かたり / はなしあい

1.

前々回まで見てきたように、~タと~テイルには、文の中で互いに交替してもその意味が損なわれないような、共同の領域が存在する。テイルの「過去的用法」(井上優)と呼ばれる領域がそれである。

次のような例が挙げられよう。

「このところ世界各国で著名人が相次いでなくなっていますが、日本では、現代を代表する作曲家の一人である武満徹氏がさる2月20日になくなりました / なくなっています。」(cf. 井上優「現代日本語の「タ」」, p115-6)

 

上のように一つの文を抜き出してみればシタでもシテイルでも許容されるものの、その文が属するテクストにおいては、どちらか一方が適切な表現となる、という場合があるだろう(上の図は便宜上のもので、その辺りのことまでは表していない)。実際の言語使用において、どちらかの形が選好されるとすれば、それには理由があると思われる。以前見たように、井上によれば、テクストの「統括主題」に従属させて叙述するという条件が、テイル形を選ぶ理由の一つである。

あるいは、そのような条件が曖昧で、タでもテイルでも構わない、という場合も存在するであろう。

そのようにテクストの構造(叙述の構造)が、アスペクトの選択に影響する。

 

かって取り上げたヴァインリヒの<前景の時制/背景の時制>という対立が、テクストの構造とアスペクト・テンスの関連に関わる概念であったことを思い出しておきたい。

前景の時制/背景の時制、という彼が指摘した対立は、一つの言語の時制における対立であり、その典型例は、フランス語における、単純過去/半過去の対比である。

(※ここでは「時制Tempus」でなく「アスペクト」を用いるべきであるかも知れないが、ヴァインリヒの用語に従う。)

彼の著書『時制論』(Harald Weinrich, Tempus )によれば、この対立的な2つの時制は、物語に対する 浮き彫り付与Reliefgebung の機能をし、物語をくり返し前景/背景に分ける。『時制論』でその考証に挙げられる言語は、フランス語、英語から、スペイン語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語他におよび、当ブログにはフォロー不可能な幅の広さである。

ともかく、彼はこの対立を、多言語に横断的に認められる現象と捉えた。日本語の<タ / テイル(過去的用法)>の対立も、<前景の時制 / 背景の時制>という対立の一部として捉えることができよう。

ただし、諸言語の間で、見逃せない差異も存在する可能性がある。例えば、井上優「現代日本語の「タ」」では、日本語と韓国語との間で、「タ」や「テイル」に相当する語の使用条件が異なっていることが指摘されている(p157-8)。

 

2.

ヴァインリヒは『時制論』で、この対立とは別の、時制における対立についても語っている。

それが、<時制群Ⅰ/時制群Ⅱ>の対立であり、この2つは、<besprechend Tempus/erzählend Tempus>とも呼ばれ、日本語の訳書では<説明の時制/語りの時制>と訳されている。しかし、以前指摘したように、besprechen≒discussであり、例えば<会話の時制/物語りの時制>と訳する方がより適切かと思われる。時制群Ⅰが優位にあるテクストは「会話のテクスト」、時制群Ⅱが優位を占めるテクストは「物語りのテクスト」と呼ばれる(ヴァインリヒ『時制論』、脇坂他訳、p20)。

この対立の発想が、バンヴェニストの言表行為における対立、discours/histoire(「フランス語動詞における時制の関係」)に基づいていることは、ヴァインリヒ本人の記述からも推察される(同書、p321)。

このバンヴェニストの概念は、例えば工藤真由美を通して、日本語のアスペクト研究にも大きな影響を及ぼしている(工藤、『アスペクト・テンス体系とテクスト』)。工藤においては、この対立は、<はなしあいのテクスト/かたりのテクスト>の対立として現れている(同書、p19-20)。

ヴァインリヒやバンヴェニストでは、Besprechen/Erzahlen,あるいはdiscours/histore, それぞれに固有の時制が属する、とされる(2つの領域で重複も存在する)。時制の対立は、これらのテクスト(言表行為)における対立に根ざしたものと見ることができる。

ただし、両者における、対立する時制の割り振りにはかなりの食い違いが存在する。

ここでは、バンヴェニストにおける<discours/histoire>とヴァインリヒの<Besprechen/Erzahlen>、および工藤の<はなしあい/ かたり>、三者の異同の問題には立ち入らない。

 

今後、工藤に倣って、<はなしあい/かたり>という対比的概念を用いて話を進める。

工藤は、これをどのように特徴づけているか。

人間の基本的言語活動(言語の実際的使用行為)は、発話主体(1人称者)が、相手(2人称者)にむかってはなしかけることにある。そして、3人称者とは、この発話行為の場のそとにある、非人称者(発話対象者)である。

言語活動は、このような人称構造の分極化と同時に、発話行為時を基準軸とする<未来ー現在ー過去>の時間的分極性もそなえる。......

 人称構造も時間構造も、常に、<発話主体による発話行為の現存場>への指向性をもっている。......

我々の言語の実際的使用とは、わたしーあなた関係における発話行為の現存時への、アクチュアルな指向性によって成り立つものである。これを、<はなしあい>のテクストと呼ぶことにしよう。はなしあいとは、人称と時間の2つを統一してなりたっていると思われる。

しかしながら、我々は、いつでも、このようなかたちで、言語の実際的使用を行うであろうか?次のようなメッセージ(テクスト)に対面した時、我々は、はなしあいに参加するときとは、全く異なる態度(スタンス)で、読者となる。夏目漱石『門』の冒頭部分である。

宗助は先刻から縁側へ座布団を持ち出して、日当たりの好さそうな所へ気楽に胡坐  をかいてみたが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。

「先刻から(さっきから)」を、発話主体(書き手)漱石の、執筆行為時に関係づけて、理解しようとする読者はいない。このテクストは、人称的にも時間的にも、現実の発話行為の場へのアクチュアルな関係づけなしに、成り立っている。……

このように、人称的にも時間的にも、現実の発話行為の場へのアクチュアルな指向性のないテクストを、<かたり>のテクストと呼んでおこう。(工藤、p19-20)

 

テンス形式の使用にあたって、現実の発話行為時が基準軸として機能する場合と機能しない場合があるとすれば、<現実の発話行為の場へのアクチュアルな関係づけの有無>の観点から、テクストのタイプを大きく2分類しなければならない。最も基本的な発話行為である日常会話の本質的特徴である、発話行為の場へアクチュアルに関係づけられたテクストのタイプを、<はなしあい>と呼んでおこう。そして、小説の地の文にみられる、発話行為の場へのアクチュアルな関係づけがない、特別なテクストのタイプを、<かたり>と呼ぶことにしよう。(工藤、p167)

このように、工藤における<かたり>のテクストの典型は、小説(フィクション)の地の文、であった。ただし、当ブログでは、今後必ずしも工藤の示すラインにそって分類してゆくとは限らない。ただ、ここで細かく内容を詰めずに、さしあたっては上のような大まかな把握で良しとしておこう。

 

3.

ここで、上述の<タ / テイル(過去的用法)>の共同の領域について、どちらで述べるべきかを決定する要因について少し整理してみたい。その要因は単一ではなく、複数のものが絡み合う可能性がある。使い分けに影響するであろう諸条件について、まず相互の干渉は度外視して、書き出してみる。

 

A. 出来事同士の継起性/同時性と、テクストの叙述構造

B. 文脈的環境:「統括主題」に従属させて述べるか否か

C. 話し手の条件:タ形で述べるための条件

D. 聞き手の条件:井上の指摘

E. テクストの性格:かたり / はなしあい

 

A.は、ヤーコブソンがタクシスTaxisと呼んだもの、すなわち「テクストを構成する複数の出来事間の時間関係(の表現)」に関る。(cf. 工藤真由美『アスペクト・テンス体系とテクスト』p21~)

タクシスは、叙述された出来事を、他の叙述された出来事との関係において性格づけるが、それを発話という出来事に関係づけることなしに行う。(同書における引用(p21)から訳す。)

テクストは、それを単純に、過去から未来へと向かう、直線的な継起関係として表現するとは限らない。時には過去に遡り、そこから少し進んで、またさらに昔へ遡り、そして遠い未来に飛躍する、等...。中でも、テクストにおける「遡り」の機能に活躍するのが、パーフェクトである。

普通、テクストにおいては、出来事は時間的に起こった順序に従ってiconicにうつしとってのべられていく。従って、スルーシテイルの基本的アスペクト対立でしめされる、時間的継起性と同時性とで基本的には十分であるといえよう。… しかし、次のように、実際の生起順序に従わずに、生起順序をいれかえて記述する場合には、<パーフェクト>が必要とされてくるのである。… こうしてテクストの時間構造は、シタが表す<完成性=継起・前進性>と、シテイタが表す<継続性=同時性>を基本的骨組としつつ、さらに、シテイタが表す<パーフェクト性=一時後退性(フラッシュバック性)>がつけくわわって立体的に構成されていくといえよう。(同書、p113-4)

工藤はさらに、シテイルが、原因理由の説明という論理的なテクスト的機能とも結びつく場合があることを指摘する(同書、p142-5)。(これについては、以前軽く取り上げた。また、ここでもフランス語の半過去との類比が気になる。)そのようなシテイルは、記録用法に属するシテイルの一部をも含み、B. の条件とも絡みあってくる。

B.〜D.は、前回までに出てきた話題であるため、ここでは触れない。

 

では、E. の条件は、どのように影響を及ぼすのか?

それを明らかにするためには、さらなる”迂回”が必要である。

 

4.

これまで、日本語のテイル形の機能を、寺村秀夫の示唆に従って、ある事態を、より大きな事態の一部として解釈する、あるいは別の事態との対比によって解釈する、という、「解釈の機能」を中心に捉える可能性を追求してきた。

「別の事態との対比によって解釈する」のは、(金田一春彦の)第四種動詞の場合であった。しかし、そこでの「解釈」を、部分‐全体関係による「解釈」と一緒にしてよいのか、という問題が残っていた。

この疑問は、第四種動詞が、一般的な原則から外れて、ル形で用いられる場合があることによって補強されよう。その場合も、一見、テイル形で用いられるばあいと意味に差はないように思われる。従って、第四種動詞の場合、「解釈の機能」をテイル形のみの特質とすることはできないように見えるのだ。

次回では、第四種動詞における<ル形/ テイル形>の対立を取り上げてゆく。それが上の E. の問題と結びついていることを示すことが目標の一つである。

しかし、さらに大事なことは、この対立を形づくる要因は単純なものではないことである。第四種動詞のル形での使用を可能にするものとして、E.の他に、属性叙述への使用という条件も存在する(cf. 三原健一『日本語構文大全Ⅰ』、第8章)。

 

日本語の動詞の使用規則として、動作動詞(動態動詞)においては、ル形は未来の事象を表し、現在の事象を表すにはテイル形を用いる、という原則がある。ただし、この原則に従わない使用も多数見られ、その中の多くが、属性叙述の場合か、あるいは心理的動詞の使用に関わっていることが知られる(cf. 鈴木重幸、「現代日本語の動詞のテンス」)。

そこで、”アスペクト知覚は、なぜウィトゲンシュタインにとって問題となるのか(続き)”で扱った、「見る」 の用法を思い起こしてみよう。「私は、この2つの顔に類似を見ます」において、通常の使用とは異なって、「見る」のル形(ここでは「見ます」)が、現在の事象を述べるのに使われているように見える。注意すれば、ここでの「見る(見ます)」の使用は、当に、属性叙述(「この2つの顔」の「類似」)と心理的動詞(「見る」)という、2つの条件に関わっていることに気づくだろう。

 

心理的概念の時間的様態という問題が、後期ウィトゲンシュタインにおける主要テーマの一つであったことに、当ブログは一貫して注目してきた(cf. ”心理的概念のアスペクト”)。言うまでもなく、アスペクトの条件は、テンスや時間的副詞句との共起関係と共に、心理的述語の使用条件を基本的レベルで決定する。

また、属性叙述の問題は、これまで繰り返し取り上げてきた、ウィトゲンシュタインゆかりの文法的命題や美学的説明の問題と深く関連する。

して見れば、当ブログは、これまで何度も訪れた”交点”に、再び回帰してゆくことになるわけである。