論理的に不可能なものの記述

1.
ウィトゲンシュタインの数学論の立場は、しばしば「規約主義conventionalism」という術語で呼ばれる。
ただし、この「規約主義」とは、「常々、規約が明示的に示され、その都度、人々がそれに合意する」ことを主張しているのではない。
その内実は、先に「円環」と呼んだ構造(円環と概念 - ウィトゲンシュタイン交点

)の指摘 にほかならない、と言ってよいのだろうか?

「+」をめぐる「円環」をなす言語ゲームが強固に営まれている場合には、我々は計算の「正しい結果」が得られたときにのみ、「+」を行った とみなす、であろう。それゆえ、「+」は、「正しい結果」以外取りえない、と。

つまり、「+」と「正しい結果」との結びつきの強固さ、すなわち「論理的必然の頑強さ」(PI 437)は、われわれの「生活形式」の強固さに支えられる。

 数えること、計算することは-例えば-たんなる気晴らしではない。数える(つまり、このように数える)ことは、日々われわれの生活の多種多様な活動に使われる一つの技術である。またそれなるがゆえに、われわれは際限もなく練習して、無慈悲な厳格さで、現に数えているように数えることを学ぶのである。そのために、われわれの誰もが、「一つ」の次に「二つ」、「二つ」のつぎに「三つ」云々と発音するのを、仮借なく強制される。(RFMⅠ 4 中村秀吉・藤田晋吾訳)

 

われわれはいう、「君たちが掛け算のときに本当にに規則を守っているなら、同じものが出てこなければならない。」(・・・)
だがそれは、われわれの生活のいたるところで現れる計算技術に対する態度の表明なのだ。<ねばならぬ>の強調は、計算技術に対する、とともに無数の同種の技術に対する、この態度の仮借なさにだけ対応する。(RFM Ⅶ 67 中村・藤田訳、 cf. Z 299)

 

したがっていまやわれわれが、これらの法則の適用において仮借ないのである。(RFMⅠ118 中村・藤田訳)

 

そして 算数、数学に本質的なことは、規則の適用においてわれわれの(ほとんど)全員が一致して行動するという事実である。このような堅固な「一致」が得られること自体は自明ではない、経験的事実である。しかし、それが得られないゲームを、われわれが「算数」や「数学」と呼ぶことはないであろう。(cf.LPPⅠ932,933)

数学者たちの間では一般に、ある計算の結果に関する論争は生じない。(これは重要な事実である。)―そうでないとしたら、たとえば、ある数字が知らぬまに変わってしまったとか、記憶が自分や他人を欺いたとか、等々のことにある数学者が確信を抱いているとしたら、―<数学の確実さ>というわれわれの概念は存在しないであろう。(PPF341 藤本隆志訳)

 

2.
しかし、ここまでは「円環」の半分をみているに過ぎず、計算(算術、数学)という営みの全体を捉えてはいない。
そのことは、次のように問うてみるだけで明らかになる。

「もしわれわれが計算を行ったか否かが結果によってのみ決定されるのならば、結果が出る前や結果が知られない場合には、その行為を何と呼ぶべきなのだろうか?」。

ウィトゲンシュタインは、中期の数学論において、この問いに直面していた。

例えば、結果の存在しない問題に取り組むということが、数学の営みには存在するのである。

三等分の問題にかんしてわれわれの感じる当惑は次のごときものであった。もしも角の三等分が不可能ー論理的に不可能ーであるならば、そもそもわれわれが三等分を問うことが、どうしてできるのか?いかにしてわれわれは、論理的に不可能なものを記述し、その可能性について有意味な仕方で問うことができるのか?言いかえると、われわれは論理的に調和していない概念を、いかにして組み合わせることができるのか。(文法に反し。つまり、無意味であるのに。)そしてこの組み合わせの可能性を有意味に問うことができるのか?-しかしこのパラドクスは、「25×25=620か?」と問うときにもまた、出現する。-この等式が成り立つことは論理的に不可能なのだから。私はじっさい、もしそうだとするとそれがどうなるか、を記述することができない。25×25=620であるか、という疑い(あるいは、それが625であるか、という疑い)のもつ意味は、まさに、検証の方法がその等式に与えるところの意味である。これはまったくその通り。われわれはここで、25×25=620であればどうなるか、を想像したり、記述したりするのではない。そしてこのことはまさに、ここでは「この通りの長さは620メートルか、それとも625メートルか」といった問いとは、まったく(論理的)種類を異にする問いが問題となっている、ということなのだ。(PGⅡ27 坂井秀寿訳)

もし「×」が「正しい答え」を取る場合にのみ有意味であるのなら、

例えば、「部品は一箱に255×42個入っている。今、正確に暗算はできないけれど、もし255×42=10,000だったら、三箱だから30,000個だ。」という発言はどうなるのだろう。

実際には255×42=10,290だから、この発言は丸ごと無意味、ということになるのだろうか?

さらには、「25×25=620か?」という問いの言葉も無意味なのだろうか?
しかし、「25×25=620か?」といった文は、は現実に使用されている。いったい何の資格で、これを無意味と呼ぶことができるのだろうか?

では、「25×25=620か?」が有意味であるとしよう。この問いにおける「×」と、正しい数学的命題「25×25=625」における「×」は、同じ意味をもつのか?

「後者における’×’は結果「625」を必然的にとる。しかし、前の問いが有意味であるためには、'×'は620をとる可能性がなければならない。だから、同じ意味ではない。」こう言われたらどう答えるべきか。

 

ウィトゲンシュタインは中期の数学論で、このような「パラドクス」を自覚せざるを得なかった。それが上の引用部に示されている。中期の立場において、これらの問題がどのように答えられたか、あるいは答えられなかったか、その手がかりは上の引用の後半や『文法』Ⅱの他の箇所で示唆されているが、その検討に今立ち入ることはできない。

 

3.
ここで、規則と行為の関係をめぐって、ディレンマと言うべき状況が現れてくる。

①もし、「ある規則に従う」ということの意味が、その行為の結果との論理的結びつきによってのみ定義される(意味を与えられる)、それもある特定の結果のみによって定義される、とするなら、その「規則に従う」行為は一つに定まる。その代わり、上に見たような「フレーゲ‐ギーチ問題(表出のディレンマ(1) - ウィトゲンシュタイン交点)」に類似した問いに直面する。

②それに対し、「ある規則に従う」ということの意味が、様々な結果をもたらす複数の行為に及ぶ、とする。その中で、ある一つの結果を「正解」として選ぼうとすると、今度は、その結果のみを正当化することができない、という困難にぶつかる(ウィトゲンシュタインクリプキパラドックス)。「あなたが'+'で意味しているのは、プラスでなくクワスだ」という主張に対して、「私が意味しているのはプラスだ」という主張を正当化することは困難なのである。

 われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということであった。(PI 201 藤本隆志訳)

 (付け加えるなら、両方の場合とも、特定の選ばれた行為が規則に従うものであることの正当化は存在しないだろう。①の場合、それは定義によって定められているから正当化は定義の繰り返しや確認に過ぎない。②の場合は、他のどの行為も正当化可能であるために。)

もちろん、「252×5=625」かどうか?について、われわれの間で論争になったり、2つの意見の間で決着が着かなかったりすることは実際にはない。

 わたくしは、なぜ数学者たちの間では[ある計算の結果に関する]論争が生じないのか、と言ったのではなく、単に論争が生じないということを言ったにすぎない。(PPF343 藤本隆志訳)