アスペクト知覚は、なぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか(続き)

1.

2021-10-25の補足として、アスペクト知覚の問題を再び取り上げる。先の記事は、見られる事象の「無時間性」という問題について、未だ掘り下げが不足している。特に、「閃き」と「恒常性」という視覚的アスペクトの様態(PPF118)との関連において。

「見る」という語の2つの使用。

その一つ:「君はそこに何を見ているんだ?」ー「私はこれを見ています Ich sehe dies.」(そして、記述、描画、模写が後に続く。)

もう一つ:「私はこれら2つの顔に類似を見ます」("Ich sehe eine Ähnlichkeit in diesen beiden Gesichtern.")ー私がこれを伝える当の人が、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい。

重要なこと:見ている<対象>、2つのカテゴリー的違い

(PPF111)

問題は「私はこれら2つの顔に類似を見ます」という言い回しに関わる。

 

初めに、厄介な問題の存在を意識しておこう。「見る」,"see", "sehen" といった動詞の、諸言語間での違いである。

日本語の動態動詞の場合、通常、現在に関する描出は「テイル形」で発話され、「ル形」の方は未来や習慣を表す。

「見る」の場合も、現在の行為通常「見ている」というテイル形で語られる。

「君はそこに座って何をしているんだ?」ー「私は鳥が飛ぶのを見ています」のように。「鳥が飛ぶのを見ます」とル形で答えることも可能だが、これは現在ではなく未来の予定された行為を述べている。

現在のことを述べる場合、自発を表す「見える」という形で語られることも非常に多い(「私には、鳥が見えます」)

ただし、現在のことを述べるのに「私は(今そこに)...を見ます」という発話が不自然ではない状況も想定できる。今回のテーマはそれに関連する。

それに対し、英語の "see"は通常進行形を持たない。一方、"can see"が"see"を代用する現象が認められ、日本語の場合(「見える」)との類似を感じさせる。

"see" の語彙的アスペクトをどう分類するか。一説では、次のようである:"see" のような英語の知覚動詞は、瞬間的に生じる状態変化を表すachievement verbとしての意味が基本であり、純粋にstative verb として使用されることはかなり稀である。また知覚の継続を表す場合には"can see"が使われる。(cf. 出水孝典、『動詞の意味を分解する』p95-7)。

ドイツ語には、そもそも動詞全般に進行形がない。"sehen" に関するさまざまな慣用については、残念ながら筆者はよく知らない

3つの動詞の違いという問題に深入りする余裕はないが、他にも、「見る」行為の意志性・動作性の差違、類似の動詞との関係(see⇔look, watch,stare,... sehen⇔schauen,blicken,betrachten,beobachten...)などで、これらの言語のシステムの間に無視できない様々な違いがあることは心にとめておかなければならない。

 

2.

「私はこれら2つの顔に類似を見ます」ーこの言い方が許容される場面として、思い浮かぶのは次のような例である。

ある町で同じ日に、ホテルでの殺人事件と、郊外での自動車事故(1人が死亡)が起こった。いずれも死者の身元が不明である。地元警察の会議で、一人の刑事が、掲示してある被害者と事故死者の写真を指して「今気付いたのですが」と発言を始める。「私は、この2人の顔に類似を見ます」ー「もしかすると、この2人には血縁関係があるのではないでしょうか」という言葉が続く...

ただし、芝居がかったこんな言い方には、実際には小説やドラマの中でしか出合えないかもしれない。だが、敢えて「...を見ます」という言い方に注目するのは理由がある。

というのも、この場面では、現在時点の描出に関する、ル形/テイル形の通常の使い分けとは逆に、テイル形「私はこの2人の顔に類似を見ています」が不適切であり、ル形(「見ます」)が適切となるからだ。

(※「見る」のル形とテイル形(「見ている」)との違いについてどう捉えるか?ーこれは簡単な問題ではない。というのも、「見る」の語彙的アスペクトがそもそも単純な分類に収まらないし、見られる事象の性格や付加される副詞句等によっても変わってくるからだ。ここでは、単純に、テイル形は動作の「継続性」「持続性」を表現する、と看做して先へ進む。)

 

この場合に見られる「類似」は、それぞれの顔立ち自体の関係が持つ、恒常的な属性、無時間的な属性である、と言うことができよう。

ここで「無時間的」という言葉を使う意味については、『ラスト・ライティングスⅠ』§146,152-162を参照のこと。当ブログでは、ある事象が特定の時間・空間に位置づけられて述べられる時にその文は「時間的」、そうでないときに「無時間的」と見なした(”「説明」の周辺(39)”)。

(※「恒常的な属性」と「無時間的な属性」とは区別されるべきではないだろうか?ーその通りだが、ここでは、あえてその区別をあいまいにして話を進める。便宜的に、次のようにイメージしてみてもよいだろう。言語ゲームの中で、ある対象の「恒常的な属性」が特別に取り上げられ、「無時間的な属性」として提示される、と。)

 

そのような「無時間的属性」が、主体によって認知・体験される。それを、「無時間的命題の、体験による時間化(出来事化)」と呼んだ(”体験による出来事化”)。そのような認知自体は時間の中で起こる。ゆえに、それを特定の時空に位置づけて述べることができる。

しかし、そのような文は、特定の時間・空間に結び付いているにも関わらず、再び「無時間的」に用いることできる。その例として、「具体例の提示による美学的説明」について見てきた(”「説明」の周辺(40)”)。

 「わたしはその2つが類似しているのをみる」は、「その2つ」がどのように定義されているかに応じて、時間的にも、無時間的にも用いられうる。だが、そのことは、わたしがそれぞれの場合に、異なったものを見ていることをいみするのだろうか?「私は見る」は常に時間的であるが、「その2つは類似している」は無時間的でありうる。(LPPⅠ 152)

注意しよう。PPF 111の「私はこの2人の顔に類似を見ます」が「見る」の「もう一つの使用」である理由は、単に「類似」という「無時間的属性」について述べているからではなく、はじめの使用「私はこれを見ている(記述等が続く)」との機能の違いにある、そして、その機能の違いは、文法的命題と経験的命題の機能の違いに類比的である。それが、当ブログの保持してきた視点であった。

それでも、ここにあるのは単に文の使用の違いのみではない。「見る」主体の意識において(いわば現象学的に)、「無時間的対象」としての「類似」が体験されているだろう。ウィトゲンシュタインが、『探究Ⅱ』§111で、重要なのは「見ている2つの<対象>のカテゴリー的な違い」だ、と言うとき、彼もそのことを認めていたと考えられる。

従って、文の使用の差異のみならず、それぞれの「見る」体験(経験)の性格を問題にする必要があるのだ。ただ、ウィトゲンシュタインの考察は、ここでも概念に関するものであって、自然科学的なものではない。

この経験の原因には、心理学者が興味を持つ。

我々が興味を持つのは、この概念とそれが経験諸概念の中で占める位置だ。(PPF114-5, 鬼界彰夫訳)

 

3.

しかしながら、対象の関係のもつ恒常的/無時間的な属性を「見る」と表現することに問題はないだろうか?

まず、英語の場合を見て行こう。『探究Ⅱ』111節の英訳から "I see a likeness in these two faces" という文を取り上げる。

"I see a  likeness in these two faces." は、"I see a resemblance in these two faces." と言っても同じである。ならば、"I see these two faces resemble." とも言い換え可能に思われる。しかし、最後の文は、前の2つと異なり文法的な許容度が低いのだ。

すなわち、英語の場合、"see"のような知覚動詞を用いた<S+V+O+C>型構文には、ある制限があり、それがgenericityの問題に関わっている。

まず、individual-level predicate に分類されるような、固有(inherent)で恒常的な属性を表す述語は、<S+see+O+C>型の補語Cの部分に登場しにくい。

例えば、stage-level predicateとindividual-level predicateを区別するテストの一つは次のものである。(cf. Generic Generalizations (Stanford Encyclopedia of Philosophy))

John saw Bill drunk/sober/sick/naked.

⁕John saw Bill intelligent/tall/a mammal/male.

ここで、"John saw that Bill was tall."の類の文 は容認されることにも注意しよう。つまり、individual-level predicateが表すような属性が、端的に"see" の対象から締め出されているわけではないのだ。

また、<S+see+O+C>文型は、一般的に、補語に状態動詞 stative verbを取りにくい(白井賢一郎、「英語の知覚動詞構文」、p17)。"resemble"も状態動詞の一つである。

⁕We saw John resemble his father.

⁕We saw John know the answer. 

⁕We saw the lamp stand in the corner.

⁕We saw the picture hang on the wall.

ただし、これらの場合、補語が...ing型になれば、許容される。

We saw the lamp standing in the corner.

We saw the picture hanging on the wall.

一方、"resemble","know"には通常、進行形がなく、ここで...ing型をとることができない。

 

では、これらの現象は何故なのか?

白井によれば、<S+see+O+C>構文は、

・ものの内的属性や常態的属性を示す述語とは共起しない。

・補部は、ものの(動かぬ)「存在」自体を描くわけにはいかない。存在自体が(直接に)見えるのではなく、存在が(時間的に移り行く)現象の中に位置づけられていてはじめて、その対象は「見える」認識上の対象となる。

(cf. 白井、「英語の知覚動詞構文の意味分析:認知意味論と形式意味論の「橋渡し」を目指して」、p67)

この説明の是非はここでは問わない。まず、「類似likeness」のような恒常的/無時間的性質を対象とする "see"の使用に、ある種の制約があることを確認したいのである。

 

ところで、"see ... as ..." を述語とする構文は、<S+see+O+C>構文によく似ている。例えば、"as ..."の部分には名詞だけでなく、形容詞を入れることもできる、などの点で。ここにも、何らかの似たような制限があるのだろうか?

ウィトゲンシュタインに引き寄せるなら、『探究Ⅱ』122-4節や203,219節の議論がこれに関連している(ただし、いずれもドイツ語で書かれているが)。122-4節の内容から、恒常的状態性が "see...as..." の対象となる条件は、「見る」ことの切り替わり(すなわちアスペクト転換)が存在することである、と言えるだろう。

視覚的アスペクトは、それを見る見方の内部では、対象の持つ、恒常的/無時間的な属性のように立ち現れる。もし「見方」が変化する可能性が存在しないなら、"see..as..."を用いる言語ゲームは無益なものとなろう。

我々は、人間を描いたありきたりな絵dem konventionellen Bild eines Menschenについては、「私はそれを人間として見ている」とは言わない。(LPPⅠ680、古田徹也訳)

「これは今私にはある顔だ」と言う人には、「どんな変化のことが言いたいのか?」と訊ねることができる。(PPF124, 鬼界訳)

だが、ここでの問題は語用論的なものであって、先に扱った<S+see+O+C>構文における意味論的な制約とは一緒にできない、と言われるかもしれない。このように、一般的な英語文法の問題と、彼が言及している問題とをまとめて取り扱おうとすれば、今回の議論のポイントには収まらなくなるので、これ以上は立ち入らずにおく。

 

ともかく、こう思われてくるかもしれない。「無時間的な対象」と、時間の中で生起し持続する"see" との間には、ある「相性の悪さ」が存在する、そして、<S+see+O+C>構文における制約はその一端を表している、と。

 

さて、ドイツ語にも上に似た現象が存在するのかどうか、残念ながら筆者はよく知らない。

それゆえ、日本語の「見る」、対象の属性や状態を「見る」表現を対象として考察を続ける。

 

4.

日本語の場合にも、動詞「見る」と 恒常的/無時間的な状態性との「相性の悪さ」は存在するのだろうか。

先の英語の例に倣って、次の文を比較してみよう。

a. アキラはユウが男性であるのを見た。

b. ? 今、アキラはユウが男性であるのを見ている。

c. アキラはユウが男性であるのに気づいた。

a.が当てはまる場面は容易に想像できる。例えば:会社員のアキラは、別の部署で働いくことになった新入社員のユウが(異性として)気になっていたが、ある出来事に遭遇し、ユウが男性であったことが判明する。その出来事の描出の中で、a.を使用することができるだろう。

しかし、現在時制でその出来事を描出するのにb.を用いるのはどこか奇妙である。

その理由として思い浮かぶのは、a.とc.との類似である。すなわち、この場面での「見る」と、「気づく」との類似。そして「気づく」は持続的な表現と相性が悪い。

気づくことと見ること。人は「私は5分間、それに気づいた」とは言わない。(RPPⅡ443, cf. RPPⅡ553)

さて、例文の「男性である」の箇所に、「困っている」を差し替えてみよう。すると、a,cはもちろん、bのパターンの文も容認されることがわかる(「今、アキラはユウが困っているのを見ている」)。英語のindividual-level peredicate vs. stage-level predicate の対立に似たものがここにもあるように思える。

 

このように、日本語にも、現在の行為を描出する「見ている」と、対象の恒常的属性との「相性が悪い」例がある。(だが、全てがそうであるわけではないかもしれない。)

 

先に想像した捜査会議の状況においても、次の言い方は不適切と感じられた。

「今気付いたのですが、私は2人の顔に類似を見ています。」

こう発言した場合、発言の焦点は「類似」そのものではなく、「発言者の体験」へとズレてしまうように感じられる。

例えば、視覚に関するテストの最中の被験者の発言としてならば、「今私は、類似を見ています」は適切となるだろう。(cf. PPF177)

ここでも、行為「見る」と無時間的対象(「類似」)との、「相性の悪さ」が現れているようにみえる。

それは、「見ている」の持続性に起因するのだろうか? しかし、そもそもここでの「持続性」とは何だろうか?

(※問題の状況で刑事が「今気付いたのですが、私には2人が似ているように見えます」と言ったとしよう。これは、むしろ自然な表現として許容されるはずだ。そして「見える」は状態的な述語であり、現在を中心とした持続性を表現すると考えられる。

そこから、無時間的対象と「見る」行為の持続性との間に、相性の悪さをみることに異義が唱えられるかもしれない。

この問題に立ち入る余裕はないが、さしあたって2つのことに注意したい:(1)「見ます/見ています」文と「見えます」文とでは主格が交替している (2)ここでも「見えています」は不適切となる。)

 

しかし、この事実は、「相性の悪さ」というよりも、「見る」と「見ている」に関して、それぞれが登場する言語ゲームの違いを示している、とも取れないか?

というのも、上のテストの場合のように「類似を見ています」という言い方が許容される状況も想像できるからだーこの問題には後に立ち返る。

 

5.

上の例で、「私は2人の顔に類似を見ます」は持続的な「見ています」と対比された。この「見ます」は、通常の使用のように将来「見る」こと、のみを意味するわけではない。発言者は確かに、発言する現在において、「類似を見る」という行為を行っている。ーでは、この「見ます」は非持続的な、瞬間的な「見て取る」ことに似ているのだろうか?

ここまでに見た「相性の悪さ」から、あたかも、無時間的対象を「見る」ことは、非持続的≒瞬間的(一瞥的)な「見て取る」ことの内にのみある、そう思われるかもしれない。(「気づく」との類似)

実際、「一瞬の内にある 永遠=無時間性」というヴィジョンは、古来多くの人間を捉えてきた。それは偶然とは思われない。

永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。(TLP 6.4311, 野矢茂樹訳)

しかし、ウィトゲンシュタインも強調するように、「見る」という行為は、ある時点からある時点まで持続するという、「状態」性を特徴としているはずである(cf.PPF248,RPPⅡ43,388)。

では、「顔の類似」のような「無時間的対象」を「見る」、と言うことは、そもそも言葉の使い方として適切なのだろうか?

「私はこの顔に恐怖を見る」が、言葉の使用としては正しくないことだってありえるだろう。言葉の使い方を、次のように教えられる可能性も考えられるからである;恐れに満ちた顔を人は<見る>ことができる;一方、顔の中の恐怖や、あるいは2つの顔の間の類似性や差異性に、人は<気づく>。(RPP Ⅱ552)

(※ただし、ここでウィトゲンシュタインは、このような使用がわれわれのものと比べてより良い、と指摘しているのではない。)

 

6.

先に述べたように、視覚的アスペクトは、それを見る見方の内部では、視覚対象の恒常的/無時間的属性のように現れる。

しかし、そのようなアスペクト持続的に「見る」という概念には、不明瞭なものがあると、ウィトゲンシュタインは感じていた。その不明瞭さは、われわれが今まで見てきた「相性の悪さ」とも通底しているだろう。

その像を見て、最初に私の目に飛び込んでくるのは、二つの六角形がある、ということだ。

そこで、私はそれらを見つめながら、「自分は本当にこれらを六角形として見ているのか?」と自問するーしかも、それらを目の前に見ている間中ずっと?(その間それらのアスペクト(見え方)が変わらない、と仮定して。)ーすると私は、「その間中ずっと、それらのことを六角形として考えていたわけではない」と答えたくなる。(PPF185、鬼界訳)

われわれはみな相貌Aspektの一瞬の変化という出来事を知っている。―しかしかりに人が「Aはaという相貌を―ただし相貌の変化が起こらないとしてのことだが―ずっと思い浮かべているのか」と問うたとしたらどうか。この相貌が、いわばより鮮明になったり、より不明瞭になったりすることはありえないのか。―そして私がこのようなことを問うとは何と奇妙なことではないか!(RPPⅠ506、佐藤徹郎訳)

実際に、さきに見たような「相性」が、アスペクト知覚を巡っても問題となるだろう。

例えば、

刑事A「こんな走り書きを見つけたんだが、何と書いてあるんだろうね?」

刑事B「ふうむ...私は、このくしゃくしゃの文字を、被害者の妻の名、「詩織」と見ますね。」

という会話を想像しよう。これは、走り書きの文字の視覚的アスペクトに関する報告である。この場面でも「見ています」は不自然である。

視覚的アスペクトという対象と 持続的な「見ている」とは「相性が悪い」かのようである。

あたかも相貌Aspektというものは、ただ一瞬ひらめくだけで持続するstehen bleibtことのない何かであるかのごとくである。とはいえ、これは概念に関する考察なのであって、心理学的考察ではありえない。(RPPⅠ1021、佐藤訳、cf.LWPP Ⅰ518)

「概念に関する考察なのであって、心理学的考察ではありえない」ーアスペクト視覚の非持続性(瞬間性)は、上に見たような言語使用に対応している。そこで、彼の考察は言語ゲームを対象とした概念的なものとなる。

(※もちろん、人間や環境の自然的条件が言語ゲームに影響していることは認めなければならない。では、なぜウィトゲンシュタインは、概念的(文法的)考察に専心するのか?という問いが生じるが、今立ち入ることはできない。cf. PPF365~)

 

彼が行なったのは、「アスペクトを見る」ことと、「アスペクトに気づく」ことや「...を意味する」こととの概念的比較(RPPⅡ443,552-3,RPPⅠ1064,RPPⅡ375,LPPⅠ176)、あるいは「...ができる」「...を理解する」との比較(RPPⅠ505,882,993,RPPⅡ43)であった。

 

非持続的なアスペクト視覚の表現が使用される言語ゲームの一つは、「私は...を(…として)見る」が起動相的に解釈(inchoative interpretation、cf. 出水、前掲書、p91)され、ある能力の端緒の表現となるものである。そしてその能力は持続する状態として捉えられる。

その意味で、それは瞬間的事象を描出するように見えても、単に瞬間的な事象に関わる言明ではない。そこでは瞬間性と持続性は結び付いている。そして、このような使用を、同じく起動相的な表現が用いられる「できる」「知る」「解る」「理解する」「意味する」等の場合と比較することが有益である。(cf. ”アスペクト知覚と能力”、”「気づく」と「見る」”、”閃きと停留”)

上でわれわれが注目した「私はこの2人の顔に類似を見ます」の使用もまた、ここに属する。起動相的に解釈された「見る」は、achievement verbのようにふるまうため、継続相(進行相)としてのテイル形をとらないのだ、と解釈できる。

 

しかし、「見る」と、「知る」「理解する」のような概念とは、大きな違いがある。

見ることにおいて本質的なことは、それが一つの状態であり、またそうした状態は別の状態へと急変しうる、ということである。しかし私は、彼がこのような状態にあることを、それゆえ知る、理解する、[概念的に]把握するといった傾性(Disposition)と比較しうるような状態にあるのではないということをどうやって知るのか。このような状態の論理的特性とはいかなるものであるのか(RPPⅡ43 野家啓一訳)

このように、「単に知っていることと、見ることとの違い」は、アスペクト知覚論の中心問題の一つとなる。(”「知る」ことと「感覚する」こと”)

 

7.

しかし、先に、視覚に関するテストの状況では「私は2人の顔に類似を見ています」のような発言が適切となることを指摘した。状況によって、持続的なアスペクト知覚の表現が用いられる場面も多数あるのだ。

さきの走り書きを巡る会話の例でも、走り書きが前もって刑事2人の目に触れていたとすれば、「見ている」の使用は全く自然なものとなる。

刑事A「先ほどの走り書きだが、何て書いてあるんだろうな」

刑事B「私は、最初のくしゃくしゃした文字を、被害者の妻の名、「詩織」と見ているがね。」

ウィトゲンシュタインは、アスペクト知覚の持続的様相と、そのさまざまな表現を認める。

そして、私は、アスペクトの<恒常的な見えdem stetigen Sehen>とアスペクトの<閃き>とを区別しなければならない。(PPF118)

「彼を見ると、私はそこにいつも彼の父親の面影を見る。」いつも?-ともかく、それが一瞬のみでないことは確かだ。この相貌Aspektは持続しうる。(RPPⅠ528 佐藤徹郎訳)

確かに人は、「さあ、その図形を五分の間・・・として見なさい」と言うことができる。もしそれが、その図形をこの相貌Aspektのままに平衡を保っていなさい、ということを意味するのならば。(RPPⅡ539 野家啓一訳)

すなわち、「アスペクト知覚の持続性」を表現する言明には、さまざまなものがある。最初の例は、「見る」が習慣相的に解釈される例であるが、2番目の例はそれとは異なる持続性の例である。

ここで、心理的概念に関するウィトゲンシュタインの考察において、「真の持続」「意識状態」「心的傾性」「機能的状態」「一様性」「経過」といった概念を用いて、持続のさまざまな様態が論じられていたことを思い出そう。(”体験と持続、不適切な問い”、”心理的概念のアスペクト”、”表出される傾性”)

 

そこで次のような問いが生じてくる。

持続的なアスペクト知覚を表す言語ゲームにどのようなヴァリエーションがあるか?

「瞬間的」なアスペクト知覚表現と、「持続的」な表現とでは、どのような使用の違いがあるのか?それぞれの使われる言語ゲームに、どのような性格の違いがあるのか?

持続的なアスペクト知覚表現を用いた言語ゲームに、どれほどの重要性があるのか?

 

8.

非持続的なアスペクト知覚表現が、現在時制で「無時間的」に使用される場合について、改めて考えよう。先の「私は2人の顔に類似を見ます」「私は最初の文字を「詩織」と見ます」がその例である。

これらは、「2人の顔は類似しています」「最初の文字は「詩織」です」のような、主体の体験に言及しない文に類似した使用が可能である。

それによって、<現在時制の非持続的アスペクト知覚表現 vs. 持続的なアスペクト知覚表現> という対比は、<単なる意味説明 vs. 意味体験の表現を通しての意味説明>という対比にパラレルな類似をなすように見える。すなわち、「○○は△△の意味である」(単なる意味説明)と「私はその会話の中では○○で△△を意味していた」との対比に類似する、と。

そして、この対比は<意味体験の非/重要性>という問題につながってゆく(cf. PPF262, LPPⅠ126-7)。

 

一方、ここで「現在時制の非持続的アスペクト知覚表現」と呼んだものも、元々は体験の表現であるはずだ。そこでウィトゲンシュタインは、もう一つ別の対立軸に注目する。

それが主体の没頭(没入、専念)Beschäftigung の有無、という対立である。

問題は、これに関連した別の概念が、なおわれわれにとって重要となるかどうかである。即ち、そのように見る という概念、しかも私が、像に対して、それが描き出された対象そのものであるように没頭するbeschäftigen場合にのみに適用されるような、そのように見る という概念が。(PPF199)

「没頭性」は、いわば「体験性」の濃さとしてイメージできるかもしれない。

「没頭性」は、アスペクト転換の瞬間性(一瞥性)、アスペクト知覚の持続性、双方にとって枢要な意味をもつ。

アスペクト転換を見るとき、私はその対象に没頭してbeschäftigenいなければならない。(LPPⅠ555, 古田訳)

ここでひらめくもの、それは、見ている対象に私が特別に心を奪われている間eine bestimmte Beschäftigung だけ持続する、こう私は言いたくなる。(「見て、この点見ているよ。」)ー「私は言いたくなる」ーでは本当にそうなのか?-自問してみてほしい、「どれだけの間、それは私の注意を引いているのかauffallen?」-どれだけの間、それは私にとってにとって新しいのか?(PPF237 鬼界訳)

この関連で、「驚き」や「注意を引くauffallen」という事象に注目しなければならない(cf. PPF152,239,240,244,245,LPPⅠ174,437,565,568,714-9)。例えば、上で「現在時制の非持続的アスペクト知覚表現」を「単なる意味説明」に類比した時、そこで類比成立のために無視されたのは「驚き」であった。

 

これ以上立ち入ることはできないが、アスペクト知覚表現の「瞬間性」vs.「持続性」と「没頭性」との絡み、交錯もまた、アスペクト知覚論の中心問題である。

(cf. ”「気づく」と「見る」””状態としての「…として見る」”

 

そして、以上の議論を通じて、中心的な役割をあてがわれながら、その実態があいまいなままであったのは「持続性」という観念であった。ある行為(例えば「見る」)を持続的な相において描出する、とは、そもそもいかなることなのだろうか?