『論考』の射程

1.

前回まで、特定の結果を操作(過程)に本質的なものと見なすことで、ウィトゲンシュタインが「円環」とよぶ構造が造られることを見てきた。

そもそも「操作」や「過程Vorgang」は、時間のなかで進行する事象である。

したがって、「発端」や「途中」、「終結(結果)」といった、時間的な相(アスペクト)を持つ。

算術の命題「4+1=5」は、確かにわれわれの行う操作と結びつけて語ることが可能だった。しかし、そのように見えない命題が、「三角形の内角の和は180°である」のように、数学にはいくらも存在する。ここには「操作」や「過程」に結びつく時間的環境を問題にする余地はなさそうに見える。
ゆえに「文法」「規則」の問題を考えるのに、操作とその結果という視点から見るのは狭過ぎる、と言われるかもしれない。

 2.

さきの命題「三角形の内角の和は180°である」において、「内角の和が180°である」ことは、「三角形」にとって「本質的である」と言われる。

このように、数学的命題について、それは特定の(数学的)対象について、その「本質的性質」を述べるものである、と見なすことができる。(その「対象」は、「三角形」でも、「4+1」でもよいだろう。)

 

すると、ある性質をその対象に「本質的」と捉えることで、
その「本質」(「内的性質」)をもたないものは、かの対象ではない、という論理的な結びつきが形成される。
(これも、ある「概念」の形成 として捉えることができる。cf.RFMⅥ 8)

 課題:音の数-あるメロディーの内的性質;葉の数-ある木の外的性質。それはその概念の同一性とどう関連するか。(ラムジー。)(RFM Ⅰ 77)

ここで、『論考』の思想との関連が明らかになっている。

 

 3.

すでに見たように、ウィトゲンシュタインは「本質的」な性質を「内的性質」と呼んだ。
最晩年まで続いた「内的性質」という概念の使用は、『論考』の時期にまでさかのぼることができる。

 ある意味でわれわれは、対象や事態の形式的性質について、あるいは事実の構造の性質について、論じることができる。またそれと同じ意味で、形式的関係や諸構造の関係について論じることができる。
(構造の性質という代わりに、私はまた「内的性質」ともいう。そして諸構造の関係の代わりに「内的関係」と。・・・)(TLP 4.122 野矢茂樹訳)

 こうした内的性質や内的関係は命題によって主張され得ず、その事態を描写し、その対象を扱う命題において、示される(TLP 4.122 )。

 ある対象がその性質を持たないとは考えられないとき、それは内的性質である。
(この青色とあの青色は、その本性上、より明るい/より暗いという内的関係にある。これら二つの対象がその関係に無いことは考えられない。)
(ここで「性質」や「関係」という語の用法の揺らぎに、「対象」という語の用法の揺らぎが対応している。(TLP 4.123 野矢訳)

 しかし、日常言語の現実に目を転じると、、ある対象のどのような性質を「本質的」とみなすかは流動的であり、その意味で「概念」も流動的であると言える。

 しかし、なぜ私は列の性質が展開され、示されると感ずるのか。-私は、示されるものを交互にabwechselnd、その列に本質的なもの、非本質的なものとみなすからである。あるいは、交互に外的、内的なものとしてこれらの性質について考えるからである。私は、交互にあるものを自明のものと受け入れ、注目に値するものと考えるからである。(RFMⅠ 85 中村秀吉・藤田晋吾訳 cf.Z 438, PI 79)

 したがって、ある命題が、あるときは本質を語る命題として扱われ、別の時には経験的な事実を語る命題として使用される。それが、少なくとも『数学の基礎』の時期のウィトゲンシュタインの認識であった。

 

4.

『論考』における数学論からは、当時ウィトゲンシュタインがどこまで数学について具体的に考えていたかを断定することは困難である。しかし、論理学について、次のように語られていた。

 論理学においては過程Prozeßと結果は同等である。(それゆえ、いかなる驚きも生じない。)(TLP 6.1261 野矢訳)

(その直前の断章6.126では、論理の命題の証明について述べられている。だから、ここでの「過程Prozeß」は証明に関わる過程を指していると受け取るのが自然である。)

 そして、『数学の基礎』の編集者は、注釈で、次の文章について、上の文を参照するように指示している。

 (私はかって、「数学では過程Prozeßと結果は互いに同等である」と書いた。)(RFMⅠ82)

『論考』における論理の命題と数学的命題の位置づけについて、この場で詳しく検討する余裕はない。ただ、いずれの命題も「疑似命題」とされていること、「世界の論理」をそれぞれ異なった方法で示す、とされていることを確認しておく。

数学とはひとつの論理学的方法にほかならない。

数学の命題は等式であり、それゆえ疑似命題である。(TLP 6.2)

論理学の命題がトートロジーにおいて示す世界の論理を、数学は等式において示す。(TLP 6.22)

数学は論理を探求するひとつの方法である。(TLP 6.234)

数学的方法の本質は、等式を用いて仕事をするという点にある。(TLP 6.2341)(いずれも野矢訳)

『論考』が言うように、論理学と数学は「世界の論理」を示すための異なった方法であるとすれば、「過程と結果の同等性」というテーマが共通して現れることは理解されるだろう。

ここでは詳しく説明できないが(例えば奥雅博『ウィトゲンシュタインの夢』を参照。)、『数学の基礎』に先行する『考察』『文法』における中期の数学論は、「過程と結果の同等性」という、『論考』の論理学に対する考え方を、初等的な数学に適用して考察を展開したものであるとみることができよう。

ケンブリッジ復帰後の中期の思考は、『論考』の枠組みの修正から始まっており、中期の数学論は基本的には『論考』の基本的思想が展開されたものと見てよいと思われる。

 

 これまで見てきたように、「過程と結果の同等性」という見方は、『数学の基礎』の時期にも継承されている。

 「この過程Prozeßがその数に導くことが、その数の性質である。」-しかし数学的にいえば、いかなる過程もその数に導くものではなく、その数はある過程の終わりEnde(それはやはりその過程に属する)である。(RFMⅠ84 中村・藤田訳 )

 ここに、『論考』と後期の数学論に含まれる一つの見地との共通点が現れる。

※付け加えるなら、「計算は実験ではない」という主張は、すでに『論考』で現れている(6.2331)。

 

 5.

 『論考』‐中期‐『数学の基礎』を通して、「論理・数学における、過程と結果の同等性」という見方が共通のものとして貫かれている、と考えられる。

そこで重要になるのは、『数学の基礎』においては、それが「一つの見方」に過ぎないこと、もう少し正確に言えば、数学の営みの一側面を見ているに過ぎないこと、である。

「文法と応用」で触れたように、『数学の基礎』では、中期の数学論とは違って、数学に対する、応用の存在の重要性(意味)が強調される。その理由について、両方の内容を細かく検討した上で答えることは、多大な時間と労力を要する。ここでは、単に、「論理・数学における、過程と結果の同等性」という見方が一面的である理由を大まかに見ていけば、と思う。

 

 そこに立ち入る前に、2つのトピックについて触れたい。

ひとつは、数学的命題が表すものを数学的対象と内的性質の関係と見ることによって消え去ったように見えた「時間的環境」について再考すること、

もうひとつは、「できる」「理解する」「意味する」等の語を使った、主体と規則の関係に関わる言語ゲームについて、である。