動態動詞ル形の用法について(8)

1.

続いて、

Ⅵ 知覚・思考・内的状態の表出 に移る。

Ⅴに属する、態度表明のル形については、前回見た。ここではまず、ⅤとⅥを連続的に捉える。つまり、態度表明のル形とⅥの中間例を見ることにより、Ⅵ全体に向けた導入とする。

鈴木重幸は、(前回取り上げた)「賛成する」「断る」「お願いする」等の他に、「信じる」「同情する」「思う」「考える」などを、態度を表す動詞として挙げている(鈴木、「現代日本語の動詞のテンス」p33~)。後者について、次のように言う。

話し手の態度表明の文には(…)、話し手の評価や判断を表明する文もある。このばあいの動詞は、上のばあいとちがって、具体的な行動における態度的な側面をあらわすというよりも、感情的な、知的な態度そのものをあらわすものである。(p35)

この「感情的な、知的な態度そのものをあらわす」動詞を、当ブログでは、<Ⅵ知覚・思考・内的状態の表出>の枠に入れてみる。ただし、連続的に捉えることも可能であり、そこから見て取れることも重要なのであるが、それは後の話題としよう。

問題となるのは、一人称でのル形文であるが、鈴木の挙げている例文より

「ああ。本当に愛しているよ」「わたし、信じるわ...~」

「本当に御同情します。本当に随分苦しかったでしょう。」

「そういうあなたを、僕は立派だとおもう。」

わたしはこんどの事件を若ものが一度はとおらなければならない一種のハシカだと考えます

これらを「賛成する」「断る」「お願いする」等から区別するならば、その根拠は何であろうか。

高橋太郎の見方を参考にしよう。

「わたしはそうおもう。」というとき、そうおもうのは、まさに、それをいうときのことであり、そのまえのことでもあとのことでもないので、話しの時点のことだという意味で瞬間的といえるかもしれない。けれども、その瞬間に始発から終了までふくんだまるごとの動作としてのべているわけではない。それが話しの瞬間のことをのべているとしても、その動作がそのまえからつづいていたのかどうか、そのあとまでつづくものかどうかが考慮にはいっていない。

このことは、その<おもう><かんがえる>などの動作の過程が基準時間である話しの時点とどうかかわるかが問題になっていないということである。つまり、それは、基準時間によって動作過程が分割されるか分割されないかということと関係がない。したがって、この「おもう」は、アスペクト的な意味において、完成相でも継続相でもないのである。(高橋『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』 p65)

高橋のperfective/imperfective の捉え方が議論に関係するが、今はそれを詳しく説明する余裕がない。要するに、高橋は、このような「思う」「考える」の用法をperfective/imperfectiveの対立のいずれかには属さないものと考えている。その点で「お願いする」「頼む」「賛成する」「感謝する」のような動詞とは性格を異にしている、と。

また、つぎのような、「おねがいします」「さんせいする」など、発言そのものが行為となっているもののばあいでも、アスペクト的には、完成相の意味をもっている。

(145) ちょいと、でかけますから、おねがいします

(146) いそがしんだから、はやくたのみます

(147) わたしはさんせいする

このばあいも、すぐあとに「たのみましたよ」「おれ、さんせいしたぞ」ということができる。けれども、「おもいます」や「信じます」は、そのようにはならない。「おもいます」や「信じます」は、完成相の意味をもっていないのである。(高橋、p65)

高橋の主張している内容については改めて吟味しなければならないが、さらに、以下のことに注意しておきたい。

・「思う」「考える」「信じる」のル形変則的用法には、感情形容詞の場合とよく似た人称制限が存在する(cf. 2023-12-27)。(前回、触れるのを忘れたが、「態度表明の動詞」にも存在する。例えば三人称の「彼は賛成します」は現在でなく未来テンスとなってしまう。)

・「思う」「考える」「信じる」は、引用節をとることができる。

わたしは、彼はいい人だと思う。

・主語の「わたしは」「僕は」etc.は、よく省略される。

「思う」「考える」は、モーダルな補助動詞やコプラに近い使われ方もされる。

...会話文で非常におおくあらわれるのは、内容をしめす引用句をともなってあらわれる自動詞「おもう」である。このばあい、「おもう」に対応する一人称の主語があらわれることもあるが、それがあらわれないこともおおい。後者のばあい、「おもう」はモーダルな意味をあらわす補助動詞あるいはむすびcopula にちかづいている。(鈴木、p35。 cf. 高橋、p66-)

・テイル形、時間的副詞句との共起関係の一例。

それでも幸せだと、ときどき思います/思っています。

それでも幸せだと、近頃思います/思っています。

それでも幸せだと、長い間*思います/思っています。

それでも幸せだと、次第に*思います/思っています。

 

2.

Ⅵ、Ⅶに含まれる動詞は、いずれも、ル形で現在の事象を表すという変則性に加えて、ル形で持続的過程の中にあることを表わすという変則性を持っている。(テンス的な変則性とアスペクト的な変則性。)もっとも、寺村秀夫のように、これらを典型的な状態性表現から区別する意見があるが、その点を論ずることは後の課題とする。(cf. 寺村『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』p100〜)

上の引用が示すように、高橋は、一人称における、「思う」「考える」等と、「頼む」「賛成する」等の動詞との違いを、「動作の開始と終了」に対する関心の有無に見ている。つまり、高橋の見方では、ル形が、後者ではperfectiveというアスペクト的意味として機能しているのに対し、前者ではperfective/imperfectiveという対立における機能を果たさない。

また、前者の用法の特殊性(変則性)は、テンス面でのそれも含めて、このアスペクト的な特殊性から来るものだとする(cf. 高橋、p65, 162)。

そして、そのアスペクト的な特殊性は、次のような性格から来るものとする。

一人称現在の「おもう」や「かんがえる」が動作過程の分割・非分割に無関心であるのは、これによってつくられる述語の内容としての動作過程の対象性と、形式としての発話過程の陳述性とが未分化だからである。

......「わたしはそうおもいます。」というときは、その内容としての心的過程は、そのことばを成立させている心的過程とおなじものであるために、関係以前のものとなってしまって、アスペクト的な関係が成立しないのである。

......思考活動は、ことばのかたちで存在するのである。過去におもったということをはなすときはべつだが、一人称現在のばあいは、おもいながらはなすのであり、思考活動としての内言と表現活動としての外言が分化していない。まさに、そのことばが思考活動と表現活動の統一として存在するのである。話し手の現在の思考活動の表現がアスペクト性をもちえないのは、そのためである。

(高橋、p66)

すなわち、思考活動と表現活動とが未分化であるために、アスペクト的な意味が成立しない、あるいはそれに無関心となるのだ、と。

しかし、動作と表現とが一体である典型的な場合として、「宣言する」のような遂行動詞の一人称現在テンスの使用があるが、そちらはperfectiveとしての意味を持っている。「宣言する」行為=表現は、完結することによって、コンヴェンショナルな効力を発揮するからである。

私は、ここに、◯◯大会の開会を宣言いたします。

従って、素朴に考えれば高橋の説には疑問が出てくるが、今はこれ以上立ち入らない。

 

3.

このように問題は多々あるが、「思う」「考える」等の動詞の用法を、感情や知的態度の表出として、Ⅵの分類に入れることには一応の理がある、と言えよう。

次回は、感情や内的感覚などの表出の用法を見てゆくが、ここでも再び、当ブログの出発点に回帰していることに注意しておきたい。例えば、ウィトゲンシュタインにおける<体験Erleben>と<体験ならざるもの>の概念は、心理的概念の時間的様態に関連していた(cf. 2018-07-16)。そして、心理的概念の時間的様態は、心理動詞の語彙的アスペクトと密接に関連する、あるいは雑に言うなら、ほぼ同義である。そして、<表出>という、ウィトゲンシュタイン所縁の概念(cf. 2018-07-31)は、現実の使用においては、文法的アスペクトやテンスの制約と絡む。その、日本語における実態の一端に触れつつあるわけである。