心理的概念のアスペクト

1.
体験と体験ならざるものの対立に関連する、もう一つ別の差異が、ウィトゲンシュタインによって繰り返し取り上げられている。
それは、RPPⅠ836で<経験Erfahrung>を特徴付けるものとされていた<持続Dauer>という時間的様態にかかわる差異である。 

心理的概念の取り扱いについてのプラン。
(・・・)
感官感覚Sinnesempfindungen:それらの内的連関と類比
すべての感官感覚は真の持続echte Dauerを持つ。始まりと終りを特定できる可能性。同時性、つまり同時に生起する可能性。
すべての感官感覚には程度があり、また質的な混和が可能である。程度:感じられない-耐えられない。(RPPⅡ63)
心理学的諸概念の分類の続き
様々な情緒Gemütsbewegung。それらに共通する真の持続、経過。(怒りは燃え上がり、和らぎ、消え去る。喜び、憂鬱、恐怖もまた同様である。)(RPPⅡ148 野家訳)

 <真の持続>という概念ー典型的例となるものは、感官感覚 である。持続するもの同士は、随伴可能でもある。

2.

<真の持続>と<注意Aufmerksamkeit>の関連に注意。

 真の持続が存在する場合には、「注意して、体験内容(像、物音など)が変化したら、わたしに合図せよ」と人に言うことができる。
その場合には、概して、注意を注ぐことAufmerkenが可能である。他方、知っていたことを忘却すること、またはそれと同様のことを注意してたどることはできない。(よく当てはまるわけではない。われわれは、自分自身がもっている表象もまた注意してたどることはできないのだから)(Z81 cf.RPPⅡ50)

<真の持続>に関して、「意識状態」と「傾性Disposition」は対立する。また、時間の幅の中で生起する事象であっても、<真の持続>ではないもの、(例えば「理解」「意図」)が存在する。

 私は<意識状態Bewußtseinszustand>について語ろうと思う。その際、一定の像を見ること、音を聞くこと、痛みの感覚、味覚、等々をそう名づけたい。私は、信ずる、理解する、知る、意図するなどは意識状態ではない、と言いたい。これら後者[の状態]をさしあたり「傾性Disposition」と呼ぶとすれば、傾性と意識状態との間の重要な違いは、傾性は意識の中断ないし注意の移動によっては途切れない、ということである。(これはもちろん、因果的な注釈ではない)。人はそもそも、自分はあることを昨日から「途切れなく」信じている、あるいは理解している、などと言いはしない。信じることの中断とは信じていない期間のことであろうし、例えば信じている事柄から注意を外らすことや、あるいは眠ることではないであろう。
([英語の]'knowing'と'being aware of'との違い)(RPPⅡ45  野家訳 cf.Z85)

だが、なぜ私は、かの思考は体験Erlebnisではない、と言いたくなるのか。 - 人は<持続>について考えることができる。もし私が一語を発する代わりに一文全体を述べたとすれば、発話の中のある時点を思考の始まった時点だと言うこともできなければ、思考が生起した瞬間だと言うこともできないだろう。また、その文の初めと終わりを思考の始めと終りと呼ぶとすれば、思考の体験はその間ずっと一様であったと言うべきなのか否か、あるいは、思考の体験は文の発話それ自身に類似した過程であると言うべきなのか否か、それは明らかではない。
(・・・)しかし<考える>という概念は、経験概念Erfahrungsbegriffではない。というのも、人は経験Erfahrungを比較するようには、思考を比較しはしないからである。(RPPⅡ257 野家訳 cf.Z96)

意図Absichtないし志向Intentionは、情緒や気分Stimmungでもなければ、感覚や表象でもない。意図は意識状態ではない。それは真の持続をもたない。意図を、心的傾性seelische Dispositionと呼ぶことができる。ただし、人はこのような傾性を経験を通して自らの内に知覚するのではない。その限りで、この表現は誤解を招きやすい。(RPPⅡ178 cf.Z45)

 先に「体験ではない」とされた概念、例えば、「思考」「意図」「理解」・・・は<真の持続>をもっていない。ではすべての「体験ならざる」心理的概念がそうなのか、<真の持続>をもつならそれは<体験>と言っていいのかといった問いについては簡単に答えることはできない。

3.

ウィトゲンシュタインアスペクト、と言えば、誰もがアスペクト知覚の議論を思い浮かべる。
だが、同時に心理的概念の時間的様態に関する議論が展開されていたことにも注意しよう。言語学における、行為のアスペクト(Aktionsart)との類比で、そのような時間的様態を心理的概念のアスペクトと呼べるかもしれない。(付け加えると、哲学におけるアスペクト論の先駆けとなったG・ライルの Concept of Mind と、ウィトゲンシュタインの「心理学の哲学」は時代的に重なっている。)

※いうまでもなく、アリストテレスが行為のアスペクト論の遥かな先駆者であった(『形而上学』のエネルゲイアに関する議論)。そのアリストテレスについて、ウィトゲンシュタインは、一語も読んだことがないと告白している(Recollectins of Wittgenstein,p158)。

さらに指摘しておくなら、「・・・として見る」の考察では、その意味でのアスペクト、すなわち アスペクト視(知覚)のアスペクトが、考察の焦点となるのである。(cf.PPF199)

4.

ただし、ウィトゲンシュタインの注目する心理概念の時間的様態は、言語学において一般的な、進行、完成、結果といった相(アスペクト)には収まりがたい種類のものに及ぶことに注意したい。
例えば、上で引用したRPPⅡ148で「経過Verlauf」と呼ばれているものが、それに関わっている。
一般的な「経過」から大きく逸れてゆくような「情緒」を、われわれは理解できないであろう。


「悲しみ」という語は、われわれにとって、生活という織物の中でさまざまに変動しつつ、くりかえし起こるパターンを記述するものである。もしある人が示す悲嘆と喜びの身体表現が時計のカチカチ鳴る音とともに交替するようなものであったら、この場面では、われわれとっては、悲嘆のパターンに特徴的な経過も喜びのパターンの経過も存在しないのである。( PPF2)
「かれは一秒間はげしい痛みを感じた」-「彼は一秒間ふかい悲哀を感じた」というのがなぜ奇妙に響くのか。単にそれが稀にしか起こらないからなのか。(PPF3)

 それというのも、われわれは、「生活という織物」を背景にして、それらの心理的概念を把握するからである。いわば、生活形式というグリッドを通して。

 人間の行動はどのように記述できるだろうか。ただ、色々な人間の行為について、それらが互いに入り組んだ仕方で群がっている様を描写することによってである。ある人が今為したことや、個々の行為ではなく、人間の行為の群れの全体が、すなわちわれわれが個々の行為をその下においてとらえる背景が、われわれの判断、概念、反応を決定するのである。(Z567 菅訳)