動態動詞ル形の用法について(11)

1.

前回に続いて、問題の動詞文が成り立つ条件について見てゆく。ル形が現在の事象を表すような可能表現の種類は多岐にわたるが、ここでは当ブログの関心から、可能態(可能形)中心に見てゆき、それとの絡みで自発態に触れたい。

まず、動詞が可能態(可能形)をとるための語彙的条件がある。それは、その動詞が意志的な動作を表す、ということである。

例えば、次のような、非意志的な動きを表す動詞は、可能態をとらない。

(雨が)降る、(人、物が)落ちる、(木が)倒れる、(事故が)起こる、消える

非意志的な動詞は、「~得る」の形で可能を表すことができる。ただし、硬く不自然な表現となるものもあるだろう。

その種の事故は、稀ながら、起こり得る

乾季でも、少量の雨は降り得る

ちょっとした振動で、その棚から物が落ち得る。(少し不自然?)

トンビから鷹は生まれ得ない

 

もう一つ、可能態を取り難いのは、次のような、心理的な動詞である。(cf. 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』p265)

好む、嫌う、惜しむ、妬む、懐かしむ、しのぶetc.

前回見た、山岡が「自発態」を認めた動詞群に、部分的に重複することに注意。(cf. 山岡政紀「可能動詞の語彙と文法的特徴」p9)。

思い出す、思う、しのぶ、惜しむ、感じる、考える、悔やむetc.

故郷が思い出される

今になって、あの時の言動が悔やまれる

「部分的に」であるのは、自発態をとる動詞には「思い出す」「思う」のような、可能態を取り得る動詞も含まれていたからである。また、可能態をとらない心理的動詞すべてが「自発態」(これらの場合、形態的には受動態と一致。前回を参照)をとる訳でもない。「好む」「嫌う」の受動態は受身文として使用され、普通、自発の表現とは見なされない。

お年寄りには濃い味付けが好まれる

自分勝手な人間は嫌われる

 

以上の心理的動詞は、「愛する」「憎む」「尊敬する」「軽蔑する」といった、可能表現が可能な心理的動詞とはどう違うのか?

どちらもある対象を目ざしての心の動きであり、感情主体から対象に視点をうつして、対象の側から事柄を描きなおすことができる点も共通している。違う点はといえば、「愛憎」類では感情主が主体的に、ある何らかの理由で、ある感情を対象に対して抱くのであるのに対し、「好キ嫌イ」の類は、対象に触発された、自然な心理的反応で、しいて理由を言えと言われても言いようがない、といった意味で、主体的とはいえない心の動きという点かと思われる。(寺村秀夫、p265)

つまり、ここでも広い意味での意志性の有無が事態をわける、と言えよう。「好き」や「嫌い」といった感情は、いわば「自発的に」生ずるのである。

ここに挙げた非意志的な心理的動詞の内で、自発態の有無を分ける要因については、今は立ち入らない。また、意志性の程度については各動詞間で差があるだろうが、それにも立ち入らない。

大まかなイメージとして、次のように言えるだろう。非意志的な、①動作の動詞、②心理的動詞は可能態を取らず、②の一部が(受動態と同じ形態を用いて)自発の構文を取ることができる。

 

2.

可能態の文の項、格の構造について、見てゆく。

動作主が明示された可能態の文には、それに対応する「基本態」の文が存在する。(これを「可能態文の元の文」と呼んでおく。)

太郎には、フランス語話せる。(可能態)

太郎、フランス語話す。(元の文)

可能態文が他動詞の場合、元になる文からの<格の移動>を伴うものと、伴わないものとがある。

a. 太郎には、フランス語話せる。(ヲ格⇒ガ格、ガ格⇒ニ格)

b. 太郎、フランス語話せる。(ヲ格⇒ガ格)

c. 太郎、フランス語話せる。(移動なし)

実際には、b. ,c. の太郎は主題化されて、「太郎」になることが多いだろう。

自動詞であれば、格の移動はない。

太郎、海泳ぐ。(元の文)

太郎、海泳げる。(可能態の文。ガ格をハで代行)

もう一つ、a.型の文で、一般化された動作主格が文の表層から消えて、対象格が主題化されるものがある。

この草そのままで食べられる。(⇐[人間には]この草そのままで食べられる。)

すなわち、この文の動作主をあえて挙げるなら、一般的な「人間」である、と考えられる。

このような文は、通常、対象の属性叙述に使用される。また、形態上は、自動詞の可能表現に一致するが、ガ格(ハで代行)の表すものが、動作主か対象かという違いがある。

d. この患者はもう、食べられる。(動作主)

e. この草は普通に食べられる。(対象)

寺村は、d.のタイプを「能動的可能表現」、e.のタイプを「受動的可能表現」と名付けた(寺村、p259)。

なお、以前、<Ⅱ属性叙述>で、やはり動作主格が脱落した、次のような属性叙述文を見ておいた(2024-01-14)。

酒は米からつくります

このおもちゃは電池でうごかします

これらは、それぞれ、受動態を用いて、

酒は米からつくられます

このおもちゃは電池でうごかされます

と、受動態で表すこともできるが。

酒は米からつくれます

このおもちゃは電池でうごかせます

と、「受動的可能表現」を使用することもでき、いずれも似通った意味で用いられる。

これらの属性叙述文は、有題化、動作主格の一般化と脱落、ル形での現在表現、といった共通点を持つ。

 

3.

自発態について。(当ブログが自発態として扱う範囲については、前回を参照。)

自発態をとる動詞には、基本態においてル形で現在を表せない動詞(「見る」「しのぶ」etc.)、表せる動詞(「(…と)考える」「(...と)思う」etc.)の2種類がある。表せる場合には、例の人称制限が課される。そのようなル形文を、当ブログは、<Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出>に分類した。

私は、ここでSLが走るのを見る。(未来)

私は、SLが走るのを見ている。(現在)

私は、彼女が犯人だと思う。(現在、Ⅵの例)

君は、彼女が犯人だと思うか?(現在、疑問文でのⅥの例)

彼は、彼女が犯人だと*思う/ 思っている。(現在)

ここで謂う自発態には次のような特徴がある。通常、経験者格が一人称の場合に限られ(人称制限)、その経験者格は、文の表層から脱落する。ただし、「見える」「聞こえる」「感じられる」「思われる」etc.は、経験者格「私には」を表示することも可能である。ル形で現在の事象を表すが、タ形で過去を表すこともできる。

・私は、亡き姉のことをしのんでいる。(基本態、現在)

・f. 亡き姉のことが、しのばれる/しのばれた。(自発態、<経験者格>は、話者である「私」)

・私は、向こうに人影を見ている

・g. (私には)向こうに人影が見える/見えた。(自発態)

・私は、彼女は本当のことを言っていると思う

・h. (私には)彼女は本当のことを言っていると思われる/思われた。(自発態)

f.,g.,h.のル形文を、当ブログは、<Ⅶ 可能態、自発態>に分類する。しかし、<Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出>に分類することも可能である。人称制限の特徴も共通している。
 
自発態の場合、普通、対象格は主題化されずに現れる。
私は、亡き姉のことしのんだ。
亡き姉のことがしのばれた。(経験者は「私」)

構文的に重要なのは、「内容格」をとる場合である。山岡は、認知内容を表す名詞句や補文節の意味役割を「内容格 Content」と呼ぶ。(cf. 山岡、p13。下の例文の下線部が内容格にあたる)。

私は、彼が殺したと考える。(基本態)

彼が殺したと考えられる。(自発態)

彼が殺したように見える。

あの山際が、紫に見える。

基本態や自発態で内容格をとる動詞には、「思う」「考える」「見る」「聞く」等がある。その他に、「言える」「わかる」等の可能的動詞も内容格をとる。

明らかに、彼女が殺したと言える。

今では、彼女が殺したとわかる。

山岡の「内容格」は、益岡隆志が『命題の文法』で、「副詞的補足語」の内の「引用語」と呼んだものに相当する(cf. 益岡、同書 p91~)。「内容格」の問題は、当ブログにとっても重要なものであり、改めて取り上げる。

 

4.

可能態とテイル形の問題について。

可能態は、アスペクト的には状態動詞であるため、テイル形はとらない、としばしば言われる。確かに、次のような文では、テイル形は用いられない。
この図形は、一筆で書ける/*書けている。
しかし、可能態が「実現された可能」を表す場合には、テイル形が用いられておかしくない。
うちの弟、最近は、学校に行けているよ。
○○選手、不調だった去年とは違って、いいフォームで走れています
変化動詞のテイル形が結果存続を表すことから、「実現された可能」のバリエーションとして、動作の結果を対象の性状として捉える、次のような文が生まれる。
このレポートはよく書けていますね。
あの写真、きれいに写せてたね。
(庵功雄他、『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 p177)
また、テイル形の様々な機能から、次のような文も可能になる。
太郎は最近原稿がすらすら書けているらしい。(反復)
太郎は、一度100メートル10秒台で走れている。(履歴)
(渋谷勝己、「日本語可能表現の諸相と発展」p18)
ところで、「実現された可能」の表現ではない、「潜在的な可能」を表す場合にも、一時的な状態の表現としての<可能態+テイル形>の文が作れないだろうか?下のような例を考えてみれば、作れると考えたくなる。だが、反事実的条件文に関する問題も絡むため、今は保留しておきたい。
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てた
対戦は実現しなかったが、亡くなる直前の○○選手なら、××選手にも勝てていた
「実現された可能」と「潜在的な可能」との関係についても、様々な問いが生じるが、ここではこれ以上追究しない。(cf. 渋谷勝己、前掲論文、第Ⅰ部、2. )
(ついでに、ウィトゲンシュタインが『茶色本』で、可能の表現を用いる様々な言語ゲームを想像し、その多様性について考察していたことも思い出しておきたい。cf. BBB,p100~)

 

5.

自発態とテイル形について。

ここで自発態に分類するものには、テイル形と共起するもの、しないものがある。

しない場合でも、自発態が可能形や受動態と形態を共有する場合、文の解釈によって、テイル形が許容される場合がある。

箱の破れた部分から、中身が見える/見えている。(自発)

かすかな音が聞こえます/聞こえています。(自発)

私は、その音が聞こえる/聞こえている。(実現された可能)

彼が犯人と思われる。(自発)

彼が犯人と思われている。(自発では×、受身なら〇)

彼女の早世が惜しまれる。(自発)

彼女の早世が惜しまれている。(受身で○)

ただ、そもそも「見える」「思われる」等の動詞における、受身/可能/自発の区別は、曖昧な場合が存在する。ゆえに問題は自発/受身/可能の解釈と絡み、単純ではないので、ここではこれ以上立ち入らないが、機会があれば取り上げたい。