計算の揺らぎ

1.
実際のところ、われわれが使用する「規則の適用」という概念には、いくらかのあいまいさ(緩さ)がある。これは重要な一般的事実である。

 では、私が、規則・・・に従い、・・・を加えた結果であることが、数・・・の性質である、というとしたら?―したがって、これらの数にこの規則を適用すると出てくるということが、その数の性質なのである。問題は、かりにこの数が(規則の)結果でないとしても、それを「規則の適用」と呼ぶだろうかということである。そして、それはつぎの問と同じである。「<この規則の適用>で君は何を理解するのか。例えばその規則を使ってなすことか(君はそれをあるときにはこのように、またあるときにはあのように適用するであろう)、それとも<その適用>は別の仕方で説明されるのか」(RFMⅠ 83 中村秀吉・藤田晋吾訳)

 

「人は、掛算13×13は169を与える、と信ずることはできない。結果は計算に属するから。」―私は何を「掛算13×13」というのか。それの下端に169がある正しい掛算図だけか、それとも<間違った掛算>もか。(RFMⅠ 112 中村・藤田訳)

 もしも、3と2に適用した場合に5という結果が得られた時に限り「+した」と呼ぶのならば、5以外の結果を頑強に締め出しているのは、われわれ である。
このとき、われわれは「円環を廻っている(RFM Ⅵ 8)」。

 

だが、実際には、われわれの態度は揺らぐ。
ある場面では、「あるときにはこのように、またあるときにはあのように(RFMⅠ 83)」なすことを、どちらも「+という規則の適用」という概念のもとに受け入れる。
例えば、「その子は3+2を計算して、4と答えた。」と言う。


その一方で、「3+2は5でしかありえない。もし計算の結果、4が得られた場合は、+したとは言えないはずだ。」とも言う。ここでは結果を、行為の本質的規準として適用している。


ここには、「規則に従う」あるいは「計算する」という概念の揺らぎ、伸縮が、姿をあらわしている。

現実の言語使用において、「円環」は、いつも閉じられているわけではない。

 そして、「表というものは、われわれがそれを一つの特定の仕方で使うことを、いや、それをいつも同じ仕方で使うことさえ、強いはしない」ということを思いだすならば、われわれの「規則」や「ゲーム」という言葉の使い方は、ゆれがあること(周辺のほうでぼやけてしまうこと)が、誰にも明らかになろう。(PGⅠ 55 山本信訳)

2.

そして、「規則に従う」(あるいは「計算する」)という概念の「揺らぎ」がもし存在しなかったら、「計算間違い」という概念は成立しない。

 計算違いの役割を、私はまだ明らかにしていなかった。「私は計算違いをしたに違いない」という命題の役割を。その役割こそ本来、数学の<基礎>を理解する鍵である。(RFM Ⅲ 90 中村・藤田訳)

 もし行為を結果によって「計算する」か「計算しない」か、どちらかに振り分けるのみであれば、それは行為に事後的にレッテルを貼るような営みである。たしかにそのような言語ゲームも想像可能であるだろう。(とはいえ、そのような限定された言語ゲームが、どのような生活形式の上に営まれるであろうかということは、決して明瞭ではない。私的言語論を平明に読むために5 - ウィトゲンシュタイン交点

 

しかし、現実に我々はそれに止まってはいない。我々は、行為の事前に途中に、(規則に従う)その行為について語るのである。そこに「意志(意図)」という現象とのつながりがあることが予期されるだろう。