規則遵守と関連する行為

1.
「私は通常の’+’の規則に従って2+3を計算した。」のように、「規則に従う」行為は、命題で表現される。

「私は通常の’+’の規則に従って2+3を計算した。」は、
「私は通常の’+’の意味に従って2+3を計算した。」と言いかえられる。
また、

「68+57=5だって?君は’+’の意味がわかっているか?」-「ええ、私が計算するときはいつも、通常の’+’を意味しているんですが。」-「そのつもりなら、通常の’+’の規則に従わなきゃだめだよ。」
このような会話を想像できる。
これらは「意味する」と「規則に従う」という概念との結びつきを示している。

 

2.
ウィトゲンシュタインは、「知る」「できる」「理解する」等の概念の関連を『茶色本』や『探究Ⅰ』で指摘した。(BBB,p112~, PI 150)

 「知る」という語の文法は、明らかに「できる」「可能である」といった語の文法に非常に類似している。しかし、また、「理解する」という語の文法とも大変に類似している。(ある技術を<マスターしている>こと)(PI 150)

 「できる」と「規則に従う」についても、「内的」な関連を認めることができよう。

 要点は、「能力competence」という概念に関する我々の理解は、さきの議論において論じられたように、「規則に従う」という観念に関する我々の理解に依存する、という事である。(・・・)規則に関する懐疑的問題が解消した後にのみ、やっと我々は、「能力」を規則に従うことによって定義し得るのである。(クリプキ 『ウィトゲンシュタインパラドックス』 黒崎宏訳 p58)

 「できる」だけでなく、「意味する」、「知る」、「理解する」といった概念は、いずれもが「規則に従う」という観念との結びつきを持つ。

それらの結びつきを、言語使用の実際例をあれこれ展開して確認することは非常に重要だが、ここではもっと抽象的な視点から眺めてみる。


3.
「できる」「理解する」「意味する」等の概念は、ある主体の(その場の一つの行為だけではなく)複数の行為が規則に従っているか否か に関係する概念である、とみなすことができる。その複数の行為には、現実に行われた行為だけでなく、可能な行為も含まれる。

「意味する」を例にとる。
「ジョンは’+’で通常の’+’を意味している」ならば、ジョンは例えば、2+2=4, 2+3=5, 3+4=7,・・・といった(無数の)計算をおこなう(可能性がある)。それぞれの計算は、通常の’+’の規則に従っている。
その一方で、2+2=1, 2+3=4, 3+4=8,・・・といった計算は、行わないか、行った後で「自分は計算違いをした」と認めるだろう。

 ※ただし、ひとつの行為が、「規則にしたがっている」と言われるためには、背後に「慣習」の存在、従って、複数の似た行為の存在があるはずだ。

 

わたくしがまたさらに暗示したのは、ひとはある恒常的な慣用、ある慣習Gepflogenheitのあるときに限って道しるべに従う、ということなのである。(PI 198 藤本隆志訳)

われわれが「ある規則に従う」と呼んでいることは、たった一人の人間が生涯でたった一度だけ行うことができるようなことなのか。―これはもちろん「規則に従う」という表現の文法に関する注釈である。
たった一度だけ、たった一人の人間がある規則に従っていた、などということはありえない。たった一度だけ、たった一つの報告がなされ、一つの命令が与えられ、あるいは理解されていた、などといったことはありえない。―ある規則に従い、ある報告をなし、ある命令を与え、チェスを一勝負するのは、慣習Gepflogenheiten(慣用、制度Institutionen)なのである。(PI 199 藤本隆志訳)

 4.
以前の議論( 適用が正当化する - ウィトゲンシュタイン交点)において、「できる」「理解する」等の概念はいずれも、現実の行為の結果が、それらの概念の使用を正当化する重大な規準となる、という構造において共通していること、「意味した」もまた、その点において類似した事情にあることを指摘した。(cf.PI 146-149,320)

すなわち、一方では ある行為が規則に従っていることが、他方では行為する主体が規則にしたがおうとしていることが、いずれも行為の結果によって正当化される、という構造がある。

つまり、主体に対する「できる」「理解する」「意味する」といった概念の適用も、先に述べた「円環」(円環と概念 - ウィトゲンシュタイン交点)に似た構造の中にある、ということである。

そのとき、「意味する」「できる」「理解する」といった概念について、「現在の体験の重要性はどこにあるのか?(現在の体験が、それらの概念の使用を正当化できるか?)」という重要な問いが現れるのをみてきた。

しかし、「現在の体験の重要性はどこにあるのか?」という問いは、単独の行為に対しても差し向けることができる。そこでは「意味する」「できる」「理解する」と似た問題が生じてくるはずである。

 

5.
さらに「意図する」「意志する」のような、志向性を持つ行為のいくつかを、規則遵守の側面から眺めてみる。

 願望は、それを満足させる、あるいはさせるであろうことがらを すでに知っているかのように見える;また、命題、思考は、自身を真とするものを知っているかのように見える。それも、そのようなものが存在しない場合にさえ! まだ存在していないものを、このように決定するということは、何に由来するのか?この専制的な要求は何に?(「論理的必然の頑強性」)(PI 437  cf.PI 95)

このような、頑強な決定性はどうして成り立つのか?ウィトゲンシュタインは(いつものように)、解答のかわりに一つの見方を提示する。それは、「専制的な要求」、すなわち願望、命題、思考の志向対象の決定性を、「論理的必然の頑強性」に類比することで示されている。

すなわち、志向作用(意図、期待、・・・)と志向対象との関係を、「同一の記述をもつ」という「文法的関係」とみる観点を示している。

  「命令はその遵守を命じている」すると命令はその遵守を、それがそこに現れる前にすでに識っているのか。-だが、これは文法的な命題だったのであって、その言っていることは、ある命令が「これこれをなせ!」ということであれば、ひとは「これこれをなす」ことを命令の遵守と呼ぶ、ということなのである。(PI 458 藤本隆志訳)

 

期待とそれを満足させる事実とは、何によるにせよ、適合するように見える。そこで、この一致が何に存するか見るために、ある期待、およびそれに適合する事実を記述してみてもよい。この例で、人はすぐに、ある凸部が対応する凹部にはまる場合を思い浮べる。しかし、この二つを記述してみるなら、それらが適合する限り一つの記述が両者に当てはまることに気付くであろう。(Z 54)

 

言語において、期待と成立が触れ合う。(PI 445)

 

一定の期待と、それを満足させる対象とは、期待の言語表現によっていわば文法的・論理的に結びつけられており、その関係は―たとえば空腹と食事のあいだの―経験的・仮設的な関係とは違った「内的」な性格の関係である。(黒田亘 「現象と文法」)

 志向作用と志向対象との関係が「文法的」であるならば、(例えば)ある意図と、その実現である事象との関係は「規則によって結ばれている」と言える。従って、意図を実現する行為を、「規則にしたがう」行為と見なすこともできよう。それは「その意図の内容の記述が記述している事象に、自らの行為によって実現する事象を、合致させる」という形式をもつ。
このとき、「意図の内容の記述」が、規範としての役割を演じることに注意しよう。

※ただし、われわれが意図を帰属させる存在には、言語を持たないと見なされている生物等も含まれている。これも重要な事実である。ウィトゲンシュタインは猫等における「意図Absichtの自然的表現」について語っているが(PI 647)、アンスコムはそれを批判して、「獣には、意図Intentionの明瞭な表現は欠如している」と主張する( Intention,p5)。これらのトピックについては、ここでは触れない。