上げる余裕はないが、もう少しだけ解像度を上げておこう。

まず、行為と意志との関係については、その行為をする意志、しない意志に加えて、する/しないに関してニュートラルな状態が存在する。そもそも、その行為の存在を知らない場合や無関心な場合などである。ここでは、する意志を「+意志」、しない意志を「-意志」、ニュートラルな状態を「±状態」と呼んでおく。

・およそ意志的動作を表わす動詞である限り、行為にはそれを行う+意志が伴っているものとみなされる。したがって、基本態文、実現可能文ともに、肯定文であれば、+意志が伴うはずだが、下の例のように、−意志に反して行われる意志的行為も存在する。

守男は、銃で強制されて、金庫の鍵を開けた。

・問題は、否定文と意志との関係である。

林の謂う《未成立》は、動作の発動後に、完遂に達しなかった場合であり、否定形の実現可能文で表されることが多い。

子供達が、頑張って雪だるまを作り始めたが、結局作れなかった

(上でも述べたように、行為の生起/完遂と意志の有無が、適切な文形式を完全に決定するわけではなく、テクストの構造や文脈が大きく影響する、と考える。この点には、これ以上立ち入らない。)

また、動作が生起しない場合(林の《未生起》)でも、意図(+の意志)の発動が背後にあれば、否定的な結果に終わったことについて語る場合に、実現可能文が使用される。

ジョンは、かねてから和牛をステーキで賞味したいと思っていた。去年、一週間ほど日本に滞在する機会があったが、その際には和牛のステーキを食べられなかった

・-意志があり、行為を強制されなかった場合には、実現可能文の否定形は使用しない。

宏は、納豆が嫌いだった。水戸で暮らした間でも納豆は食べなかった/*食べられなかった。

・行為の機会が存在する状況or行為可能な状況において、行為しない場合、無関心とも解釈できるが、−意志ありと解釈される場合も少なくない。両者の判別は微妙であるが、どちらの場合も、基本態文の否定形が使用される。

国男は、去年1年間東京で暮らしたが、納豆を食べなかった。

その他の±状態にも、基本態文の否定形が適用される。

(ミシェルは、そもそもナマコを食べる習慣が日本に存在することを知らない。)

ミシェルは、去年1年間日本に滞在したが、ナマコを食べなかった。

・±状態であったことを表す場合、「…したことがなかった」という言い方もある。ただし、これは+意志ありや−意志ありの場合も使用可である。どれであるかは、文脈的に判断される。

スーザンは、長年日本で暮らしたが、フグの刺し身を食べたことがなかった。

スーザンは、フグの刺身を食べたかったのか、食べたくなかったのか、無関心であったのか、この文のみからは分からない。

以上を、否定文の形式の側から見るなら、おおよそ次のようになるだろう。

①基本態文:-意志ありor±状態 が主だが、+意志ありの場合もある。

「ミシェルは、日本でナマコを食べなかった」

⓶実現可能文:+意志ありの場合(《未成立》の場合を含む)。

「ジョンは和牛のステーキを食べられなかった」

「子供たちは雪だるまを作れなかった」

③「ことがない」文:+意志あり、±状態、-意志あり、いずれの場合もある。

「スーザンは、フグを食べたことがない」

 

 

6.

さて、当ブログがウィトゲンシュタインから学んだ視点の一つは、「できる」「意図する」といった概念を「規則に従う」こととの関連において捉えることであった(cf. ”2019-03-24 ”)。非常に粗い内容ではあったが、そこで考えたことを簡潔に繰り返してみよう。

ある意志的な行為が「できる」ことを、「ある内容を持った意図を実現する」ことの可能 として捉えてみる。

さらにこれを「その意図の内容が表現する事象に、自らの行為によって実現する事象を、合致させる」ことの可能 として見る。その場合、「意図の内容」は行為の”規範”として機能している、と言えよう。

すると、実現可能文「...できた」という表現は、規範に合致する事象が実現されたことを述べていることになる。

これを、「256×38を計算したら、9728だった。」といった言明と比較してみよう。(ここでの「計算したら...だった」は、正しく計算した結果が「...」であることを意味している、と考えよう。これを<狭義の「計算」>と呼ぼう。それに対し「計算間違いをする」場合をも含めたものを<広義の「計算」>と呼ぶ。)

この文も、規範に則って行為した結果、すなわち規範に合致した結果が、9728だったことを述べている。(ゆえに、" 256×38=9728" は、今後普遍妥当な式と見なされてゆくはずである。)

3.の終わりで述べたことの繰り返しになるが、この文も、実現可能文も、(事象の成立に加えて)事象が規範に合致するものであるという、ある種の価値評価を表現する文と見ることができよう。

さて、意志との絡みで、行為の成否が判断される事象の領域は、<した/しなかった>の2分割ではなく、<した/し損なった/しなかった>に3分割されることになる(それぞれ、林の《成立》《未成立》《未生起》にあたる)。

これは、〈計算〉の概念が、<計算する/計算間違いする/計算しない>の3分割をもたらすのと一緒である。また、人間が目的をもって製造する製造物、例えば「時計」の概念が、<時計/時計でないもの>に加えて、<故障した時計>というカテゴリーをもたらすのと似ている(cf. PB31, 2019-04-02)。

これらに共通するのは、言語学の言葉で言えば、telicityである。第1のカテゴリーと第2のカテゴリーを合わせたもの(例:「計算」+「計算間違い」)が、広義の「計算」、行為、「時計」になる。ただし、それぞれ第2のカテゴリーと第3のカテゴリーの境界(「計算間違い」vs.「計算しないこと」)は(多かれ少なかれ)曖昧であり、その結果、広義の概念自体が曖昧さを孕んだものとなる。また、実際の言語使用において、広義の概念が意味されるか、狭義の概念が意味されるかについて揺らぎが存在する(cf. 2019-04-01)。

「256×38は、9728だよ」

「えっ、私、9726と計算していたわ。」

ここでの「計算」は広義の意味で使われている。そこで、この「揺らぎ」を解消すること、すなわち、狭義の「計算」のみを「計算」という言葉で意味するように使用することは、現実には不可能である。というのも、そのようにすれば、計算に関する問いや仮定、および「間違った計算」を表現することが不可能になってしまうからである(cf。PGⅡ27,  2019-03-31)。実は『論考』の帰結はそのような境地であり、「計算間違い」や「し損ない」が存在しない(表現できない)世界であった(2019-03-12)。

 

さらに、ウィトゲンシュタインが、美学的言明について、評価の機能を重視したこと、数学的命題と比較したこと、などが思い起こされる。(cf. "2020-09-30", "2020-10-16") 

しかし、これらの話題について振り返ることは時間も要するゆえ、またの機会にしておく。