第四種動詞の周辺(11)

1.

Time of utterance(TU)を根本概念とすることの問題点は、手紙文を考えてみればわかりやすい。手書きの文章の例でもよいのだが、「音声年賀状」を例に取ろう。

A氏が、12月20日に「新年あけましておめでとうございます」と発話・録音し、クラウドストレージに上げる。

QRコードを生成し、はがきに印刷して、B氏に送る。その際、間違って一般郵便物の方に投函したので、年内の12月25日にB氏のもとに届いてしまう。

B氏は、はがきのQRコードからストレージ内の音声ファイルを再生し、「新年あけましておめでとうございます」というA氏の言葉をその日のうちに聞く。

「新年あけましておめでとうございます」は、既に定型化した あいさつ文であるが、ここでは敢えて、「年が改まった今はめでたい時分です」という意味の、真偽を問うことも可能な叙述文と見なしてみよう。

 

2.

「新年あけましておめでとうございます」という発話のTUはいつだろうか?

実際に音声が発せられた12/20だろうか?A氏が、その日に音声が再生されるのを意図していた翌年の1/1だろうか?それとも、B氏が実際に発話を聞いた12/25であろうか?

それとも、これは意図された通りに届いた発話ではないから、TUを問うのは意味がないのだろうか?

あるいは、意図した受信時以前に発信者が死んでしまった場合は、TUはどうなるのか?この世を去った者の「発話」が死後に行われる、でよいのか?......

このような問いについて一つ一つ考察する余裕はない。通常の叙述文でも、「遠隔地にいる相手の受信時刻を考慮して、テンスを調整した文章を録音・送信したが、ミスにより意図しなかった時刻に受信されてしまう」といった事態は想定可能である。その場合、TUを何時とみなすかは、発信時刻や受信時刻のみでは決まらないだろう。

 

3.

こうした問題を考慮した理論的システムも提案されている。

例えば、Huddleston&Pullum(以下H&Pと略す) によるThe Cambridge Grammar of the English Language では、ReichenbachやKlein に似ているが異なったテンス・アスペクトのモデルを採用している。これとKlein のものとを比較してみよう(cf. H&P,p125-7)。

まず、大まかには、H&Pの time reffered to(Tr) がKleinのTTに、time of the situation(Tsit) がTSitに対応する。そして、time of orientation(To)は、Trとの位置関係によって文のテンスを決定するエレメントであるが、通常はTUに一致する。

一方でH&Pは、TUに対応するものとして、deictic time(Td)を設けている。

これを説明するため、H&Pのように、”time of encoding ”と”time of decoding ”という概念を導入しよう。Toは、普通前者に当たるが、書き言葉では、後者に一致する場合がある。”Td”という概念は、この両方を共に表すものである。

[4] ⅰ I am writing this letter while the boys are at school. [Toは time of encoding]

     ⅱ You are now leaving West Berlin.[看板の表示]  [Toはtime of decoding]

 

通常の会話で、the time of encodingとthe time of decodingは一致するが、書き言葉では両者が異なることがあり得る。一致する場合には、Toは、[i]のように、the time of encoding、つまり書き手の時間に同定されるのがdefaultである。しかし、[ⅱ]の看板の例では、Toはthe time of decoding、すなわち受信者の時間である。だが、このような違いは何らかの形で言語学的に有標化されていない。deictic time という用語は、この双方のケースをカバーするものである。つまり、これらの言語的な出来事そのものを意味するのである。(H&P,p126)

このように、特に書き言葉の場合、time of encodingとtime of decodingの解離が露わになることがある。しかし、(上で「有標化されていない」と指摘されているように、)Bernard Comrieによれば、その2つの違いを文法や語彙に反映させた人類の言語は存在しない。

一方、時間に関して話し手と聞き手の時間的位置の相違は比較的最近の発明である文字の発明、またもっと最近の出来事である録音の発明によってはじめて可能になった。しかし、人類の言語は今でも話し手と聞き手にとっての時間的直示中心temporal deictic centreが同じであるとの仮定の下で使われている。「今」のための語彙が二つあり、一つは書き手が手紙を書いている瞬間を指し、もう一つは読者が判読する瞬間を指すような、またテンス体系の中にこの違いを特定するための区別を持っているような言語は明らかに存在しない。……手紙やそれに類するコミュニケーションで、直示中心を話し手か聞き手のどちらに置くべきかについて規則ができている文化もあるが、それは言語の文法には影響を与えていない。(Comrie, Tense, p15-6, 久保訳p22)

この背後には、次のような、よく指摘される、素朴な同時性の仮定が支えとしてあるのだろう。

一般的に、時間における現在点は話し手と聞き手の双方にとって同じであるが、空間では話し手と聞き手が別の位置にいて会話をすることが可能である(Comrie, p15、久保訳p21-2)

話し手の”ここ”は、必ずしも聞き手の”ここ”ではない。そのことは誰もが受け入れて言葉を使っている。しかし、それに対し、話し手の”今”と聞き手の”今”とは一致するはずだ、と通常考えられている。そして、物理学(特殊相対論)の世界とは対照的に、この「同時性」は絶対的である、と。ある時点が「現在」であることは、いかなる主体にも共通する。また、2つの事象が同時であるか否かは、全ての主体にとって等しく決定されている。それがわれわれの素朴な「実感」なのであろう。

この実感が、言語による社会的生活の過程で「構築」されたものであるのか、あるいは他の根拠を有しているのかは、また別の問題である。

 

戻って、時にToは、Tdとも一致しない。いわゆる相対テンスの場合である。

既に述べた通り、Toは通常、Tdに同定される。その場合、テンスはdeicticに解釈されている。ただし、常にそのように解釈されるわけではない。

[5] ⅰ If she beats him he'll claim she cheated.   [non-deictic past]

    ⅱ If you eat any more you'll say you don't want any tea. [non-deictic present]

cheatの過去形/doの現在形は、それぞれ、TrがToに先行すること、同時であることを表示している。だが、ここでのToがTdではないことは明らかである。(H&P,p126)

ⅰの発話に先立って彼女の行為があるわけではなく、Toは、彼の主張の時点である(もちろん、それらの行為、主張が現実として存在するかどうかは決まっていない)。ⅱにおいても同様に、Toは発話時ではない。

ToとTdを概念的に区別しなければならないのは、こういうわけである。両者は、通常一致するとはいえ、常に必然的に一致しなければならないわけではない。(ibid.,p126)

 

初めの「音声年賀状」の例に戻ってみよう。

time of encodingは、12/20、time of decoding は12/25である。いずれもdeictic timeと呼ばれる資格を持つ。しかし、話し手の意図からすれば、Toは、そのどれでもなく、1/1だと考えられる。この例を相対テンスと呼ぶかどうかは別として、To≠Tdの例になっている。

このように、H&Pのテンス・アスペクト システムは、Tr, Tsit, To, Td の4つを基本的概念とする。そして、必ずしもTo=Tdではない(あるいはTo=TUでない)ことが特徴であった。

しかし、これまで多くの論者が強調してきたように、一般的にテンスのシステムは、deicticな仕方で時間軸上に位置づける仕方を典型とするのではないのだろうか?

そうであるとしても、To=TUあるいはTo=Tdをテンスの本質と考える限り、数々の文の解釈はうまくゆかないだろう。

そして、引用文でH&Pも指摘しているように、話し言葉と書き言葉では、傾向が異なる。話し言葉では、To=Td=TUという、default解釈( phono-deictic 解釈、と呼んでおこう)の圧が極めて強いのである。