動態動詞ル形の用法について(9)

1.

続いて、「一人称ル形で話者の感情や内的感覚を表出する動詞」について見てゆく。

鈴木重幸「現代日本語動詞のテンス」、高橋太郎『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』に挙げられた文例より、

・「市川君、そう君のように言うから困る。~」

・「登喜子もいいが、虐待されるんで弱るね

・「つかれるわ、わたし。......ねむらせて。ねむらせて」

・ほんとに、むしゃくしゃするよはらたつよ、…

・「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの

・「ああ、どうしたのかな、手がしびれる。」

(cf. 鈴木、p37、高橋、p68-9)

これらが示すように、問題の文では、一人称主語(「私は」「僕は」etc.)は省略されることがある(むしろ、そのほうが多い)。

これらの動詞の中には、「困る」「疲れる」のように動詞一語で感情・内的状態を表わすものと、「頭痛がする」「癪にさわる」のように動詞と補語が一体となって固有の意味をあらわす(成句化している)ものとがある。後者には、「頭痛する」のようにガ格をとるものと、「癪障る」「気なる」のようにニ格をとるものがある。そして、基本的に、ヲ格をとらないことが特徴となっている(cf. 山岡政紀、「日本語の述語と文機能の研究」p199)。これらの動詞は、対象格(Object, Obと略す)をとる場合にも、ニ格またはガ格をとり、ヲ格はとらない

あの言い方が障る。

あいつの顔がなる。

あの言い方に虫酸走る。

君の愚かさには愛想尽きる。

(cf. 山岡、p199)

「癪に障る」「虫酸が走る」のような動詞は、上の例が示すように、成句内でニ格が使われている場合には対象格はガ格をとり、成句内でガ格が使われていれば、対象格はニ格が使用される(山岡、p199)

(※山岡は、ここに分類される動詞で例外的にヲ格をとるものの存在も指摘し、その機能が対人的情意表明であると主張する。(p201)例えば「僕は君を憎む」である。 この点には今は立ち入らない。)

(※前回扱った「思う」「考える」をここに分類することも可能であろう。だが「~を思う」「~を考える」といった用法の存在から、話は複雑になる。そのことについても今は立ち入らない。)

 

2.

他方、成句内または対象格にヲ格をとる「~を気にする」「~に腹を立てる」等の動詞は、一人称ル形では現在の事象を表さない。(ゆえに、上に分類される動詞群には属さない。)すなわち、ル形では、人称を問わず、未来の事象を表す。現在を表現する場合、テイル形が必要である。

僕は、彼の対応に腹立てる/腹立てている。

cf. 僕は、彼の対応に腹立つ/腹立っている。

(私は)彼の対応気にします/気にしています。

cf. (私は)彼の対応気になります/気になっています。

しかし、「腹立つ」ー「腹立てる」、「愛想尽きる」ー「愛想尽かす」のように、これらの動詞の間に、項構造に基づいた対応を見ることができる。ここでさらに、経験者格(Experiencer,Exと略す)の現われ方を考慮にいれると、次のような対応が確認される。(山岡、p199。前の方が一人称ル形の表出文で、一人称経験者格は省略されることも多いので括弧に入れてある。)

([Ex]は)[Ob]気になるーー[Ex]が[Ob]気にする

([Ex]は)[Ob]に腹立つーー[Ex]が[Ob]に腹立てる

([Ex]は)[Ob]に心痛むーー[Ex]が[Ob]に心痛める

([Ex]は)[Ob]に愛想尽きるーー[Ex]が[Ob]に愛想尽かす

見たところ、全体の構造は、日本語動詞の自他対応のパターンに酷似する(cf. 2023-09-07)。すなわち、同一語根の他動詞と自動詞が対応、ヲ格とガ格の交替。ただし、①一人称ル形のテンス・アスペクト的変則性②成句化した動詞内でのヲ格/ガ格交替の存在、という特徴を有する。

山岡は、このような項構造に基づいた対応が、感情形容詞とヲ格動詞との間にも存在することを指摘している(p200)。

([Ex]は)[Ob]が悲しいーー[Ex]が[Ob]を悲しむ

([Ex]は)[Ob]が楽しいーー[Ex]が[Ob]を楽しむ

([Ex]は)[Ob]が悔しいーー[Ex]が[Ob]を悔やむ

人称制限のあり方も、問題の動詞と感情形容詞とで共通する。

これらの点で、ここで問題にしている動詞群は、感情形容詞に似たポジションにある、と言えよう。

さらに、山岡は、このような対立と、一般的な自他対応との違いについても言及している(「感情描写動詞の語彙と文法的特徴」p31)が、今は立ち入らない。

 

3.

ただし、ここで問題とする動詞の中には「手がしびれる」のように、”自他対応” が見出されないものも存在する。(感情形容詞の中にもそのようなものが存在する。「~がつらい」など。cf. 山岡、「日本語の~」p200)一方、「怒る」「苛立つ」「苦しむ」のように、一人称ル形での表出が可能でない動詞で、ヲ格をとらないものも多数存在する。したがって、すべての例が、ヲ格‐ガ格の対立を軸に整理できるわけではないことに注意する。

2024-01-23で取り上げたⅡ①の例をもう一度見てみよう。すると、一人称ル形での表出動詞に分類することも可能なことに気付く。

あれ、このみかんは酸っぱい味がする。あまりおいしくないよ。
この花はとてもいい香りがするな。さわやかな気分になったよ。

見た目とは違って、この生地はザラザラした肌触りがするね。

以前は、これらの例文が、主題句で表された対象の属性記述に用いられる場合を重視して、<Ⅱ属性叙述>に分類しておいた。しかし、上のように、経験者Experiencerの知覚体験の表出に用いられる場合は、ここⅥに分類できよう。(当ブログの分類は機能的な視点に基づいているので、同じ形態が複数の機能を担うことが可能であれば、複数のカテゴリーにまたがることになる。)

(これらにも”自他対応”は存在しない。)

このように、ここで問題にしている動詞文は、知覚の表出の場合も含んでいる。

 

4.

2.で取り上げたヲ格をとる動詞のように、一人称ル形での表出が可能でない動詞について。山岡は、それらを<感情描写動詞>と名付ける。そして、三人称でも可能な、感情の「描写」を、「表出」から区別する。感情描写動詞との対応の有無に関わらず、一人称ル形で現在の感情・内的状態を表出する動詞を、<感情表出動詞>と呼ぶ。

(※感情の「表出」と「描写」という概念については、さらに意味を明晰化する必要があるが、ここではその余裕が無いので先に進む。)

 

山岡は、もう一つ、タ形で現在の感情内的状態を表出する動詞群を認め、<感情変化動詞>と呼んでいる(「日本語の~」p213)。

「思ったより元気そうね。ホッとしたわ

「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」

山岡は、この種の文は、「過去に起きた変化そのもの」と「その変化結果が持続する現在の状態」を共に表し、後者の意味によって「感情表出」たり得ている、と言う(「日本語の~」p214-5)。さらに、「このように、過去時制辞を伴いながら時制意味が現在となり、現在の状態を表わす例は、日本語ではこの種の文しか見当たらない。」と主張する。これらの主張の検討には、今は立ち入らない。

<感情変化動詞>に属する動詞には、下のようなものが含まれる(cf. 山岡、「日本語の~」p215-7)。

(~に)気が付く、(~が)ひらめく、あきる、あきれる、あせる、安心する、困る、疲れる、頭にくる、いやになる、腹が減る、がっかりする、さっぱりする、

 

山岡の分類を、やや雑に、判りやすく表せば、

現在の感情・内的状態を、

①ル形で表出するもの:感情表出動詞

⓶タ形で表出するもの:感情変化動詞

③テイル形で描写するもの:感情描写動詞

となる。

そこで、感情を表現する動詞が、このように多様かつ変則的なテンス・アスペクト的性格を備えているのは何故か、これをどう説明するか、が問われるわけである。

 

5.

以上のように、感情表出や感情描写を担う日本語の動詞は、いくつかのグループがそれぞれ特徴的なテンス・アスペクトと項構造を持ち、感情形容詞をも含めて、互いに特定の対応関係に立つ。

 

山岡の他にも、例えば三原健一は、ここで扱った動詞(三原は「心理動詞Experiencer verb」の呼び名を使用している)における自動詞/他動詞の区別について、直接受動文の可否という基準に基づいた分類を示している(三原、『日本語構文大全Ⅰ』第2章)。そして、一人称ル形で現在の事象を表す動詞(山岡の「感情表出動詞」)は、すべて自動詞であることに注意している(p49)。これは、「感情表出動詞」がヲ格をとらないという事実に直観的に適合する。

山岡も、三原とは異なる独自の基準から、感情表出動詞はすべて自動詞であると主張している(山岡、「感情描写動詞の~」p30)。

(ただし、心理動詞における補語、付加語の格のとり方は複雑であり、注意して分析する必要がある。(cf. 三原、p40-9、山岡、「感情描写動詞の~」p30-2、ここでは立ち入らない。)

その上で三原は、(山岡の)「感情表出動詞」の用法は、状態表現を代用するものである、と主張する(p50)。(その是非はここでは問わない。)さらに三原は、「感情表出動詞」の用法が属性叙述である、という主張を紹介する。しかし、問題の構文は、一時的な状態を表現する場合もあるから、属性叙述という規定は強すぎる、という。「一時的な状態」の場合とは、例えば次のような場合である(三原、p52)。

そんなこと、困るよ。

うーん、その選択は迷うなあ。

この主張の是非に関しても検討は措く。

思い出したいのは、<Ⅱ属性叙述 >の分類に含めた、鈴木重幸の謂う「一時的な状態の現在」の叙述である。それは、次のような文例が表現するものであった。

・「眠ってますね、相変わらず。」「随分眠るな。もう十時間近く眠っている。」
・「ああ、いい風がくるね。」(鈴木、p29)

鈴木は、これらを「非アクチュアルな現在」の中に分類した。なぜなら、

このようなばあい、動きや変化は発言の瞬間にすでにおこったことか、現におこっていることであるが、これらの文は、主体の個々の動きや変化の実現をあらわしているのではなく、その質的、量的な側面を主体の属性として表現しているといえるであろう。そして、その属性は単に潜在的なものでなく、現に目のまえに顕在化している点で、コンスタントな属性の現在とことなっている。これをコンスタントな属性の変種とみるか、それから派生したものとみるかについてはなお検討を要する。(p29)

つまり、鈴木の見方では、このような文は、単にある出来事が起こったことを伝えるのではなく、出来事のもつ属性を伝えることに主眼がある。この側面において、「コンスタントな属性」を伝える文と共通する。従って「非アクチュアルな現在」のル形に分類可能である。

だが、「目のまえに顕在化している」ものの表現である限りで、「アクチュアルな現在」の表現である、という見方も可能だろう。つまり、このような表現は、「非アクチュアルな現在」と「アクチュアルな現在」にまたがる二重性を持つ、と捉えることができよう。注意すべきは「目のまえに顕在化している」という条件である。これは、「感覚によって把握された出来事の現在」が表現されていることを表わしていよう。

感情表出のル形文についても、この見方がヒントにならないだろうか。思い出したいのは、3. で見た、「〜の...がする」構文である。この構文は、対象の属性叙述にも、経験者の体験叙述(知覚の表出)にも使用された。ここにも、「非アクチュアル/アクチュアル」の二重性、二面性が存在する。そしてまた、「感覚」がここに関わっている。このような例のみならず、広く、感情表出文を、アクチュアルな現在の表現と属性叙述の二面性を備えた文と捉えることができるだろうか?

これ以上立ち入らないが、強調したいのは、「アクチュアルな現在」の表現に分類した感情表出動詞文と、「非アクチュアルな現在」に分類したⅡ属性叙述文との間に、上のようにつながり、中間例が認められることである。

そして、「一時的な状態の現在」の言表は、「~な」「〜ね」や「〜よ」といった対人的な機能をもつ終助詞となじみが良い。それは、感情表出動詞文にも共通する。

・「眠ってますね、相変わらず。」「随分眠る。もう十時間近く眠っている。」
・「ああ、いい風がくる。」
・そんなこと、困る
・うーん、その選択は迷うなあ

それは、その「現在」の表現が、間主観的な、確認や合意形成の機能を果たすからだろうか。

ⅠからⅦまでの用法の間の類似性、重複には、あらためて目を向けなければならないが、その最も重要なものの一つがここに現れている。

ここにとりあげた、「アクチュアルな現在の叙述(=事象叙述)/非アクチュアルな現在の叙述(=属性叙述)」という二重性を持った発話について、当ブログは、「体験の表現が非因果的説明(あるいは美学的説明)となる場合」と捉えて注目してきた(cf. 2021-06-07, 2021-06-08, 2021-10-25)。(その関心はウィトゲンシュタインのテクストを読むことに始まった。)少なくとも日本語においては、そのような発話が、変則的なテンス/アスペクト的特徴とともに存在することを確認できたと思う。

次は、Ⅶ可能態、自発態のル形を扱うが、そこから進めば、当ブログの関心をさらに裏打ちするような用例が見出されるはずである。