アスペクト知覚は、なぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか(暫定的覚書き)

(前回に続き、暫定的なまとめとして)

1.

ウィトゲンシュタイン哲学探究』第Ⅱ部xi節は、冒頭近くに出てくるウサギ-アヒルの画像とともに、アスペクト知覚を論じていることで名高い。」

― それは、確かにその通りだ。第Ⅱ部において長大なxi節は、はっきりと「アスペクト知覚」がテーマに設定されて始まる。元の草稿(『ラスト・ライティングスⅠ』)の流れを反映して、後半ではアスペクト知覚以外にも様々なテーマを巡ってゆくことになるが、ともかくも導入部において「アスペクトに気づく」とは何か、等が定義され、テーマが明確にされてから議論が展開してゆく。

 

ただし、読者が先入観で「アスペクト知覚論」というものを固定的に捉えているとしたら、xi節の入り口で、ちょっと違和感を覚えることになるだろう。

というのは、冒頭のPPF111~112 では、確かに「見る」ことが問題とされているが、まず持ち出されているのは「アスペクトを見る」ことではなく、「類似を見ること」なのである。

それが「顔の類似を見ること」であることにも留意しよう。

「見る」という語の2つの使用。

その一つ:「君はそこに何を見ているんだ?」ー「私はこれを見ている」(そして、記述、描画、模写があとに続く。) もう一つ:「私はこれら2つの顔に類似を見る」ー 私がこれを伝える当の人が、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい。

重要なこと:見ている<対象>、2つのカテゴリー的な違い。

ある人が2つの顔を正確に模写するものの、互いの類似に気付かず、他人がその模写を見てそれに気づくbemerkenこともあり得るだろう。

(PPF111-2)

類似を見ることとアスペクトを見ることとの間には、確かに本質的な結びつきがある。(ただし、それを正確に説き明かすのは簡単ではない。)

私が、ある顔を眺めるbetrachte。突然、別の顔との類似に気づくbemerke。私は、その顔が何も変化していないことを見ているsehe;しかもなお、それを別様に見ているsehe。このような経験Erfahrung を、私は「アスペクトに気づくこと」と呼ぶ。

(PPF113 ※ここでの 'betrachten', 'sehen', 'bemerken' それぞれの様態の違いについても、多数論じられるべきことがある。)

それゆえに、ここで「類似を見る」が先立って話題にされていても何も不思議はない、と考えることもできる。

しかし、注目したいのは、アスペクト知覚が、類似を認めること、すなわち類比すること、という相を持っており(”「説明」の周辺(18)”)、それによって、ウィトゲンシュタインにおける他の重要な考察テーマとの関連に開かれている、という事実である。xi節が「類似を見る」で始まることは、そのことを強調して示しているようにも思われる。

 

それについて説明することは、「アスペクト知覚はなぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか」という、今まで数限りなく問われてきた問いへの、一つの(唯一の、ではない)解答となるはずである。

 

2.

まず、「2つの顔に類似を見る」という表現に注目する。

当ブログでは、xi節冒頭と『数学の基礎講義』『数学の基礎』等との、テクスト間の類似に注目し、次のように解釈した。

xi節冒頭においても、<「概念の使用」と「概念の規定」との違い>という問題が姿を現している、と(”2つの使用”、”文法的命題、経験的命題”)。

※ここで詳しく説明する余裕はないが、簡単に確認しておく。

「概念の規定 Begriffsbestimmung」という言葉は、ウィトゲンシュタインの晩年のテクストによく見られる。当ブログでは、それに対立するものを指すための言葉として、「概念の使用」を用いている。(ちなみに『数学の基礎』では、「意味の使用」vs「意味の規定」という、同様の対立が現れる(RFMⅢ37)。)

「概念の使用」と「概念の規定」は、言葉の異なった使用の仕方である。

ごく粗い説明になるが、「テーブル」という語について、「テーブルが、その部屋には2つあった」は「概念の使用」、「テーブルとは、この種の家具である」は「概念の規定」に当たる。

つまり、大よそ、「経験命題的使用」と「文法命題的使用」との対立に相当する。(cf. RPPⅡ609, Z570)

またしばしば、ウィトゲンシュタインによって、「時間的使用」と「無時間的使用」の対立としても捉えられている。(cf. RCⅠ1)。(”「説明」の周辺(39)”)。

この問題は、彼の「数学の基礎」論や文法的命題論の根本に位置する。

つまり、「2つの使用」の違いは、「経験的命題」と「文法的命題」との違いにつながっている、と。

 

そう解釈する根拠について。

まず、「私は、この2つの顔に類似を見る」と、意味の体験の表現を介して言葉の意味を規定する発話(例えば「私は、この2つの語で同じことを意味している」)には類似が認められる。そして、後者の表現が「意味」という、時間を越えた存在について伝えるために使用されるのと同様に、「私は、この2つの顔に類似を見る」も、時間を越えた形象的な類似についての伝達に使用することが可能である。(cf. LPPⅠ152-162)

「わたしはその2つが類似しているのを見る」は、「その2つ」がどのように定義されているかに応じて、時間的にも、無時間的にも、使用され得る。(LPPⅠ152)

大まかに言えば、そのような「時間を越えた、無時間的な内容」の伝達が、「概念の規定」である。

「この2つの語は同じ意味である」は、<A=B>のような等式に類比できる。そして、「概念の規定」に使用される。それに対し、「私は、この2つの語で同じことを意味している」は、いわば、等式を「わたし」の体験という衣で包んでいる。往々にして、われわれは、この種の表現をも「概念の規定」に使用するのである。

(※ウィトゲンシュタイン自身は、意味や形象を「時間を越えた存在」と呼んでいるわけではない。またこれまで何度も触れたように「意味する」を「体験」ととらえることにも問題がある(2018-07-15, 2020-08-24, 2021-08-03 )。が、議論の簡略化のために、ここではこのように表現しておく。)

 

では、「私は、これら2つの顔に類似を見る」が時間的にも無時間的にも使用可能だとして、PPF111のそれは「概念の規定」として使用されている、と言い切れるか?

―  使用の環境がもっと詳しく描出されないと断定はできないかもしれない。だが、有力な「証拠」はあるのだ。伝達を受ける相手が、2つの顔をはっきりと見ていてもよい、という条件、である。(ただし、この条件の持つ意味については、今立ち入って検討することはできない。)

 

ここで問題となるのは、体験の表現を介しての「概念の規定」という性質である。体験の表現という側面が持つ関連の広がりは、以下のように明らかになる。

 

3.

上で注意したように、PPF111~113で話題に出されたのは、「顔の類似を見ること」であった。そのこともまた、他のテーマとの関連を暗示している。

まず、「顔を見る」ことから、「表情を見る」ことへ、ターゲットを少し移動してみよう。

「表情」という存在カテゴリーに対するウィトゲンシュタインの特別な関心が明らかになるのは、『美学講義他』等、美学に関する講義録を通してである。「表情、表現、expression, Ausdruck」という語は多義的であるが、彼はその多義性を拡張するようにさらに類比を繰り広げて、「事物の印象」「演奏の表情」「語の感じ」「知覚的アスペクト」等を「表情」と結びつける(”「説明」の周辺(12)”)。

そこから浮かび上がってきたのは、事象とその表情との「非因果的な連関」、それに関する「非因果的な説明」(”「説明」の周辺(36),(42)”)、そして「一瞥性」という問題だった。

 

4.

「非因果的説明」と「体験」の問題について。

先に挙げた「私は、この2つの語で同じことを意味している」や「私はこの2つの顔に類似を見る」は、「無時間的な」関係を、体験という時間的出来事の表現を通じて示すという構造を持つ。それらの言明を当ブログは「無時間的命題の時間化」、「体験による出来事化」と呼んだ。(”体験による出来事化”)

ところで、ウィトゲンシュタインがxi節で扱う「アスペクト知覚の表現」は、決して「・・・を・・として見る」という形式のものに限られてはいなかった。特に「アスペクトの閃き」の表現は、叫びのような様態でも現れた。それを彼は「体験の表現」でもあると捉えた(cf. RPPⅠ861-2, LPPⅠ474, PPF138-140)。そのような「叫び」が「概念の規定」の役割をするような状況が存在する。当ブログでは、『探究Ⅱ』で挙げられた「今、行進曲だ」という表現を例に、そのことを論じた。(”「説明」の周辺(40) , (41)”)ここでも、体験という出来事の表現を通じて、芸術作品のフォルムや知覚的アスペクトのような、「無時間的」なものが伝達される。

「私は、この2つの顔に類似を見る」や「アスペクト知覚の表現」は、このように様々なかたちで「体験の表現」でありつつ、同時に「無時間的内容」の伝達にも関わる。あるいは、「非因果的説明」の役割をする。

 

こうして、「非因果的説明」が同時に「体験の表現」でもあるケースについて考える、という課題が浮上してきた。

アスペクト体験の表現は、叫び(PPF138, 145, 207, RPPⅠ861,862, LPPⅠ474)、驚き(PPF152, LPPⅠ437,565)、感覚に似たもの(PPF201)、主体の没入(PPF199, RPPⅠ1033)、注意を引かれること(PPF239,244-5)、等の表現として現れる。

「意味の体験の表現」を例にとろう。ウィトゲンシュタインはこう言っている。

「・・・という言葉はその意味で満たされていた」という伝達には、「それは・・・という意味をもっていた」という伝達とはまるで違った使い方、まるで違った帰結が確かにある。(LPPⅠ785、古田徹也訳)

その「まるで違った使い方」とはどのようなものか?

それは表現の「無時間的内容」とどう絡むのか?

それによって、われわれは何をおこなうのか?

私は、その写真のまなざしが語りかけるままにさせる。おそらく初めて私はその像を本物の顔のように見る。<その表情に応答せよ>。ここで「その際何が起こっているのか」と問うてはならない。そうではなく「ひとはこうした表出で何をするのか」と問え。(RPPⅠ1033)

それがウィトゲンシュタインの問いたかったことであるはずだ。

 

5.

「一瞥性」の問題について。

美学に関する考察の読解によって、「一瞥性」が、ウィトゲンシュタインの重要な考察テーマとして浮かび上がった。(”「説明」の周辺(17)”)

「一瞥性」は、ある時は「表情的同一性」として、あるときは「アスペクトの閃き」として姿を現した。(”「説明」の周辺(18)”)

忘れてならないのは、「一瞥性」が、「数学の基礎」問題の考察にも登場することである。「一瞥性」は、特にプリミティブな数学的実践において極めて重要な役割をする。ただし、数学的命題の全てが一瞥性を持つわけではない。そのことが逆に、次の可能性をもたらすだろう。すなわち、「一瞥性」の観念が、数学全般に対する我々のイメージをゆがめてしまうという可能性を。(”「説明」の周辺(19)”)

また『探究Ⅰ』において、「言葉の意味の一挙的把握erfassen mit einem Schlage」(PI 136) に関する考察が重要な役割を果たしているが、この「言葉の意味の一挙的把握」も「一瞥性」の例として見ることが可能である。(”「説明」の周辺(23),(25)”)

このように、「一瞥性」によって、アスペクト知覚論と美学論、「数学の基礎」論とが結びつく。

 

6.

以上のように「類似を見ること」と「顔の類似を見ること」、それぞれの方向に探索して行けば、アスペクト知覚論と他のテーマとの関連が見えてくる。当ブログでは、そのような関連の場に、アスペクト知覚論の重要性を見出そうと努めてきた。