「説明」の周辺(11):美学的対象と美学的反応

1.

ウィトゲンシュタインの「美学に関する講義」の内容を、

①美学的対象

②美学的反応

③美学的説明

の3つの側面からみてゆく。

 

 ※よく知られるように、「美学」と訳される"aesthetics",”Ästhetik"は、語源的には古典ギリシャ語の「感覚」を意味する語「アイステーシス」に由来し、「感性の学」を原義とする。この原義をどう訳語に反映させるか、例えばカントの『判断力批判』の場合、”äesthetisch" は、「美的」「美学的」「直感的」「美感的」など、訳者によってさまざまに訳されている。ウィトゲンシュタインの「美学に関する講義」についても、どのような用語がふさわしいかには議論があるだろう。ここでは便宜的に、"aesthetic"に対しては「美学的」で統一し、①~③のように表す。ただし、これらはウィトゲンシュタイン自身が定義して使っている用語ではない。

 

以前触れたように、一応目指すところは③美学的説明の概念の解明だが、もう一つ、光を当てたいテーマがある。

①美学的対象と②美学的反応とが彼独自の視点で表裏一体となっていることの確認と解明である。

もちろん以下に示すように、一般な観点から、我々の「美学的反応」とそれが語っている「対象」とは結びつきがある、と言える。

しかし、ウィトゲンシュタインにおいては、さらに、身振り、顔による表現等、主体の表現行為を通じて両者が結びつく(あるいは、ともに生成する)、という独自の視点がある。そのような視点は、後の『探究Ⅱ』(PPF)における考察のバックボーンにもなっており、その理解のためにもきわめて重要だろう。

 

はじめに、彼が考察の原則を語っている言葉を引いておこう。

言語は、広大な集団をなしている諸活動—話す、書く、バスで旅行する、人に会う、等ーの、特徴的な一部に過ぎないのである。われわれが取り組もうとしているのは、「よい」、「美しい」等の語ではない。それらは実は全然特徴的ではなく、一般的に見て単純な主語と述語でしかない(「これは美しい」)。取り組むべきは、それらの語が発せられる状況occasionsである。ーその状況の中で美学的な表現が用いられるが、当の表現そのものはほとんど取るに足らぬ地位にあるような、とても込み入った状況なのである。(LCA, p2)

われわれは特定の語からではなく、特定の状況occasionsや活動から出発しよう。(ibid. p3)

 

 2.

前回触れたように、ウィトゲンシュタインが考察の対象としたのは、広い意味での「美」に関連した日常的言語ゲームである。

その例として、まず、「これは美しい」のような発話を取り上げる。それを、言葉による「美学的反応」、と呼ぼう。

さらに、「これ」で指示された対象を「美学的対象」と呼ぼう。

 まず、2つのことが問題となる。

a.「これは美しい」の「美しい」に類する、美学的反応としての述語にはどのようなものがあるのか。

b. そのような美学的反応に登場する、「これ」はどんな対象を指して言われるのか。

 

明らかに、この2つの問いには関連がある。

ウィトゲンシュタイン自身は、講義でどのように語っていたか。

 

b. 美学的対象については、視覚や聴覚で捉えられる狭義の芸術作品(絵画、彫刻、音楽など)のみが対象なのではない。服装(LCA, p5)、詩の朗読の仕方(p4)、コーヒー(p11)、アイスクリーム(p12)、ドアや窓(p13)など、彼が言及する事例は幅広い。

それらの対象の間には大きな違いがあるものの、「境界を見つけることは難しい」(LCA, p11)。また「中間的例を介して結び付けることができる」(LCA, p12)。

 

a. それらの美学的対象の種類の違いに対応して、当然、②美学的反応の述語にも、さまざまな違いが存在する。コーヒーやアイスクリームに対しては「美しい」とはふつう言わず、「美味しい」と言う。ファッションやインテリアに対しては「美味しい」とは言わず「素敵だ」などと言う。

もちろん、「素敵だ」「快い」「立派だ」「かわいい」など、さまざまな種類の対象にまたがって使用される述語も多い。

そのように、①美学的対象と②美学的反応との間には緩いながらも対応を認めることができよう。それが上述した、一般的意味での①と②の結びつき、である。

 

3.

さて、「美学的反応」として、まず、「この絵は美しい」「このコーヒーはうまい」のような発言を取り上げたが、上の引用が示すように、ウィトゲンシュタインは、このような発言のみを「美学的状況occasion」の特徴とはしていない。むしろそれらは、美学的状況ではマイナーな役割しかしていない。

注目すべきことに、現実の生活の中で美学的判断がなされる時、「美しい」「見事だfine」等の形容詞は、大した役割を果たしていない。(LCA, p3)

美学の議論では「美しい」という語はほとんど用いられない、ということに留意せよ。現われるのは別の種類の語―「正しいcorrect」「正しくないincorrect」「適切right」「誤りwrong」なのである。(WLC1932-35, p36, 野矢茂樹訳)

だから、「美学的反応」という言葉は、もっと広い事象に対して用いるべきであろう。

例えば、次のように美学的形容詞を含まない発話に対しても。

美学とのつながりで最も重要なのは、美学的反応reactionsと呼びうるものである。たとえば、不満discontent、嫌気disgust、不快discomfort。不満の表現は不快の表現とは違う。不満の表現は次のように言う:「もっと高くせよ・・・低すぎる!・・・もう少し変えてみよ」。(LCA, p13)

「もっと高くせよ・・・」という表現が示すように、美学的反応は、しばしば、対象の「妥当性」に関わる反応である。そこから、数学の問題との類比、未だ与えられていない「理想」への接近、等の話題が引き出されることについては、前回簡単に触れた。

 

例として、あるものを好んでいることを取り上げよう。その表現(例えば「モカマタリが一番好きだ」)は美学的反応と呼べる。しかし、ある場合にそれは言葉なき行為であるかもしれない。

何かを好んでいることの表現はどのようなものか。我々の言う言葉、感嘆詞、示す顔の表情、それらのみか?明らかにそうではない。例えば、どんなに私があるものをくり返し読むか、または、あるスーツをくり返し着るか、がその表現であることもある。おそらく私は、「これは素晴らしい」とさえも言わないが、それをよく着たり、眺めたりするのだ。(LCA, p12)

先の引用文で指摘された、「正しいcorrect」「正しくないincorrect」「適切right」「誤りwrong」等の語は、評価する言葉と呼ぶことができる。対象の「評価」もまた、「美学的反応」である。

「評価されたappreciated」という言葉について語ろう。評価は何の内に成り立っているか?

ある人が洋服屋で無数の見本を吟味して言う:「これじゃない。ちょっと暗すぎる。こちらはすこし派手すぎる。」などと。彼は生地の目利きappreciatorと言われる人である。彼が目利きであることは、彼が発する感嘆詞によってではなく、彼が選び出す仕方、等によって示される。(LCA, p7)

このように、評価は、言葉によってのみ表現されるわけではなく、より以上に、行為や態度によって示される。

 

このように、「美学的反応」という概念の広がりを意識した上で、「美しい」等の美学的形容詞の問題に戻ろう。

 

4.

「美しい」等と感嘆詞の類似に、ウィトゲンシュタインは注意を喚起する。

子どもがどのようにして「美しい beautiful」「見事だ fine」等を学ぶのか、自問してみれば 、子供はそれらを大体、感嘆詞として学ぶことに気づく。(LCA, p2)

「素晴らしい lovely」といった言葉は まず感嘆詞として用いられる。(ibid. p3)

ここでウィトゲンシュタインは、子供がその語をどのように学ぶか 想像してみる、という、彼の多用する方法を用いて、ある事実を指摘する。

子どもは一般に「いい good」のような語をまず食べ物に適用する。その語を教える際に、きわめて重要になるのは、誇張された身振りと顔の表情である。その語は、顔による表現や身振りの代理として教えられるのだ。この場面で、身振り、声の抑揚、等は、是認approvalを表現する。(LCA, p2)

「いい good」は、顔の表現や身振りに代わるものである。

この考察は、有名な『探究Ⅰ』§244での主張を思い出させる。

たとえば「痛みSchmerz」という語の意味。ことばが根源的で自然な感覚の表現に結びつけられ、その代りになっているということ、これは一つの可能性である。子供がけがをして泣く。すると大人たちがその子に語りかけて、感嘆詞を教え、のちには文章を教える。かれらはその子に新しい痛みのふるまいを教えるのである。
「すると、あなたは<痛み>という語が本来泣き声Schreienを意味している、と言うのか。」-その反対である。痛みという語表現は泣き声にとって代わっているのであって、それを記述しているのではないのである。(PI 244 藤本隆志訳)

「痛み」は泣き声を「意味している」のではない。

同様に、美学的形容詞は、主体の身振りや顔の反応を意味しているわけではない。

常識的に言って、あくまでそれは美学的対象について、何ごとかを言う言葉であるはずだ。

この(当然の)事実は承知の上で、なおかつウィトゲンシュタインは、「美学的状況」における、身振り、顔による表現等、主体による表出活動の役割を強調する。

 

その説明の前に、ウィトゲンシュタインが、美的対象と主体をつなぐあるものについて着目していたことを確認してゆこう。

 

※このようなウィトゲンシュタインの「発生論的考察」は、子供のプリミティブな言語ゲームでの語の役割と、大人の言語ゲームでの語の役割を単純に同一視しようとするものではないことに注意が必要。例えば、『探究Ⅰ』§244での議論をもとに、彼が「痛い」という言葉の機能と叫び声の機能を同一視したとみなすことは誤りであろう。これについては以前にも触れた。「表出のディレンマ(1)(2)