ムーアのパラドクス

言語学との関連について、いくつか

1. 進行相への当ブログの関心は、ウィトゲンシュタインのテクストから直接に喚起されたものではなく、いわゆる「行為の哲学」への関心を介して得られたものだった。 よく知られるように、動詞のアスペクトの問題は、アリストテレスにおける「デュナミス(可…

表出のディレンマ おまけ

「信ずる」「願う」「欲する」といった動詞が、「切る」「噛む」「走る」といった動詞もまたとるような文法的形態をすべて示すことを、自明のこととは見なさず、何かきわめて奇妙なことと見なせ。(PPF93 藤本隆志訳) もちろん、ウィトゲンシュタインは、「…

表出のディレンマ(2)

1. 前回、「信じる」「痛みを感じる」の全体的意味をどのようにとらえるのか、と言う問題が残された。 ウィトゲンシュタインは、前回引用したRPPⅠ479やLWⅠ899において、「痛みを感じる」の使用の変化について語っている。注意すべきことに、それは「痛み」と…

表出のディレンマ(1)

1. 「現象」と「指し手」 - 迷光録 の続き。「表出」という概念を持ち出すことに対する、別の有名な異議について。 「かりに私が痛みを感じるとしたら・・・」-これは痛みの表現Schmerzäußerungではなく、したがって痛みを表す振舞いでもない。「痛み」とい…

「現象」と「指し手」

1.「表出」「叫び」、「記述」「報告」。ウィトゲンシュタインによるこれらの概念の使用が 曖昧で明確さに欠ける、という批判には 「確かに」と言わざるを得ない。だが、それ以前に、根本的な異議が唱えられるかもしれない。 「かりに私が痛みを感じるとし…

記述に留まる

1.以前、「語られることと示されること」という『論考』の主題のその後について触れたが、他方で、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(TLP 7)という有名なテーゼに込められたものは、後期の思想において、「説明の断念」という姿勢へと継承…