「表出」の概念

1.
心理的概念を用いた通常の文章(例:「私は悲しみを感じている」)は、感覚に類する内的体験を、外的な事象を記述するのと同じ仕方で、記述する、という通念。
この通念は2つの類比によって支えられている。一つは、先に取り上げた、「感覚」への類比、もう一つは、「記述」への類比である。

「では、君は実際には痛みを持つことはなく、うめいているだけだ、といいうのか?」ー次のように見えるのである。一方に私の振る舞いの記述があり、さらに同じ意味で、私の経験、つまり痛みの記述がある!と。一つは、いわば外的なものの記述であり、もう一方は内的な事実の記述である、と。(PO p262)


「記述」に、ウィトゲンシュタインがしばしば対立させたのは「表出」である。

「私は歯が痛い。」のような一人称の命題を、ウィトゲンシュタインは「表出」Äußerungと呼んだ。
多くの心理概念の特徴、それは、「表出」というタイプの一人称現在の命題が存在することである。

 心理的概念の取り扱いについてのプラン。
心理的動詞は、三人称現在形は観察によって同定されるが一人称はそうでない、ということによって特徴付けられる。
三人称現在形の文は報告であり、一人称現在形の文は表出Äußerungである。(完全に当てはまるわけではない。)
(RPPⅡ63)

 

 Glock, A Wittgenstein Dictionaryより

 この術語(avowal)を哲学に導入したのはライルであるが、ウィトゲンシュタインのÄußerungやAusdruckに対する、共通の訳語としても用いられている。(ただし、他に、expression,manifestation,utteranceなどと訳されることもある)
ウィトゲンシュタインは心理に関わる文の、一人称現在時制での、ある種の使用を、表出(avowal)として特徴付けた。そういった使用は、内面の領域にて出会われる私的な心理的存在を記述もしくは報告するものではないことを、この規定によって表しているのである。対照的に、身振りやしかめっ面が感情や態度等を表現したり露にしたりするのと同じ仕方で表現を行うものとして、表出は特徴づけられた。(p50)

2.
「私は歯が痛い。」のような「表出」は、「記述」や「報告」という概念から我々が想像する言語使用とは別の言語使用の在り方を典型的に示すものであると、彼は考えた。

 私は次のことに君の注意を促している:この言語ゲームは、君が考えているものとは/見た目とは遥かに異なっているということに。
君はうめきを記述であるとは呼べないだろう!だが、そのことは、「私は歯が痛い」という命題が「記述」からいかにかけ離れたものであるか、また「歯痛」の語の使用を教えることは「歯」という語を教えることからいかにへだたっているかを示しているのだ(PO p262)

 黒田亘は、一人称体験記述命題(「表出」を黒田はこう呼んでいる)が検証を持たないことの発見が、ウィトゲンシュタインの哲学上の大きな転換点となったと論じた。(『経験と言語』p179~)
同様の指摘は、Hans-Johann Glock,A Wittgenstein Dictionary, p51でもなされている。

3.
ウィトゲンシュタインは、時折「反応Reaktion」という言葉を、「記述」に対立する意味を含ませて使用している。つまり、「表出」に類似した仕方で。ただし、「反応」の領域には、もとより身振り、まなざし等が含まれており、言葉は必ずしも主要な位置を占めるわけではない(cf.PPF289)。

 私がそれでもって自らの記憶を表現する言葉は、私の記憶反応Erinnerungsreaktionである。(PI343)

自分のしようとしたことを述べるとき、わたしはその人に自分の内面を開示する-だが、自己観察に基づいてでなく、反応Reaktion(直観Intuitionとも呼べるだろう)によって、である。(PI659)cf.PI657

 4.
痛みの表出は、表出の典型的な例であるが、他にも意図の表出、信念の表出等々、様々なものがあり、それぞれの登場する言語ゲームも一様ではないことに注意しよう。
例えば、注目すべきものに、「今やっとわかった!」という叫びがある。

 では、「今やっとわかった!」というひらめきの言葉に対応する特定の体験はないのか? ない。(・・・)

-「<今わかったJetzt verstehe ich's>という言葉は信号Signalなのであって、記述ではない」と、私は言いたい。(RPPⅠ691)

 「信号Signal」という言葉も、「記述」との対照で、たびたび登場する。

 理解することは、どう続けてゆけばよいかを知ることに似ている。すなわちある種の能力に似ている。しかし「私は・・・を理解している」というのも、「私はその先を知っている」というのも、一つの表出行動Äußerungであり、一つの信号Signalなのである。(RPPⅠ875 佐藤徹郎訳)

 注意すべきことには、これらの表出は、発語時点より後の行為の結果によって正当化されるという特徴を持つ。(痛みの叫び等との違い)

 このようにこれらのことばは用いられる。たとえば、この最後の場合 [注「いまや、わたしはその先を知っている」] に、ことばを「ある心の状態の記述」と呼ぶことは、きわめて誤解をまねきやすいことであろう。-むしろ、ひとはそのことばをここでは一つの「シグナル」と呼ぶことができよう。そして、それが正しく応用されたかどうかを、われわれは、かれがそのあとで何を行うかによって判定するのである。(PI180 藤本隆志訳)