叙想的テンスと状態性

1.

ここまで、元々は行為動詞のimperfective aspectでの使用を解明することがテーマであり、そのために進行相の使用される有様を観察してきた。あれこれとトピックをたどってゆくうちに、一方で「叙想的テンス」(「ムードのタ」)、他方で「叙想的アスペクト」の問題に流れ着いた。

一方の分かれ道、「叙想的テンス」の問題においては、見たところ、過去というテンスに考察の焦点が移ってゆくように思われる。アスペクトの問題は、ここでは付帯的なものになるのだろうか?

必ずしもそうではない。imperfective aspectは「叙想的テンス」にも重要な関連を持っているのである。

それを示すのが「叙想的テンス」用法と状態性との関わり、である。

「ムードのタ」をめぐる議論においては、この用法では「動詞は状態述語に限る」とされることが多い。たとえば「忘れていたことの想起」用法では、「どこまで帰るんだったかね」のようにノダ形を用いて状態化した場合はよいが、「どこまで帰ったかね」はこの用法としては容認されない。つまり叙想性と状態性には強い相関があるということである。

(東郷雄二「半過去形の叙想的テンス用法」p3、強調は原文。)

ただし、この引用のみからでは、言われていることの正確な理解は難しい。もう少し説明する必要がある。

 

2.

「叙想的テンス」概念を提唱した寺村秀夫は次のようにこれを分類した。(「日本語のシンタクスと意味 Ⅱ」)

 (ⅰ)期待(=過去の心象)の実現(あ、あっ!)

(ⅱ)忘れていたことの想起(どこまで帰るんだったかね?)

(ⅲ)過去の実現の仮想を表わす過去形(ターンの失敗がなかったら21秒台は出。)

(ⅳ)さし迫った要求([野次馬に]帰っ、帰っ!)

(ⅴ)判断の内容の仮想(早く帰って寝ほうがいい。)

 このうち、(ⅲ)~(ⅴ)については、例文が示すように、動作動詞(動態動詞)のタ形も普通に使われる(寺村は、(ⅳ)は動作動詞に限るようだ、と言う。前掲書p341)。

 

(ⅱ)の場合、「動詞は状態述語に限る」とされる(寺村、前掲書p107)。

 

(ⅰ)について寺村は、「動的述語の場合にも可能」(寺村、前掲書p106)とした。

寺村によって実際に挙げられている、その例は、

バスガ来タ(寺村、前掲書、p342)

である。

だが、これは、動作動詞のタ形はパーフェクト相を表す、という一般的概念で説明できるように思う。パーフェクト相は「過去の状況が現在に関連を持ち続けていること」(Comrie, Aspect, p52)だとするなら、期待された動作の実現した状態という、現在の事態の表現に使われることは当然、と言うことができよう。

もしそうなら、期待の実現のタが、叙想的テンスとして問題となるのは、状態的述語に限られる、と言ってよさそうだ。

※なお問題が残りそうだが、今はこれ以上立ち入らない。

 

全体を見れば、「動詞は状態述語に限る」とされることが多い、という東郷の評言は強すぎる、と思われようが、実は東郷は研究の対象をフランス語の場合との比較対照が可能な(ⅰ)(ⅱ)の場合に限定しているのである(前掲論文、p4)。そして、フランス語において(ⅰ)(ⅱ)に対照されるのは、半過去というimperfective aspect(すなわち状態的なアスペクト))の用法である。東郷は「叙想的テンス用法」における述語の状態性に、日本語とフランス語に共通したものを見ているのである。

 

3. 

金水敏は、寺村の(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)を対象として、これらの用法を<回想><関連づけ><発見>の3つに再編し直した。

(「テンスと情報」in 音声文法研究会編『文法と音声Ⅲ』p55-79)

そして、いずれもモーダリティというよりテンスの用法(すなわち過去性の表現)であると主張する。そして、そのような過去テンスの用法が適切さをもつ根拠を「静的述語文が表す状態の情報論的性質」(前掲論文、p68)に見出している。 

非常に教えられることの多い論文であるが、ここで詳しい解説はしない。ただし、その中での反事実的条件文(寺村の(ⅲ)に相当)の扱いについて簡単に見ておきたい。

 

反事実的条件文を、次のように略記しよう。主語をS、述語をVで表す。

C) S₁がV₁⇒S₂はV₂。

ここで、V₁,V₂は、いずれも動態述語でも状態述語でもよい。ただ、のちに見るように、V₁,V₂ともにスル、シタ形よりもシテイル、シテイタ形が好まれる傾向にある。

しかし、金水が状態性との関りを見るのはそこではない。

 

 反事実条件文が主張するのは、偶発的な事実ではなく、法則的な事実である。つまり、前件(条件節)が成り立つ世界においては後件(帰結節)が成り立つ、ということが発話時の如何に関わらず真であること、すなわち、C)が恒常的に真である、ということである。C)の恒常性という性質がすなわち、ここでポイントとなる「状態性」なのである。

C)の恒常性によって、C)はV₂が過去テンスで述べられて、真理値を変えない。

金水は、V₂が過去テンスにされる場合の動機を、<関連づけ>に見出している。

 

4.

だが、反事実条件文について、V₁,V₂が選ぶ形態(テンス、アスペクト)の問題を無視することはできない。

 

ここでは帰結節の動詞を例にとろう。

金水、前掲論文が引用している2つの例文(p73、一部改変)を見よう。

(いずれも反事実条件文として解釈する。)

もしおまえが(中止を)知らせてくれなかったら、

おれ、あした ①いくよ。   7点

       ②いったよ。  21点

       ③いってるよ。 29点

       ④いってたよ。 34点

おととい投函していれば、

明日には ①??つくよ。

     ②?ついたよ。

     ③ついているよ

     ④ついていたよ。

(Aは、高橋太郎、『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』からのもの。各文の得点は、国立国語研究所の研修生10名に、一番ぴったりするもの4点、2番3点、3番2点、4番1点、不可0点として答えてもらった合計点、という。)

Aのアンケート結果は、スル形<シタ形<シテイル形<シテイタ形の順に許容度が高まることを示した。

すなわち、テンス的には、現在形<過去形、

アスペクト的には、perfective(スル、シタ)<imperfectiveあるいはperfect(シテイル、シテイタ)のように選好された。

また、テンス的選好度差より、アスペクト的選好度差のほうが大きかったと、この結果から言ってよいか?。ともかく、テンスは異なっていても、シテイル形、シテイタ形ならば、多くの話者に許容される結果となっている。

(ここでのシテイル、シテイタはimperfectiveなのだろうか?perfectなのだろうか?)

もちろん、このアンケートは一例に過ぎず、安易な一般化は慎まなければならないが、Bにつけられた許容度も似た傾向を示している。

 

金水論文は、反事実条件文のテンス的選好の理由を説明する。

しかし、アスペクト的選好は何に由来するのだろうか?

その手掛かりを求める意味でも、叙想的アスペクトの方に目を転じよう。