はじめに

はじめに~略号表

 これより、L・ウィトゲンシュタインの「後期の著作」(『哲学探究』をはじめとする、アンスコムらの編集によって出版された遺稿)を読みながら、個人的な覚書、リファレンス等を記録して行く。

 

1.
ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学Ⅰ』より、

ある界隈の勝手がわかっている(auskennen)というためには、君は単にある集落から別の集落への道を知っていなければならないばかりでなく、もしもこの間違った方向に行ったならばどこに到達するのかということもわかっていなくてはならない。このことは、いかにわれわれの考察が地図を作成するためにある地方を歩きまわることに似ているかを示している。そしてわれわれの訪れる領域についても、こうした地図がいつか作成されることはありえないわけではない。(§303, 佐藤徹郎訳) 

 ウィトゲンシュタインは、様々な機会に、哲学的な探求を地表面の探索に例え、展望(übersehen)の問題をそれに結び付けて論じている。
例えば、後にThe Yellow Bookとして編集される1933-34年の講義では、哲学における困難の一つに「展望」(あるいは「概観」、原語 synoptic view)の欠如がある、と語った後、言語を地表面になぞらえ、哲学的問題を地図を作る際に我々の犯す誤りにたとえている。

地図を見れば、同じ土地の上をさまざまな道路が走っている。我々はどの道路も通行できるが、同時に二つの道を行くことはできない。それに似て、哲学においても、我々は諸々の問題を一つ一つ取り上げて行くよりほかないのだが、実際には、それぞれの問題は他のいくつもの問題につながっているのだ。・・・
哲学においては、「さあ、まず大まかにアイデアを把握しておこう」という具合にはいかないのだ。それほど話は単純ではない。なぜなら、さまざまな道の間のつながりを把握しなければ、この地域を知ったことにはならないからだ。そこで、つながりを見通すために、何度も繰り返すということを私は勧めたいのである。
(Ambrose, A., ed. (1979) Wittgenstein's lectures Cambridge, 1932-1935, p43) 

 彼の言葉を信じるなら、ウィトゲンシュタインを読む者は、似たような問題に繰り返し直面し続けることを避けて通れないだろう。その繰り返しこそは、つながりを把握するための手段として甘受されなければならないもの、ということになる。

事実、彼の「後期の著作」は、果てしの無い、いくつものテーマの繰り返しという印象を強く与えてきた。
しかも、単なる反復というよりも、見通しがたい迷宮にたとえられてきたのである。

言語はさまざまな道の迷路である。一方の側からやって来ると勝手がわかる(auskennen)が、他方の側から同じ場所にやって来ると、もう勝手がわからない。(『哲学探究』 Ⅰ §203, 藤本隆志訳)

われわれが自分たちの語の慣用を展望してないということ、このことがわれわれの無理解の一つの源泉である。(同、§122,藤本訳)

しばしば指摘されるように、これらはまるでウィトゲンシュタインのテクスト自体について語っているかのように、とてもアイロニカルに響く。彼のテクストの「展望しがたさ」ゆえに、限られた区画を堂々巡りしたあげく途方にくれてしまう読者が大量に生まれてきたのであるから。

2.
 ウィトゲンシュタインを読もうとするならば、テクストの中の果てもなく繰り返される問いの中で方向を見失わぬよう、何らかの道標を立てながら進むことは必要であろう。これから記してゆくノートは、その役割を果たすためのものである。ここでなされる議論は非常にラフな、覚書程度のものにとどまる。

哲学者の仕事は、一定の目的に向って、諸々の記憶を寄せ集めることである。(『哲学探究』 Ⅰ §127 藤本訳) 

 これに習って?まずウィトゲンシュタインの言葉を寄せ集めて、考察を加えて行きたい。
ただし、それぞれの引用文が属していたコンテクストを十分に示す余裕はないため、論旨のつながりに明確さを欠くことも多いだろう。引用文の内容については、元のコンテクストに還って理解する必要がある。その意味でも、このノートは、ウィトゲンシュタインを読むための覚書にすぎない。長年にわたる彼の思考の転変を探る余裕はないが、より早期に書かれた文章が、後に書かれた文章の内容を良く例証すると思われる場合、あえて前者を後者の説明に使用することがある。そのため、時間系列を無視した議論に見える場合もあるだろう。

3.
ウィトゲンシュタインを読みながら、哲学の内側で一般化された問題(たとえば、数学的プラトニズム)について考えることは、ここでの目標ではない。
彼の哲学上の姿勢は例えば次の部分に、端的に現れている。数学の基礎に関する議論においても、感覚の言語に関する議論においても、自分は、「言葉のいろいろな使用の仕方に注意を喚起しているだけなのだ。」と言う。(cf.『数学の基礎』Ⅱ76節、原書第3版Ⅲ 76節) 
つまり、どちらの議論でも、対立する哲学的主張のいずれかの解答を与えようとしているわけではなく、言語ゲームの多様性、それらの間の差異に注意を促しているに過ぎない、と、ウィトゲンシュタインは主張するのである。
目指すことは、哲学を専門としない一読者として、このような彼の姿勢の理解に努めながら読み進むことである。

<略号表>

ウィトゲンシュタインのテクストへの参照は、英語題名の略号を使う。節に分かれているものは、基本的に節の番号で記す。他は、ページで指示する。
ただし、
・Remarks on the foundations of mathematics は第3版を使用する。
・Philosophical investigations の新版(第4版)では、旧版の第Ⅱ部がPhilosophy of Psychology A Fragmentと改題され、パラグラフに節番号が通しで付されている。ここでは、略号としてはPPFおよび『探究Ⅱ』を用い、ページでなく第4版での節番号で表記する。

訳文について。邦訳を引用する場合は訳者を表記する。訳者による原文の補足は、場合に応じて削除することがある。
原文における強調部分は、すべて下線を引いて表記するように改変する。、
節からの引用は、抜粋である場合が多いが、それを一々ことわらなかった。引用部分の中間に省略した部分がある場合については、その部分を(・・・)あるいは、(中略)によって示す。

略号:原題
TLP,Tractatus,『論考』:Tractatus Logico-Philosophicus
PB、『考察』:Philosophical Remarks
PG『文法』:Philosophical Grammar
BBB『青色本』『茶色本』:The Blue and Brown Books

PI『探究Ⅰ』:Philosophical Investigations 
PPF『探究Ⅱ』(『心理学の哲学-断片』):Philosophy of Psychology - A Fragment
RFM『数学の基礎』:Remarks on the Foundations of Mathematics
RPPⅠ『心理学の哲学Ⅰ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅠ
RPPⅡ『心理学の哲学Ⅱ』:Remarks on the Philosophy of PsychologyⅡ
LPPⅠ『ラスト・ライティングスⅠ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅠ
LPPⅡ『ラスト・ライティングスⅡ』:Last Writings on the Philosophy of PsychologyⅡ
RC『色彩論』:Remarks on the Colour
OC『確実性』:On Certainty
Z『断片』:Zettel
CV『文化と価値』:Culture and Value
PO:Philosophical Occasions
WLC1932-35『1932-35講義』:Wittgenstein's Lectures,Cambridge 1932-1935
WLFM『数学の基礎講義』:Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics
WLPP『心理学の哲学講義』Wittgenstein's Lectures on philosophical Psychology 1946-47
LCA『美学講義他』:Lectures and Conversations on Aesthetics,Psychology,and Religious Belief

WVC『ウィーン学団』:Ludwig Wittgenstein and The Vienna Circle