「説明」の周辺(41):「美学的説明」と「体験の表現」、再び「比較の体験」について

1.

「美学的説明」と「アスペクト体験の表現」との類比に向けて。

以前、ウィトゲンシュタインアスペクト知覚論において、「・・・を○○○として見る」という形式の言表だけでなく、それとは異なった形の「アスペクトの閃きの体験を表現する、さまざまな形式の発言」が議論の対象とされていることに注意した。

ウィトゲンシュタインは、アスペクト視覚を表現する狭義の形式の命題「私は・・・を。。。として見る」「わたしは。。。と・・・に類似を見る」だけでなく、アスペクトの閃き(あるいはその体験)を表現するさまざまな形式の発言をも同様に考察の対象としている。「ウサギ!」という叫び(PPF138)、「浮かんでいるのが見える!」(PPF169)、「ああ、これは2つの六角形だ!」(PPF189)、「見てごらん!この眼がどのように見ているかを」(PPF201)、「いま、それは家だ!」(PPF207)等々。( “ Wittgenstein intersection” )

 前回見た、『探究Ⅱ』§209においても、「口調の中にアスペクトの閃きが表れ出ている」と言われていた。

 

まず気になることがある:これら「アスペクトの閃きの表現」は「体験の表現」なのだろうか?

 

アスペクトの閃きの表現、特に「 叫びAusruf」と、 視覚体験、知覚、思考etc.との関連については、例えば『探究Ⅱ』§138~140で取り上げられている。(ただし、決してわかりやすく述べられてはいない。)

私がある動物を眺めている。「何を見ているのか?」と訊ねられて、「ウサギだ」と答える。― ある景色を眺めていると、突然目の前をウサギが走り去る、「ウサギだ!」と私は叫ぶ。

報告Meldungと叫びAusrufは、どちらも知覚や視覚体験の表現Ausdruckである。しかし叫びがそれらの表現であるのは、報告とは違った意味においてだ。叫びは、我々が思わず発するものなのだ。― 叫びと体験の関係は、悲鳴と痛みの関係に似ている。

 

しかし、この叫びは、ある知覚の描写なのだから、それを思考の表現Gedankenausdruckと呼ぶこともできる。― 対象を眺めている人は、それについて考えているとは限らない。しかし、叫びによって表現されるような視覚体験Seherlebnisをしている人は、自分が見ているものについて考えてもいるのだ。

 

それゆえ、アスペクトのひらめきは、半ば視覚体験であり、半ば思考Denken であるように思われる。( PPF 138-140、鬼界彰夫訳 )

 

※「思考」は、「体験」や「経験」とは(言語ゲームにおける)カテゴリーを異とする、と彼が捉えていたことについては以前に指摘した。例えば、次を参照。

私は、思考を体験と呼ぶことができない。(LPPⅠ810)

しかし<考える>という概念は、経験概念Erfahrungsbegriffではない。というのも、人は経験Erfahrungを比較するようには、思考を比較しはしないからである。(RPPⅡ257 野家啓一訳 cf.Z96)

その意味するところは、人が「体験」に対して持つ関心と、「思考」に対して持つ関心とは方向性が異なっている、ということであった(cf. PPF282,RPPⅠ184,619 )。

  

ともかく、ウィトゲンシュタインに従うなら、「半ば」という留保付きではあるが、「アスペクトの閃き」は「叫びによって表現されるような視覚体験」である。

ただし、「ウサギだ」という「報告」も「視覚体験の表現」であるが、「叫び」とは違った意味で、そうなのだ、と言われている。この「違った意味で」はどのような意味で、であるのか?重要なこのポイントについては、今は立ち入ることができない。

 

アスペクトの閃き」を、彼が特定の種類の「体験Erlebnis」あるいは「経験Erfahrung」として捉えていること、その「表現」のあり方に関心を寄せていたことは、4.でさらに確認する。

ここでは、ウィトゲンシュタインに従って、「アスペクトの閃きの表現」は「アスペクトの閃きの体験の表現」でもある、として先に進む。

 

 2.

ここで、前回取り上げた種類の「美学的説明」と、「アスペクトの閃きの体験の表現」とを類比する考えが浮かんでくる。

「いま、行進曲だ」の2つの使用を考える(cf. PPF111-2)。

①私は、ヘッドフォンを装着して、ある演奏会の録音を聴いている。隣にいる友人には、その音は聞こえない。ある時点で、私は「いま、行進曲だ」と、友人に伝える。

②彼はオーケストラを指揮している。(来週の演奏会のための練習なのだ。)同じ曲をテンポを変えながら、くり返し演奏させている。彼は指揮しながら、ある演奏の途中で、「いま、行進曲だ」とメンバーに伝える。(cf. PPF209)

”「説明」の周辺(40)”

「いま、行進曲だ」の使用②では、テンポの変化によって演奏が行進曲の表情となった瞬間、ある主体(指揮者)により、「いま、行進曲だ」という発話utteranceがなされた。

「いま、行進曲だ」という発話は指揮者の「アスペクトの閃き体験」の表出である。見方を変えれば、そう言うことができよう。

 

思い出されるのは、「アスペクト知覚の体験」にも、閃き、恒常的な見え、傾向性的、といった区別があることだ。(cf. PPF118,RPPⅠ524,  LPPⅠ472 )

この種の「美学的説明」は、その中の「閃きの体験の表現」のみと類比されるべきなのだろうか? 

そもそも「体験の表現」に類似している、とはいかなることだろうか?

 

3.

まず、「体験」の概念について明確にしておく必要があろう。

しかし例によって、ウィトゲンシュタインが「体験」概念に与えている内容は明確とは言い難い。

以前、その解明の端緒となるべく、いくつかの点について触れておいた。

“体験と持続、不適切な問い”“心理的概念のアスペクト”

解明を続けるには、テクストの広範囲にわたる読み直しが必要なため、ここでは困難である。

したがって、そこでの暫定的な理解のまま先に進むが、次のようなキーワードとその連関について思い出しておこう。また、様々なことが未整理のままになっていたことも。

真の持続、程度、経過

「体験」概念のモデルとしての感覚Empfindung、情動Gemütsbewegung

注意

体験内容と志向内容という対照

表出としての一人称、観察に依る三人称

体験Erlebnis と経験Erfahrung

(cf. RPPⅠ836, RPPⅡ63, 148)

 

4. 

ウィトゲンシュタインが、アスペクト知覚の体験としての側面に特別な関心を表明していたことをもう一度確認しよう。彼はそれをある特別な体験カテゴリーに属するものとして捉えている。

ある顔と別の顔との類似を見て取ること、ある数学形式と他の数学形式との類似を、判じ絵の描線のうちに人間の姿を、図式のうちに立体を見て取ること、”ne...pas"という表現の中の”pas"を「一歩」という意味で聞いたり話したりすること、-これらすべての現象はとにかく似てはいるが、また非常に異なってもいる。(視覚、聴覚、嗅覚、運動感覚)

それらすべての場合に人は一つの比較Vergleichを体験するerlebeということができる。なぜなら、われわれがある比較、ある言い換えをしたくなるということが、この体験の表現の内容だから。
それはその表現が一つの比較であるような体験にほかならない。(RPPⅠ316,317)

すなわち、「比較の体験 」― 例えば「・・・を○○○として見る」ことは、その一つである。

それが「比較の体験」である理由は、その「表現」が比較であるからだーこのことも覚えておこう。

 

一方で、アスペクトの閃きの表現を、彼は驚きの表現に類比する。

 アスペクトの閃きの特徴的な表現とは何か。誰かがこの経験Erfahrungをしたことを、私はどうやって知るのだろうか。-その表現は驚きUberraschungの表現に似ている。(LPPⅠ437 古田徹也訳)

それを彼はまた、(上でも見たように)叫び Ausruf、と呼ぶ。「叫び」は彼によれば、体験の表現である。

その絵が二通りに解釈できることにある人が初めて気付いたとき、その人はたとえば「おや、うさぎだ!」と叫ぶことなどによってそれに反応するかもしれない。(・・・)
相貌を見る体験Erlebnisの自然で原初的な表現がこうした叫び声Ausrufなのであり、それは眼の輝きによって表されてもよかったはずだ、と私は言いたい。(何か目につくものがある!)(RPPⅠ861,862 佐藤徹郎訳)
 
そしていま、アスペクト転換[が生じる]。
新たなアスペクトの体験Erlebnis。あるいはアスペクト出現の体験。そして、その表現は叫びAusrufである。「ウサギだ!」など。(LPPⅠ474 古田訳)cf.PPF 138

 

5.

ここまで見たように、彼は「ウサギだ!」のような、必ずしも、主体を指示する表現を含まないものについても、状況に応じて「体験の表現」と呼ぶ。その際、重要な規準となるのは、発話の際の声の抑揚、口調、表情等であろう(cf. PPF169, 207, 209)

このような捉え方に対しては批判もあろうが、ここでは、ウィトゲンシュタインの流儀に従って進む。(問題は「表現」概念の多義性にあるが、ここではその検討に立ち入る余裕はない。)

 

 では「ウサギだ!」や「いま、行進曲だ」を「体験の表現」に類比する根拠となるポイントは何か?

それについてウィトゲンシュタインはあまり語っていないが、当ブログでは、「いま、行進曲だ」の使用②が「体験の表現」に類比できる理由を、次のように考えてみたい。

 

・使用②における「いま、行進曲だ」と言う発話utteranceから、特定の主体を参照することができ、その主体に「体験」を帰属することができる。

・同様に、その発話から、特定の時点ないし期間を参照することができ、その時点(期間)に「体験」を帰属させることができる。

・同様に、その発話から、特定の場所を参照することができ、その場所に「体験」を帰属させることができる。

 

6.

「・・・を○○○として見る」のような形式を備えていない「いま、行進曲だ」「ウサギだ!」のような言表を、ウィトゲンシュタインアスペクト知覚論で考察の主な対象の一つとした理由は、そのような言表が「体験の表現」とされること、アスペクト知覚論が体験経験の考察でもあったこと、を考えれば、自然と納得されるだろう。

ただし、厄介な問題が残る。

この経験Erfahrung を、私は「アスペクトに気づくこと」と呼ぶ。

その原因に、心理学者は関心を持つ。

われわれの関心は、この概念、およびそれが諸々の経験概念Erfahrungsbegriffeの中で占める位置にある。(PPF113-5)

上の文章では、「アスペクトに気づくこと」は経験である、とされる。

 ここには、<ウィトゲンシュタインにおける、「体験Erlebnis」と「経験Erfahrung」の異同>という、微妙な問題が控えている(”体験と持続、不適切な問い”)。その解明のためには、遺稿を広範囲に読み直すことが必要であろうし、今の筆者には困難である。しばらくは、体験と経験とを同様の概念として、大きく区別せずに扱っておこう。

 

7.

さて、“「説明」の周辺(35)” で、次のように書いた。

当ブログが「美学的説明」を通して探っているのは、「2つの使用」の問題系と「imperfective aspect と関連づけ」の問題系とのつながりである、と。

(ここで「関連づけ」とは、「理由づけ」や「美学的説明」「比較対照」を含む、広い意味での「説明」を意味する。”「関連づけ」と半過去””説明とimperfective aspect” )

 

前回と今回の考察により、「2つの使用」問題には、「時間的 / 無時間的使用」と「体験の表現」という2つの相が交錯していることが明らかになった。

特に、前回の②のような「美学的説明」において、「体験の表現」かつ「無時間的使用」という二重性が見て取れた。その「無時間的使用」としての機能は、非因果的つながりの提示という「関連づけ」である。

『探究Ⅱ』§140に倣って、

②の「いま、行進曲だ」は、半ば時間的使用(体験の表現として)であり、半ば無時間的使用である、と言いたくなる。

 

このように「美学的説明」を通して、「無時間的使用」と「体験の表現」との結びつき、という問題が姿を現した。

粗っぽく言えば、「無時間的な文」は、「体験の表現」化によって、ある種の「時間化」を受けるのである。そこにおいて表現の時間的アスペクトが意味を持ってくるだろう。

次回、それについて触れることで、(“3つのコンセプト” 以来の懸案だった)「説明」と「体験」との関り への導入についてまとめたい。