「説明」の周辺(10):後期ウィトゲンシュタインとカント

1.

ウィトゲンシュタインの「美学に関する講義」の内容について、いくつか確認する。

彼が講義で述べた内容は、大学の人文系学部で研究されているような「美学」に類似したものではなかった。

むしろ、それは、「美」に関連して行われる日常的な言語ゲーム(とりあえず美学的反応、美学的判断の表出、美学的評価、などと呼んでおく)に関する考察、であった。

ただし、そのような言語ゲームにも、それについて語られる対象(「それが何について話されているか」)があるはずである。

そこで、彼の「美学に関する講義」について、次の3つの側面から見てゆきたい。

①美学的対象

②美学的反応

③美学的説明

だがその前に、カントとの比較について、一言添えておいた方がよいだろう。

 

2.

誰であるにせよ、「美学」についてある哲学者が述べたことを説明する際、カントが比較に持ち出されることは通例であろう。

残念ながら、筆者の不勉強により、カントとのまともな比較は困難だが、せめて次のことは頭の隅に置いておくつもりである。

 

判断力批判』における、<規定的判断力>vs.<反省的判断力>という対概念は、後期ウィトゲンシュタインの「数学の基礎」論、規則遵守論、美学に関する考察、アスペクト知覚論 のすべてに関連させることができるだろう。

判断力とは一般に、特殊者を普遍者にふくまれたものとして考える能力である。いま普遍者(規則、原理、法則)が与えられていれば、特殊者をその普遍者のもとに包摂する判断力は(判断力が先験的判断力としてただそれにかなってのみ普遍者への包摂が可能であるところの諸制約を先天的に挙述するときでも)規定的bestimmendである。しかし与えられているのが単に特殊者であり、その特殊者に対し判断力が普遍者を求むべき場合には、判断力は単に反省的reflektierendである。(カント、『判断力批判』第二序論4、坂田徳男訳)

「与えられているのが単に特殊者であり、その特殊者に対し判断力が普遍者を求むべき場合」とはどのような場合か?

ウィトゲンシュタインの読者であれば容易に思いつくのが、与えられた有限の数列から続きの数列を書いてゆく例である。(『探究Ⅰ』§143~、『数学の基礎講義』p59、邦訳p103、cf.『心理学の哲学Ⅱ』§400~)

その場合、彼は<規則の適用を推測したerraten>のではなく、それを作り出しerfindenたのだ、と考えることもできるだろう。(RPPⅡ411, 野家啓一訳)

 

カントの2つの判断力(規定的判断力、反省的判断力)の議論は、ウィトゲンシュタインの「2つの使用」の議論と比較可能である、ようにみえる。

カントが判断力の種別的な?違いとして捉えたものを、ウィトゲンシュタインはいつものように、言語使用の差異という観点からみる。

ただし、問題となる言語使用が、カントにおいては 個別者に対する「判断」であるのに対し、ウィトゲンシュタインにおいては、「計算」や「証明」が中心となる違いがある。

ウィトゲンシュタインが例えば「証明」について、「規則創出」「概念改変」的な視点からみていたことを確認すべきである。(その一例として、正十七角形の作図と「概念形成」の問題についての『数学の基礎講義』を参照のこと。)

「2つの判断力の違い」という問題を、言語使用の違い という問題構成に変換することは、何をもたらすのか。

 

当ブログでは、「2つの使用」の問題を後期ウィトゲンシュタインの中心問題の一つと捉え、様々な角度から接近を試みてきた。「美学」の問題に触れることも、その途上にある。

 

3.

もう一つ、次のことも大切と思われる。 

次回見るように、ウィトゲンシュタインは、美学的反応における「正しい」「適切である」といった判断の役割に注目している。

美学の議論では「美しい」という語はほとんど用いられない、ということに留意せよ。現われるのは別の種類の語―「正しいcorrect」「正しくないincorrect」「適切right」「誤りwrong」なのである。(WLC1932-35, p36, 野矢茂樹訳)

この事実から言えることは、美学的判断において、何らかの「妥当性」が焦点となる、ということであろう。

かれは、「あの低音演奏は動きが速すぎる」といった言明は全く人間についての言明ではなくて、数学の例題のほうに似ている、もし自分の描いた顔について「これは笑いすぎている」と言うとすれば、それはその顔がまだ十分に快くないと言っているのではなくて、何らかの「理想」にもっと近づけることができたはずだと言っているのであり、当の「理想」にもっと近づけるということは「数学の問題を解く」ほうに似ているであろう、と言う。(G.E.Moore,"Wittgenstein's Lectures in 1930-33",3(E), 藤本隆志訳p104)

そのような「妥当性」とは「理想」と合致していることであるが、それをきわめて広い意味での「合規範性」と捉えることができるだろう。

この「合規範性」を目指すこと において、ウィトゲンシュタインは美学的判断と数学的命題との類比を見出す。

ただし、上で引き合いに出した、数列を続ける例のように、「理想」「規範」は未だ与えられていず、「作り出される」場合もある、そのことが重要である。(上述の「反省的判断力」とのつながり)。

 

一方、カントにおいて焦点となるのは「合目的性Zweckmäßigkeit」である。

それが「美的判断ästhetisches Urteil」(「「直感的判断」とも訳される)と「(自然の)目的論的判断teleologisches Urteil」に共通するとされる。そのことによって両者を『判断力批判』という一つの書物の中で論じることが可能になっている、と言ってよい。

だが、「美的判断」における「合目的性」とは何だろうか?

 

4.

一見したところ、カントにおいて2つの判断力と合目的性とを架橋しているのは「快Lust」であるように思われる。

美的判断の合目的性については、

ところで、ある事物の合目的性も、これが知覚のうちに表象せられるかぎりにおいては、—たとえ合目的性は事物の認識から推論しえられても―客体そのものの性状ではない(なぜなら合目的性というようなものは知覚されえないから)。したがって客体の認識に先行するところの、のみならず客体の表象を認識に使用しようとするのでなくてすらなおその表象と直接に結びつけられるところの合目的性は、まったく知識成分とはなりえないものであり、表象における主観的なものである。したがってこのとき対象は、ただそれの表象が直接に快の感情Gefühle der Lustと結合しているゆえにのみ合目的的と呼ばれるのであって、この表象そのものが合目的性の直感[美]的表象ästhetische Vorstellungなのである。(『判断力批判』第二序論Ⅶ、坂田訳)

自然の目的論的判断では、

・・・二つまたはより以上の数の異質的な経験的自然法則がそれらを包括する一つの原理のもとに結合されうるという発見ははなはだ著しい快の、しばしばまた感嘆の根拠ともなり、しかも感嘆を起こす対象をわれわれが十分に熟知してしまってもなお止まない底の感嘆の根拠となるのである。・・・それゆえ、自然を判定するにあたってわれわれの悟性に対する自然の合目的性を注意させるところの何ものかがーすなわち自然の異質的な法則を、たとえなお経験的なものではあってもなしうるかぎり高い法則の下へもたらそうとする努力ーがなくてはならないのである。それは、これに成功したとき、そのような法則がわれわれの認識能力へ調和Einstimmungすること(その調和は単に偶然的と見なされるものであるが)にわれわれが快Lustを感じようがためなのである。(『判断力批判』第二序論Ⅵ、坂田訳)

だが、「快」があるところに必ず「合目的性」が存在するわけではあるまい。

なぜ「美的判断力」の場合に、快の感情と結合していることが「合目的性」につながるのか?

カントは、構想力Einbildungskraftと悟性との<調和Einstimmung>という概念によってこれを説明しようとする。が、今その内容に立ち入る余裕はない。

(さらに、「目的論的判断」の議論になると、「快」の話題は後退してゆくように思われる。)

 

ところで、ある像の中に、新たな視覚的アスペクトを発見することは、カント流に言えば、<反省的判断力>の働きであるだろう。ウィトゲンシュタインにおいて、アスペクトの閃きや転換の体験を特徴づけるのは「驚き」である。

だが、[アスペクトの]転換は、認知が呼び起さなかった驚きStauenを呼び起こす。(PPF152)

アスペクトの閃きの特徴的な表現とは何か。誰かがこの経験をしたことを、私はどうやって知るのだろうか。-その表現は驚きÜberraschungの表現に似ている。(LPPⅠ437 古田徹也訳)
すなわち、アスペクト転換にとって本質的なのは驚くStaunenということだ、と。そして、驚くとは考えることだ。

( LPPⅠ565 古田訳)

※ただし、PPF154やLPPⅠ566のように、その結びつきには留保もつけられている。

 

ウィトゲンシュタインの講義は彼独自のスタイルで貫かれているものの、彼がカントの議論をいくらかでも念頭においていなかったかどうか。それについては、筆者には判断する材料がない。