imperfective paradox

1.

再度確認する。

ウィトゲンシュタインの「数学論」には、中期と後期で、数学と応用との関係について、際立った態度の違いが存在する(文法と応用 - ウィトゲンシュタイン交点)

・中期の数学に対する観方は、『論考』の論理・数学観を継承していた。その核心は、徹底して「過程と結果の同等性(TLP 6.1261, cf.RFMⅠ82)」という見地に立つこと、すなわち両者の論理的結びつきをどこまでもリジッドに捉えることにあった。

・実際にわれわれがそのような見地に沿うかのように行為する場合が多々あることは、ウィトゲンシュタインが「円環」と呼んだ行動様式が、現実に多々見られることに示されている。

・中期から後期への転回の前後で、「計算する」「規則を適用する」等の概念の使用が持つ「揺らぎ(PGⅠ 55)」が意識されていた(中期のPGⅡ27ではパラドックスとして。後期では、RFMⅠ 83, 112を参照)。

論理的に不可能なものの記述 - ウィトゲンシュタイン交点

計算の揺らぎ - ウィトゲンシュタイン交点

・この使用の「揺らぎ」は、われわれの言語使用に広く見られる経験的事実である。

それを認めるなら、論理的に不可能なものの記述 - ウィトゲンシュタイン交点

で示されたディレンマの①は放棄されるのが自然である。

・だが残された②の途には、「規則はいかなる行動のしかたも決定できないであろう、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから」という「パラドックス」が立ちふさがるようにみえる(PI 201)。それが『探究Ⅰ』での主要テーマの一つとなったことは知られる通りである。

・残された②の途を受けいれることは、「<必然的な>命題に現れる諸概念は、必然的ならざる命題にも登場し、かつある意味をもたなければならない。(RFMⅤ41 )」という認識に行き着く。すなわち、「数学的命題の二重性格(RFMⅣ 219」の認識。それは「実験と計算の両極を往来(RFMⅦ30)」するわれわれ、という観点に立つことでもある。

数学的命題の二重性格 - ウィトゲンシュタイン交点)(実験と計算を往還する(2) - ウィトゲンシュタイン交点

 

しかし、このブログの関心は、具体的にウィトゲンシュタインの数学論の「転回」の現場を押さえることやその主要因を特定することにはない。(つまり、上の問題が現実に「転回」の引き金であったかどうかはここで問題としない)

興味があるのは、この「揺らぎ」の問題をウィトゲンシュタインにおける象徴的な問題の一つとして捉えてみることである。

すなわち、2つのことについて考えたい。

一つは、この「揺らぎ」の問題が「計算」「数学」に限定されない、拡がりをもつものであること、

もう一つは、この「揺らぎ」が 解決すべき「問題」とみなされるようになる背景を、「哲学的問題」の成立のひとつの典型として捉えてみること。

2.

計算や数学の営みに限られることなく、ごく普通の行為の描出について、上述のような「揺らぎ」を認めることができるはずだ。

人は、自分が成し遂げていない(does not do)行為について、現に行うことが可能である(can be doing)。特に、その行為が、完了するのに時間を要する過程、企てである場合に。つまり、その行為がいずれかの段階において中断された場合に、彼はそれを行っていた(was doing it)が、成さなかった(did not do it)、と言われることがあるのだ。(Anscombe, Intention, p39)

ここでアンスコムが指摘するような、perfective aspectでの状況描出と、imperfective aspect(英語の進行形progressiveもここに属する)での状況描出が食い違う現象(すなわち「揺らぎ」)は、imperfective paradoxとして知られる。(David R. Dowty, Word Meaning and Montague Grammar,  p133)

※主要アスペクトの名称は、主に英語を用いる。特に perfectiveとperfectの区別が重要だが、訳語、例えば「完了」を用いると紛らわしくなるため。

アンスコムは、「行為の完了に時間がかかる場合」にこのような「パラドックス」が生じるとしたが、Zeno Vendlerがaccomplishment verbに分類した動詞が描出する行為の場合が典型的な例として挙げられるだろう。(Vendler,  Verbs and Times)

ある人が今走っている、とか、カートを押している、というのが真である場合、たとえ次の瞬間に彼がそれを止めたとしても、彼が走った、とか、カートを押した、ということは依然として真である。他方、今、彼が円を描いている、とか、1マイルを走っている最中である、ということが真である場合でも、次の瞬間彼がそれらを止めたとしたら、彼が円を描いた、とか、彼が1マイルを走った、ということは真ではありえない。(Vendler, Linguistics in Philosophy, p100)

 

※ヴェンドラーによる動詞の語彙的アスペクトの4分類(state,achivement,activity,accomplishment)については、さまざまな検討(例えば、動詞の分類であるのか、むしろ動詞句の分類にふさわしいのか?等)がなされ、さまざまなヴァリエーション(Anthony Kennyによる3分類等)が提案されてきた。ヴェンドラーとは独立して構想された金田一春彦による日本語動詞アスペクトの分類も、基本的アイデアには共通した点がある。ただし、ここではそれらの問題には立ち入らない。

 ヴェンドラーのaccomplishment verb(例:draw a circle、run a mile)は、進行形を取り得ることにおいて、activity verb(例:run、push a cart)と共通する。しかし、次の点で異なっている。

走ることや、カートを押すことには決まった終点terminal pointというものがないのに対し、1マイル走ることや円を描くことには「クライマックス」が存在し、その行為がそれと称されるためには、その 「クライマックス」に到達することが必要であるのだ。(Vendler, Linguistics in Philosophy, p100) 

走ること、やその種の行為は、時間の中で均質的にhomogeneous way展開するように見える。つまり、その過程のどの部分も全体と同じ性質を持つ。1マイル走ることや手紙を書くことはそうではない。それらとて時間の中で進行するものの、ある終点terminusに向かって進行する。その終点は、行為がその行為であるために論理的に必要とされるものである。何らかの仕方で、このクライマックスが自身の影を背後に投げかけ、それ以前に進行したことがらすべてに新たな色彩を与えるのだ。(Vendler,Linguistics in Philosophy, p101-102)

 「論理的に必要とされる」という規定に注意。「計算する」の場合に「結果が過程の規準となる」ことに極めて類似していることがわかる。

別の用語を使うなら、1マイル走ることや円を描くことはtelic(⇔atelic)である。

 椅子を作るmake a chairで描出される状況situationは終点terminal pointを持ち、その終点において椅子は完成され、その状況は自ずと終結する。

歌うsingで描出される状況には、そのような終点は存在しない。だらだら引き伸ばすことも、ある時点で止めることも可能である。椅子を作るmake a chairで描出されるような状況はtelicと呼ばれ、歌うsingで描出される類の状況はatelicと呼ばれる。(Bernard Comrie, Aspect, p44)

 telicな行為には、あるend(=終点、目標)が内在的に関わる。そのendが、その行為の「本来的な」規準となる。

telicな動詞をimperfectiveに使用する場合と、perfectiveに使用する場合とで、一見矛盾が生じるように見える(「彼は当時家を建てていたが、空襲が激化したため、とうとう家を建てることができなかった。」)しかしこの現象は極めてありふれたものであり、それをパラドックスと呼ぶなら、われわれの日常の言語活動はパラドックスだらけ、ということになる。

※もちろん、ある命題Aとその否定notAが同時に成立する、という形での矛盾ではない。

 

突き詰めてみれば、telicな動詞をimperfectiveに使用すること自体が、矛盾をはらむように見えてしまうだろう。なぜなら、imperfectiveに使用された場合、endは未だ到達されておらず、その行為はそれ自身であるための規準を欠いたままであるから。(「計算する」の場合との類似。むしろ、「計算する」はtelicな動詞の一例にすぎない。)

 

(※とはいえ、imperfectiveでの描出に限って「揺らぎ」が生じるわけではない。「その子は12x12を計算した。そして顔を挙げ、「124」と答えた。」という例のように、perfectiveにおいても、『論考』の立場(「過程と結果は同等である」)からすれば、「計算」概念に揺らぎが生じるのである。)

 

ここで、以前軽く触れたように、「家を建てていた」「計算していた」等は、ある行為自体を具体的に記述するものではなく、行為に付随する意図の記述なのだ、と考えたくなるかもしれない。ゆえに、「(とうとう)家を建てなかった」「(結局)計算しなかった」等の記述と矛盾しないのだ、と。

しかし、アンスコムが示すように、imperfective paradoxは意図的行為intentional actionの場合に限られるわけではない。

アンスコム、上掲の引用の続き。

 しかし、この現象は、意図的行為に特有のものではない。われわれは、あるものが落ちつつあったwas falling overが、落ちなかったdid not fall(別の物がそれを止めたので)、と言うことができるのだ。(Anscombe, Intention, p39)