1.
前回に続いて、問題の動詞文が成り立つ条件について見てゆく。ル形が現在の事象を表すような可能表現の種類は多岐にわたるが、ここでは当ブログの関心から、可能態(可能形)中心に見てゆき、それとの絡みで自発態に触れたい。
まず、動詞が可能態(可能形)をとるための語彙的条件がある。それは、その動詞が意志的な動作を表す、ということである。
例えば、次のような、非意志的な動きを表す動詞は、可能態をとらない。
(雨が)降る、(人、物が)落ちる、(木が)倒れる、(事故が)起こる、消える
非意志的な動詞は、「~得る」の形で可能を表すことができる。ただし、硬く不自然な表現となるものもあるだろう。
その種の事故は、稀ながら、起こり得る。
乾季でも、少量の雨は降り得る。
ちょっとした振動で、その棚から物が落ち得る。(少し不自然?)
トンビから鷹は生まれ得ない。
もう一つ、可能態を取り難いのは、次のような、心理的な動詞である。(cf. 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p265)
好む、嫌う、惜しむ、妬む、懐かしむ、しのぶetc.
前回見た、山岡が「自発態」を認めた動詞群に、部分的に重複することに注意。(cf. 山岡政紀「可能動詞の語彙と文法的特徴」p9)。
思い出す、思う、しのぶ、惜しむ、感じる、考える、悔やむetc.
故郷が思い出される。
今になって、あの時の言動が悔やまれる。
「部分的に」であるのは、自発態をとる動詞には「思い出す」「思う」のような、可能態を取り得る動詞も含まれていたからである。また、可能態をとらない心理的動詞すべてが「自発態」(これらの場合、形態的には受動態と一致。前回を参照)をとる訳でもない。「好む」「嫌う」の受動態は受身文として使用され、普通、自発の表現とは見なされない。
お年寄りには濃い味付けが好まれる。
自分勝手な人間は嫌われる。
以上の心理的動詞は、「愛する」「憎む」「尊敬する」「軽蔑する」といった、可能表現が可能な心理的動詞とはどう違うのか?
どちらもある対象を目ざしての心の動きであり、感情主体から対象に視点をうつして、対象の側から事柄を描きなおすことができる点も共通している。違う点はといえば、「愛憎」類では感情主が主体的に、ある何らかの理由で、ある感情を対象に対して抱くのであるのに対し、「好キ嫌イ」の類は、対象に触発された、自然な心理的反応で、しいて理由を言えと言われても言いようがない、といった意味で、主体的とはいえない心の動きという点かと思われる。(寺村秀夫、p265)
つまり、ここでも広い意味での意志性の有無が事態をわける、と言えよう。「好き」や「嫌い」といった感情は、いわば「自発的に」生ずるのである。
ここに挙げた非意志的な心理的動詞の内で、自発態の有無を分ける要因については、今は立ち入らない。また、意志性の程度については各動詞間で差があるだろうが、それにも立ち入らない。
大まかなイメージとして、次のように言えるだろう。非意志的な、①動作の動詞、②心理的動詞は可能態を取らず、②の一部が(受動態と同じ形態を用いて)自発の構文を取ることができる。
2.
可能態の文の項、格の構造について、見てゆく。
動作主が明示された可能態の文には、それに対応する「基本態」の文が存在する。(これを「可能態文の元の文」と呼んでおく。)
太郎には、フランス語が話せる。(可能態)
太郎が、フランス語を話す。(元の文)
可能態文が他動詞の場合、元になる文からの<格の移動>を伴うものと、伴わないものとがある。
a. 太郎には、フランス語が話せる。(ヲ格⇒ガ格、ガ格⇒ニ格)
b. 太郎が、フランス語が話せる。(ヲ格⇒ガ格)
c. 太郎が、フランス語を話せる。(移動なし)
実際には、b. ,c. の太郎は主題化されて、「太郎は」になることが多いだろう。
自動詞であれば、格の移動はない。
太郎が、海で泳ぐ。(元の文)
太郎は、海で泳げる。(可能態の文。ガ格をハで代行)
もう一つ、a.型の文で、一般化された動作主格が文の表層から消えて、対象格が主題化されるものがある。
この草はそのままで食べられる。(⇐[人間には]この草がそのままで食べられる。)
すなわち、この文の動作主をあえて挙げるなら、一般的な「人間」である、と考えられる。
このような文は、通常、対象の属性叙述に使用される。また、形態上は、自動詞の可能表現に一致するが、ガ格(ハで代行)の表すものが、動作主か対象かという違いがある。
d. この患者はもう、食べられる。(動作主)
e. この草は普通に食べられる。(対象)
寺村は、d.のタイプを「能動的可能表現」、e.のタイプを「受動的可能表現」と名付けた(寺村、p259)。
なお、以前、<Ⅱ属性叙述>で、やはり動作主格が脱落した、次のような属性叙述文を見ておいた(2024-01-14)。
酒は米からつくります。
このおもちゃは電池でうごかします。
これらは、それぞれ、受動態を用いて、
酒は米からつくられます。
このおもちゃは電池でうごかされます。
と、受動態で表すこともできるが。
酒は米からつくれます。
このおもちゃは電池でうごかせます。
と、「受動的可能表現」を使用することもでき、いずれも似通った意味で用いられる。
これらの属性叙述文は、有題化、動作主格の一般化と脱落、ル形での現在表現、といった共通点を持つ。
3.
自発態について。(当ブログが自発態として扱う範囲については、前回を参照。)
自発態をとる動詞には、基本態においてル形で現在を表せない動詞(「見る」「しのぶ」etc.)、表せる動詞(「(…と)考える」「(...と)思う」etc.)の2種類がある。表せる場合には、例の人称制限が課される。そのようなル形文を、当ブログは、<Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出>に分類した。
私は、ここでSLが走るのを見る。(未来)
私は、SLが走るのを見ている。(現在)
私は、彼女が犯人だと思う。(現在、Ⅵの例)
君は、彼女が犯人だと思うか?(現在、疑問文でのⅥの例)
彼は、彼女が犯人だと*思う/ 思っている。(現在)
ここで謂う自発態には次のような特徴がある。通常、経験者格が一人称の場合に限られ(人称制限)、その経験者格は、文の表層から脱落する。ただし、「見える」「聞こえる」「感じられる」「思われる」etc.は、経験者格「私には」を表示することも可能である。ル形で現在の事象を表すが、タ形で過去を表すこともできる。
・私は、亡き姉のことをしのんでいる。(基本態、現在)
・f. 亡き姉のことが、しのばれる/しのばれた。(自発態、<経験者格>は、話者である「私」)
・私は、向こうに人影を見ている。
・g. (私には)向こうに人影が見える/見えた。(自発態)
・私は、彼女は本当のことを言っていると思う。
・h. (私には)彼女は本当のことを言っていると思われる/思われた。(自発態)
私は、亡き姉のことをしのんだ。亡き姉のことがしのばれた。(経験者は「私」)
構文的に重要なのは、「内容格」をとる場合である。山岡は、認知内容を表す名詞句や補文節の意味役割を「内容格 Content」と呼ぶ。(cf. 山岡、p13。下の例文の下線部が内容格にあたる)。
私は、彼が殺したと考える。(基本態)
彼が殺したと考えられる。(自発態)
彼が殺したように見える。
あの山際が、紫に見える。
基本態や自発態で内容格をとる動詞には、「思う」「考える」「見る」「聞く」等がある。その他に、「言える」「わかる」等の可能的動詞も内容格をとる。
明らかに、彼女が殺したと言える。
今では、彼女が殺したとわかる。
山岡の「内容格」は、益岡隆志が『命題の文法』で、「副詞的補足語」の内の「引用語」と呼んだものに相当する(cf. 益岡、同書 p91~)。「内容格」の問題は、当ブログにとっても重要なものであり、改めて取り上げる。
4.
可能態とテイル形の問題について。
この図形は、一筆で書ける/*書けている。
うちの弟、最近は、学校に行けているよ。
○○選手、不調だった去年とは違って、いいフォームで走れています。
このレポートはよく書けていますね。
あの写真、きれいに写せてたね。
(庵功雄他、『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 p177)
太郎は最近原稿がすらすら書けているらしい。(反復)
太郎は、一度100メートル10秒台で走れている。(履歴)
(渋谷勝己、「日本語可能表現の諸相と発展」p18)
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てた。
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てていた。
5.
自発態とテイル形について。
ここで自発態に分類するものには、テイル形と共起するもの、しないものがある。
しない場合でも、自発態が可能形や受動態と形態を共有する場合、文の解釈によって、テイル形が許容される場合がある。
箱の破れた部分から、中身が見える/見えている。(自発)
かすかな音が聞こえます/聞こえています。(自発)
私は、その音が聞こえる/聞こえている。(実現された可能)
彼が犯人と思われる。(自発)
彼が犯人と思われている。(自発では×、受身なら〇)
彼女の早世が惜しまれる。(自発)
彼女の早世が惜しまれている。(受身で○)
ただ、そもそも「見える」「思われる」等の動詞における、受身/可能/自発の区別は、曖昧な場合が存在する。ゆえに問題は自発/受身/可能の解釈と絡み、単純ではないので、ここではこれ以上立ち入らないが、機会があれば取り上げたい。