第四種動詞の周辺(9)

1.

野田高広は、広義での習慣を表わしながら、現在時制でル形の容認度が低い、つまりル形習慣文を取りにくい動詞群の存在を指摘している。例としては、<通う、付き合う、暮らす、住む、定期購読する、営む、愛用する、養う>等である。(cf. 野田「現代日本語の習慣相と一時性」p208)。

太郎は新宿の職場に*通勤する/通勤している。

花子は太郎と*付き合う/付き合っている。

花子は大阪で*暮らす/暮らしている。

太郎は囲碁雑誌を*定期購読する/定期購読している。

太郎はハーブ石鹸を*愛用する/愛用している。

私の父は時計屋を*営む/営んでいる。

(以上、野田、p208-9)

野田は、ル形の容認度には若干の個人差があることを認め、「一般に対話の場面を設定した場合のル形の容認度は低く、小説などの語りの文脈でのル形の容認度は比較的高いようである」と言う。また、これらの動詞と第四種動詞との類比にも触れている(p209)。たしかに、「対話の場面でのル形の容認度は低く、小説などの文脈での容認度は比較的高い」という特徴は、これまで話題にしてきた第四種動詞の「恒常性用法」にも共通している。

 

これらの動詞の性質は、野田以外の研究者からも注意されてきた。

それら研究者の述べていることから、これらの動詞を特徴付けてみよう。

数年にわたる行為を意味する動詞

 学校で、はとをかっているところもあります。(二上 16)

この例文で、「かっている」は毎日する個々の行動がくりかえされることを意味しはするが「くりかえし」の例にははいらない。「かう」ということ自体が数日から数年にわたる行為を意味するからである。従って、「毎日かっている」は正しくない。同じような語として、「くらす、生活する、住む」などがある。(吉川武時「現代日本語のアスペクトの研究」p198)

 

「いきる」「くらす」「住む」などは、ながい期間の持続をあらわす動詞である。......これらは、ひとつひとつの具体的動作はいろいろであるが、全体をとおして、ひとつの動作としてあらわしているのである。(高橋太郎『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』p99-100)

「愛読する」や「かよう」などは、動作としては、ひっきりなしにつづくわけではない。けれども、こういう動詞は、そうした非連続のくりかえしをひとまとめにしたものを、ひとつの動作としてあらわすのである。この種の動作は、...大規模な動作といえる。(高橋、p108)

 

なお、「通う、通勤する、交際する」のような、多回性を、語彙的意味自身のなかにとらえている動詞がある。これらでは、時間的限定性の抽象化が進んでいるともいえるが、スル形式で、テンス的に<現在>を表すことができない。反復性ではないであろう。(工藤真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト』p154)

その他に、鈴木重幸は、「職業としての動作はふつう継続相だけがもちいられ、完成相はもちいられない」ことを指摘している。また、それに準ずる例も示している。(鈴木「現代日本語の動詞のテンス」p23)

寅「なにしているんだい、商売は」リリー「私?......歌うたってるのよ」(男はつらいよ 64)

このごろは、英会話をならっています。

工藤も同様の指摘を行っている(p160)。また、語彙的アスペクトから見た動詞分類において、これらの動詞を、「人の長期動作動詞」と名付け、主体動作動詞の一部に位置づけている(p76)。

 

野田は、上の吉川の指摘を受けて、「これらの動詞には「毎日」「いつも」「しょっちゅう」などの頻度を表わす副詞句が共起しにくいという特徴が認められる」と言う(p209)。

 

以上から、問題の動詞は、どのように特徴づけることができるであろうか?

これらの動詞は、個々の動作が繰り返されることを表わしている。例えば、「愛用する」は、その対象を使用する個々の行為の全体を「大規模な動作(高橋)」「長期動作(工藤)」のように表す、と見ることができる。

個々の動作は、長期にわたる繰り返しがなかったならば、その動詞の名で呼ばれることはないであろう。一日だけ、ハーブ石鹸を楽しみつつ使用したとしても、他の日に一切使うことがないなら、「ハーブ石鹸を愛用した」とも「愛用していた」とも言えない。一日だけ、飼い主に代わって鳥の世話をしたとしても「鳥を飼った」「飼っていた」とは言えない。この点で、Vendlerのactivity verbの典型例である、「歩く」「ダンスをする」といった動詞とは異なっている。

いくつかの動詞では、背後に長期にわたる慣習的行為があれば、その全体から個々の動作を取り出して、個別にその動詞の名で呼ぶことができるだろう。例えば、ある日の、バス停まで歩き、バスに搭乗して、オフィス近くのバス停で降り、そこからオフィスまで歩く行為を振り返って、「その日私は、早目に通勤した」と言うことができる。そうであっても、ル形を用いて習慣文のつもりで「私は、◯◯町のオフィスに通勤します」とは言いにくく、「通勤しています」が自然であろう。ただし、個人のプロファイルを紹介する文章の中では、ル形の「〇〇町のオフィスに通勤する」も自然である。(話し言葉と書き言葉での違い。上でも触れたが、この点で、恒常性用法の場合によく似る。)

それに対して、「暮らす」の場合、特定の一日について、「その日も〇〇市で暮らした」と述べるのは奇妙であり、「暮らしていた」が適切である。「暮らす」に比較すれば「通勤する」のほうが個別の行為を動詞の名で呼びやすいという特徴を持っている。「暮らす」も、個人のプロファイル紹介のような書かれた文章では、ル形が許容される。

 

2.

この種の動詞の詳しい検討は別の機会とする。

恒常性用法と習慣文について、当ブログでは、いずれもアスペクトは「中和」されず、その性格が生きている、という立場をとってきた。

恒常性用法については、影山が指摘したような、期間を表す副詞句との共起可能性の違いに、ル形/テイル形のアスペクト的性格の違いが現れていると解釈した。

習慣相については、野田の研究を参照しながら、非限定的用法と限定的用法の区別、非限定的用法内部でのアスペクトの現れについて見てきた。

 

第四種動詞と長期動作動詞については、ル形のとりにくさは、ある程度まではアスペクトの面から説明できるかもしれない。

「暮らす」「飼う」のような長期動作動詞については、次のように。

例えば、ある一日、普段の生活の手順を踏んで特定の様々な動作を続けて行うことは、たしかに「暮らす」に含まれる行為の一バリエーションであり、それを完結したひとまとまりと見ることも可能である。しかし、その一日の行為は、「暮らす」という「大規模な動作」「長期動作」の部分であるから、「その日、彼女は大阪で暮らした」とperfectiveに述べるのは不適切であり、「暮らしていた」とimperfectiveに用いなければならない、と。(TT⊆TSit, つまりTopic timeがTime of Situationの部分をなすことが、imperfectiveの意味であった。)

ただし、期間の副詞句の表す期間が、TT⊃TSitとなり得るほど十分に大きい場合は、「暮らす」や「愛用する」をperfectiveに用いることには問題がない。「彼は、15から18歳になるまで、海外で暮らした」「祖父は晩年、木のステッキを愛用した」のように。

 

次に、恒常性用法、第四種動詞について。

議論のために、いずれの第四種動詞も変化動詞を原義とすると仮定しよう。すなわち、語彙的アスペクトの面では、変化動詞である、と。さらに、ここまで示してきたように、文法的アスペクトも機能している、とする。もし具体的な期間を示す副詞句が添えられたなら、その期間において語彙的・文法的アスペクトの性格に沿って事象を述べることになる。

テイル形に副詞句が添えられた場合は、その期間において「変化結果」の残存状態を表すことになるが、これには問題はないだろう。つまり、ここでは第四種動詞の原義を変化動詞と見なしており、その「変化結果」が、第四種動詞の表す恒常的な状態に相当する。恒常的な状態であれば、どの期間をとっても、その状態が持続する期間に含まれるはずである(TT⊆TSit)。

そこで、ル形をとる場合、つまり恒常性用法の場合について考えよう。その文法的アスペクトはperfectiveである。

ゆえに、恒常性用法においても、期間の副詞句が添えられたなら、その期間においてperfectiveに事象を表さなければならない。

しかし、多くの第四種動詞においては、、現実には変化の起こった瞬間は存在しない。したがって、どんな期間的副詞句が添えられても、perfectiveの条件(TT⊃TSit)を満たすことはできない。

また、副詞句が、英語のfor+期間(例:for two hours)のような種類のものである場合、変化動詞との相性は悪いはずである。(「昨日午前0時から正午の間に、死んだ」とは言えるが、「昨日午前0時から正午の間、死んだ」とは言えない。)すなわち、変化動詞という語彙的アスペクトの性格が生きているなら、副詞句の種類による相性の悪さも存在するだろう。

 

3.

とはいえ、期間の副詞句を伴わない恒常性用法や、連体修飾時には、アスペクト的性格は失われているように見える。その意味で、アスペクトの「中和」という考え方にも理はあるように思われてくる。

伊豆諸島は、神奈川県の南の海上浮かぶ

ヒマラヤの峰々がそびえる様は壮観であった。

それは、あまりにばかげた話だ。

あるいは、この場合、「変化結果の状態にある」という(アスペクト的)フェーズの解釈が強制される、というべきだろうか。

では、その場合にアスペクトの「中和」ないし「強制」を可能にしている条件は何だろうか?

ここで一旦、テンスに目を向ける必要があると考える。