1.
以前、「2つの使用」について取り上げた時、「無時間的使用」についても触れ、それ以来、あたかも「2つの使用」の一方と「無時間的使用」が同じ概念であるかのように扱った。
しかし、そのように単純に両者を等置することは不適切である。
前者(「2つの使用」の一方)は、「無時間的使用」の(全てではなく)一部として捉えるべきである。その理由について、以下で説明する。
※当ブログが取り上げる「2つの使用」という概念は『探究Ⅱ』 111-2節から採られているが、『数学の基礎講義』p58-9(邦訳p101-4)等の他のテクストとの類比によって、適用を広げていった。それについては、ここでは繰り返さない(上の記事を参照)。それは当初、「数学の基礎」論とアスペクト知覚論に共通する問題を見るために持ち出された類比、概念であった。
まず、ウィトゲンシュタインが取り上げている美学的な文言について、「2つの使用」に即した使用例を考え、「美学的説明」の重要な特徴について確認しよう。
私は、ある音楽的主題をくり返して、その都度テンポを遅くしながら演奏させる。最後に私は「いまちょうどいい。」とか「いまようやく行進曲だ」とか「いまようやく舞踏曲だ」とか言う。-この口調の中にアスペクトの閃きもまた表れ出ている。( PPF209 )
「いま、行進曲だ」の2つの使用を考える(cf. PPF111-2)。
①私は、ヘッドフォンを装着して、ある演奏会の録音を聴いている。隣にいる友人には、その音は聞こえない。ある時点で、私は「いま、行進曲だ」と、友人に伝える。
②彼はオーケストラを指揮している。(来週の演奏会のための練習なのだ。)同じ曲をテンポを変えながら、くり返し演奏させている。彼は指揮しながら、ある演奏の途中で、「いま、行進曲だ」とメンバーに伝える。
②を、「美学的説明」の例とすることができるだろう。
それに対し、①は「美学的説明」とは呼べない。
その理由について考えてみよう。
②では、ある例が提示されて、それが「行進曲」のカテゴリーに入ることが述べられている(シネクドキ型の説明)。
そして「行進曲」であることは、そのテンポや「表情」によって、感じ取られる。②の現場では、指揮者がそのこと(「行進曲」であること)を、演奏するメンバーに、実例を共有することで伝えようとしている。その「共有」は感覚を通じた共有である。
ここで指揮者は、メンバーとの間に、具体例を使用した合意形成(「これが、行進曲だ」)を行おうとするのだ。
このように、音楽作品についてなされていること、その感知される内容についてシネクドキ型の説明になっていること、さらに、合意形成に役立つことを、②を「美学的説明」と呼ぶことの理由として挙げたい。
それに対し、①では、具体例が提示されず、その存在のみが指示され、それが「行進曲」のカテゴリーに入るものであることが報告される。
その他、②については、それが(「いま、・・・」である、という)「一瞬の表情」を指示するものであることに注意したい。
この「いま、」という指示は省略されることも可能である。「これが、行進曲だ」でもよいし、あるいは、ただ「行進曲だ」でも通じる場合があるだろう。省略される場合には、発話utterance自体が、「いま」「これ」のように、時点や具体例を指示する機能を果たすこと、に注意しておこう。
さらに、演奏会に向けた練習中になされた発言であることから、②の使用は、「いま」や「これ」で指示された特定の時点や個別的演奏に重要性(関心)があるのではなく、「範例」の提示に関心があるのだ、と理解できよう。
2.
②の「いま、行進曲だ」は、時間的使用なのか、無時間的使用なのか?
一見、これは愚問のようである。文面の中に「いま、」という語句が含まれているのだから。
だが、上のことを踏まえて考えてみよう。
②は、「いま、」という、時点を指示する句を含んでいる。しかし、上で注意したように、その「いま、」は省略されることも可能であるし、「いま」で指示された特定の時点には話者の関心はない。
ただし、「いま」を使わずに述べることは可能であるにしても、②の使用には具体的な例を指示して述べる必要がある。その具体的な例とは、時間の流れの中にある現実の事象である。その意味で、②は時間的使用である、と言いたくなる。
(PPF209で、ウィトゲンシュタインが、「いま」や「この」を強調していることの意味を考えること。)
しかし、②は、その事例となった演奏について何かを述べることが目的なのではない。来週の演奏のために、特定のテンポで演奏されるという、作品の 特定のフォルムについて伝えることが目的である。そのフォルムは、特定の時点に結びつくものではない。
ウィトゲンシュタインが『探究Ⅱ』のアスペクト視覚論の導入で、
「“見る”の2つの使用」について重要なのは、「それぞれにおいて見られる“対象”のカテゴリー的な違い」(PPF111)である、
と述べていたことを思い出そう。
①と②を区別しようとする根拠も、伝えようとする内容の「カテゴリー的な違い」にあるのだ。そして、②が提示しようとするものは、特定の時点に縛られない「範例」であった。
したがって、②は無時間的使用である、と言いたくなる。
この事態は、「これが、マゼンタだ」と、同色の色紙をサンプルにして直示的定義を行う場合に似ている。「これが、マゼンタだ」を、サンプルとなった色紙について何かを記述する文とみなすことは、ウィトゲンシュタインに言わせれば、「直示的定義は注意を差し向けられた対象について何かを語る、という思い込み」の誤謬である( BBB, p175)。
いま、これらの考え方について詳しく検討する余裕はない。ここでは、②は無時間的使用でもある、として、一旦先に進む。
ただ、ウィトゲンシュタイン自身が次のように、(文の形式は「いま、行進曲だ」とは異なるが)時間的/無時間的使用の決定不能性について思いを巡らせていること、いずれにせよこれが単純な問題ではないことには注意しておこう。
しかし、この文の意味に時間の要素が入っているか、それとも無時間的かというのは、この文が実地で使用されている際にも常に明確なのだろうか。― とある二人の兄弟を考えてみよう。私が彼らに出会い、それから「ああ、私には彼らが似ているように見える」と言う。私はそのとき、MとNというこの二人の人物がいま現在似ているということを意味していたのだろうか。(彼らは以前は似ていなかったりしたのかもしれない、等々。)―あるいは、この二人の人物それぞれの風貌―どちらの特徴もたとえば絵で捉えられる―が似ていることに私が気づいた、ということを意味していたのだろうか。―私が「彼らが似ているように見える」と言ったとき、どちらの意味で言ったのかと尋ねられても、はっきりと答えられただろうか。( LPPⅠ153、古田徹也訳)
3.
ここで、「無時間的使用」を、「具体例の提示を伴うもの」と「具体例の提示を伴わないもの」とに分割する、というアイデアが浮かんでくる。
そして、②は、前者に属する、という考えが。
後者には、例えば、ある形式的な論証の前提として、ただ挙げられた(無時間的内容の)命題(「三角形の内角の和は2直角である」のような)、が当てはまるだろう。
(そして①は、時間的使用として、両方に対立する。)
では、「美学的説明」は、このような分類に対してどのような位置に収まるのか?
前者に属するのだろうか?
「美学的説明」の中には、具体例を目の前にしてなされず、例えば、相手の記憶を呼び起こしながら行われるものもある。「あの時の演奏を覚えているだろう?あれがウィーン風の演奏だよ。」のように、記憶の中の演奏が「範例」の役をする場合が考えられよう。(この場合でも、「あの時」という特定の時点には重要性(関心)はないのである。)
これは「具体例を提示する美学的説明」なのだろうか?
仮にそのような「記憶の中の範例」も「具体例」に含めるとするなら、どこまでが「具体例」なのだろうか?
あるいは、名前しか知らない、特定の芸術作品に対してなされる「美学的説明」もあるのではないか?
(ただし、それはウィトゲンシュタインが言うような、「美学的困惑を解消するためになされるもの」としての「美学的説明」ではないであろう。)
これらの問題に、今きちんと答えることはできない。
ここでは暫定的に、「美学的説明」は、「具体例を提示する無時間使用」と呼べる多くの事例を含むが、具体例を前に行われるのではないものをも含む、として先に進む。
4.
上で「具体例を使用した合意形成」を、「美学的説明」とする根拠の一つに挙げた。だが、①の報告も、報告を受ける者が感知できない対象 について、合意形成を目指している、とみなすことが可能ではないか?
この2つの「合意形成」の違いはどこにあるのか?
ここで、「概念形成Begriffsbildung 」というテーマが現れる。
ごく大雑把にまとめるなら、次のようなことになる。
①は、「行進曲」という概念を使用して、報告を受ける者が感知できない対象について描写する。
「行進曲」という概念には、何も変容は訪れない。
それに対し、
②は、「行進曲」という概念がこの実例を含んでいることの合意を形成しようとする。そこには、「行進曲」という概念、あるいは「(行進曲であることにおいて)同じである、似ている analogous」という概念の変容が起こる、とウィトゲンシュタインは見なす。
ここでは詳細を述べることはできないが、『数学の基礎講義』p58-9(邦訳p101~)、p63-4(邦訳p111~)、 『数学の基礎』 Ⅲ24, 31, 41,Ⅳ31,47 、『美学講義他』p32等を参照すること。
われわれはこういいたい。証明はわれわれの言語の文法を変え、われわれの概念を変える。証明は新しい連関をつくり、これら連関の概念をつくる。(証明はその連関がそこにあることを確立するのではなく、その連関は、証明がそれらをつくるまで、そこにないのだ。)(RFMⅢ31, 中村秀吉・藤田晋吾訳)
この意味で、②の使用は、「証明」に似る。
ただし、それは <われわれが、「行進曲」や「同じ」という概念が変化したと言う(認める)>ことを意味しない。ウィトゲンシュタインもそのことを意識している。
ある表現の意味がある仕方で揺れ動くということ、つまり、ある現象がある時にはある事態の徴候と見なされ、またある時には基準と見なされる、ということはきわめて普通のことである。またそのような場合には、大抵、意味の変化は気付かれない。(Z438、菅豊彦訳)
ウィトゲンシュタインのこのような考察は、「言語批判」の立場からなされている。ここには、「意味」という言葉に関して、われわれの日常の使用と、彼の考察における使用とが対立する局面が現れている。あたかも、哲学的混乱の解消という目標に至るまでには、(一時的に?)日常言語からの離反も必要であるかのようなのだ。
5.
さて、②のような「美学的説明」は、目の前の対象について発せられながら、特定の時点や対象を越えたものを伝えようとするのだった。次回は、それを「アスペクト体験の表現」に類比する。