動態動詞ル形の用法について(10)

1.

《Ⅶ 可能態・自発態》のル形用法について。

ここでも、以前紹介したカテゴリーとの中間例を見ることから始めたい。

山岡は、前回見た<感情表出動詞>の例文の中に、次のような文を、<知覚表出>として含めている(「日本語の述語と文機能の研究」p209-10)。

隣の物干しの暗い隅でガサガサという音が聞こえる

なぜかこの頃になると潮騒がいっそう高く聞こえる

「焚火をしてますわ」と妻が言った。小鳥島の裏へ入ろうとする向こう岸にそれが見える

その先が青くぼんやり光って見える

これらの文は、話者の知覚を表出する文であって、一人称の経験者格「私に」「僕に」等が潜在化したもの、と見なすことができる。つまり、話者の知覚体験が表出された文である、と。

(※「動作主格」と「経験者格」の区別は微妙な場合もあるが、「動作主には意志性が必要である」とする立場で話を進める。)

その裏付けとして、次のような三人称の経験者格を明示した文では、ル形が許容されない(テイル形ならOK)。あるいは、その経験者の能力を表す文に解釈される。(cf. 山岡、p210)

彼女にはガサガサという音が聞こえる/聞こえている

彼は、あの小さな字が見える

(以上で、ル形はいずれも可能の意味を表す。)

ただしかし、一人称の経験者格を明示したル形文もまた、経験者の能力について語る文として受け取られる。

私には、あの小さな字が見える

もう一つ注意すべきことに、経験者格が明示されたタ形は、通常の使用では、「実現された可能」をあらわす。

私には、その小さな字が見えた

彼女は、彼の助けを呼ぶ声が聞こえた

振り返ってみると、「私には、あの小さな字が見える」も「実現された可能」の表現と言えるであろう。その意味で「知覚表出」の機能も果たしている、と言えよう。英語においても、" I can see ... "と " I see ... "との異同が問題となることを思い出す。

 

ところで、「見える」「聞こえる」には、次のような使用もある。

ヤツメウナギは魚類に見える

サボテンという言葉は外来語のように聞こえる

これらは、対象(ヤツメウナギ、サボテンという言葉)の性状を述べるのに使われている。つまり、属性叙述文である。この場合の「見える」「聞こえる」は、必ずしも話者に限定される経験を表すのではない。むしろ、この文は主体一般が経験しうる事象について語っているのだ、と言えよう。

「見える」「聞こえる」という動詞も、前回の終わりに注意したような、感情ないし心理的表出と属性叙述の両方に使用されるという、二面性を持った動詞の一つである。そして、ル形で現在の事象を表すというテンス的に変則的な用法を持つ。

 

2.

この「見える」「聞こえる」は、普通「見る」「聞く」という動詞とは語彙的に区別されている。しかし、寺村秀夫のように、「見る」「聞く」から文法的に派生した、態voiceの一種であるとする立場もある(『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p272)。

それによれば、これらは見る聞くの<自発態>あるいは<自発形>と呼ばれることになる。

 

しかし、「聞く」⇒「聞こえる」は、動詞の基本形から<自発態>を作る際の一般的な規則からは外れている。

寺村秀夫によれば、自発態は、通常は、<子音動詞の語幹+eru > によって産出される。母音動詞で自発態をとるものは非常に少なく、「見る」⇒「見える」、「煮る」⇒「煮える」ぐらいである。(cf. 『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p272)

子音動詞については、これは「可能態」を産出する規則と変わらないから、寺村とは違って、独立したカテゴリーとしての<自発態>を認めない立場もある。

 

そこで一般的な「可能態」の産出規則に従えば、「見る」⇒「見られる」or「見れる」(母音動詞語幹+ rareru、ら抜き言葉の場合は+reru)、「聞く」⇒「聞ける」(子音動詞語幹+eru)となる。

他の動詞の可能態の例を挙げておく。

出る⇒出られる(母音動詞)

話す⇒話せる(子音動詞)

可能態を用いた文も、ル形で現在の事象を表すという特徴を持つ。ただし、主語が一人称に限られないことに注意。

巨大な渦潮が、鳴門海峡見られる

今の季節、山地で、ホトトギスの鳴き声が聞ける

彼はフランス語が話せる

今なら、この街を出られる

これは、一般の受動態とは異なった性質である。

その技術は、いずれ盗まれる/今まさに、盗まれている

あの男は、きっと同僚に軽蔑される/もう同僚に軽蔑されている

ここでは、ル形は未来の事象を表す。現在を表すにはテイル形を用いる。

すなわち、一般に受動態は動態動詞のテンスの原則に従うのに対し、可能態はル形で現在の事象を表す変則的テンスをとる。そして、主語に人称制限は見られない。また、通常は、「可能態+テイル形」は許容されない。

彼はギリシャ語が読める/*読めている

先に見た「彼は、その小さな字が見える」も、可能態に準じる表現と言える。

(※日本語教育では、「可能態」よりも、「可能形」として捉える方が主流のようだが、ここでは便宜上、前者を使用する。)

ただし、可能性表現は、可能態のみならず、「できる」「わかる」といった動詞にても可能であり、これらも同じようなテンス・アスペクト的特性を示す。従って、一般的動詞の可能態とこれらとをまとめて、「可能動詞」のような呼び名で呼ばれることもある。

そのテンス・アスペクト的特質から、可能動詞は、アスペクト的に状態動詞に分類されることが多い。

また、<動詞+「し得る」「ことができる」「しかねる」>といった迂言的な可能性表現も、ル形で現在の事象を表す性質を共有している。

このように、日本語の可能表現は多様な形式をとる上に、その使用条件に、共通性と細かい違いの双方が加わってくるので、簡単に総覧することは困難である。ここでは、あくまでも、変則的なテンスへの興味という切り口から、その一端を覗き見るのみである。

 

3.

一方、「自発態」については、その存在が認められる動詞が限られる上、先に触れたように、(寺村の立場では)その動詞のほとんどが可能態と形態を一にする。従って、どの程度、自発態というカテゴリーの独立を認めるべきかが問題となる。

寺村は、自発態の文は、あるものが、自然に、ひとりでにある状態を帯びる、あるいはあるものを対象とする現象が自然に起きる意味のことをあらわす、と言う(p271)。そして、次のような例をも、自発態の文とする(cf. p263-4)。

この問題が解けた

ケーキがうまく焼けた

ただし、次のような文は、可能態の文であるという(p263-4)。

太郎には、この問題が解けた

花子には、ケーキがうまく焼けた

これらの文には、動作主格(Agent)ないし経験者格(Experiencer)が明示されている(「太郎には」「花子には」)。つまり、寺村にとり、それが脱落することが自発態の条件の一つなのであろう。

このような「自発態」は、ル形で現在の事象を表すテンス的な変則性を持たない。(つまり、今回変則的用法として取り上げようとするものは、寺村の「自発態」の中で限られたグループであることに注意しておく。)

しかし、これらは、自動詞の文と見なすこともできそうである。つまり、他動詞⇔その自発態という対応は、いわゆる動詞の自他対応と紛らわしく、区別が困難な場合があるのだ。

解く⇔解ける

焼く⇔焼ける

事実、寺村も、自発形の動詞は、態の一つではなく、自動詞としてあつかわれることが多いとし、形態的、統語的、意味的に自動詞とほとんど変わるところがないと認めている(p278)。それでも、寺村が自発態というカテゴリーを立てる理由については、今は立ち入らない。

 

山岡は、意味役割の視点から検討を加え、「動作主格でなく経験者格をとる感情動詞についてのみ、自発態を認める」としている(山岡「可能動詞の語彙と文法的特徴」p9)。注意すべきこととして、この場合、「自発態」は、可能態でなく受動態と形態的に一致する。そして、経験者格を明示した、受動態としての使用は不自然となる(同論文、p9)。

①少年が故郷を思い出す。<能動態>

②少年は故郷を思い出せる。<可能態>

③??故郷が少年によって思い出される。<受動態>

④故郷が思い出される。<自発態>

他に、〈しのぶ−しのばれる〉、〈思う−思われる〉、〈感じる−感じられる〉、〈考える−考えられる〉、〈惜しむ−惜しまれる〉等。これらの中の子音動詞が、「可能形」をとりにくいことにも注意しよう。「しのべる」「惜しめる」等は使われないのである。

(寺村も、これらと重複する感情動詞群について、可能形をとりにくいことと、自発的な心理的反応を表すことに注目している。cf. 265、これについてもいずれ取り上げる予定。)

これらに自発態を認める理由の一つとして、受動態での使用(上の③)が不自然となる一方で、そこから経験者格を捨象した文(ここで言う「自発態」、上の④)は普通に使用されるという事実がある。また、④のような文は、例のテンス的変則性を持つ。

ただし、主体が能動的、意志的に思い出したり、考えたりすることもあり、その場合、意味的には経験者格でなく動作主格ではないのか、という問題がある(山岡、「可能動詞の~」p34)。しかも、そのような場合であっても、受動態文は不自然となる(p34)。ゆえに、ここでも分類に関する不透明さは消えていない。だが、この問題にも、これ以上は立ち入らない。

雑にまとめると、寺村のように「自発態」を広い範囲の動詞に認める立場があり、その場合、自発態は(大部分の動詞で)可能態と形態的に共通する。これに対し、山岡の立場では、自発態は一部の感情動詞(ないし心理的動詞)についてのみ認められ、形態的には受動態と共通する。当ブログでは、山岡の「自発態」に、「見える」「聞こえる」等を加えたものを自発態と考えておく。

 

「見える」「聞こえる」の特徴として押さえておくべきは、これらが可能性表現をもカバーしていることである。また受動態の表す意味とも被っている。

a. 彼女は若く見られる

b. 彼女は若く見える

c. 立話が彼らに聞かれたらしい。

d. 立話が彼らに聞こえたらしい。

e. 北の方に筑波山見られる

f. 北の方に筑波山見える

ここで注意したいのは、a, e のような受動態の文にも、例のテンス的変則性が備わっていることである。(その点で、上で取り上げた感情動詞群と共通する。)もっとも、これらは、受動態であるのか、可能態であるのか、判断が難しい面がある。(cf. 寺村。p274)

ただ、「見える」「聞こえる」と「見られる」「聞ける」の可能表現の間で、無視できない使用条件の違いがある。そこには、「見る」「聞く」動作の意志性の有無、「実現された可能」の問題等が関わっていよう。今は立ち入らないが、後に取り上げたい。

 

以上のように、「自発態」というカテゴリーは問題を孕んでいるとしても、可能表現と自発性表現の中に、変則的テンスをとるものが存在することは明らかである。具体的には、可能態、「できる」「わかる」等の動詞、ある種の感情動詞の「自発態」、「見える」「聞こえる」等による文である。それに加えて、<動詞+得る、ことができる、しかねる>といった形式も、同様の変則的テンスをとる。

それらは、一般的な動詞から派生するものが多いが、すべての動詞がそのような態・形式をとれるわけではない。

次回は、その条件について見てゆく。