計算することと計算しないこととの間

1.
われわれは規則に従う実践―例えば計算―に携わる。―そして、われわれはときに「し損なう(誤る)」。

だが、「誤る」とき、われわれは、それでも計算しているのか?
なぜ「計算間違い」であって「計算しないこと」ではないのか?

 

円環の閉じられた世界、すなわち「過程と結果が同値である」(TLP6.1261, RFMⅠ82)世界(『論考』の射程 - ウィトゲンシュタイン交点)は、「計算間違いの存在しない世界」、つまり、計算することと、計算しないことしかなく、中間のない世界であると言うことができるだろう。

 

2.

現実の世界で、我々にとって「計算する」とは何か。

「計算する」=「正しく計算する」+「誤って計算する」か?
どこまでが「誤って計算する」ことなのだろうか?
「正しく計算する」ことは規則によって確定されるとしても、「誤って計算する」ことは曖昧な境界をもたないだろうか?

『数学の基礎』の中で、次のような関連した問いが繰り返されているのは偶然ではない。

 計算しないことと、間違って計算することの違いとは何か?-あるいは、時間を測定しないことと、時間を間違って測定することのあいだにシャープな分割線は存在するか?どのような時間測定も知らないことと、間違った測定を知っていることのあいだには?(RFMⅣ 26)

君自身に問うてみなければならぬ:誰かが「単に書き間違えた」とか「まったく問題なく続けることもできたのだが、わざとそうしなかったのだ」とか「自分が描いた形をくりかえして描こうと意図していたが、そうならなかったのだ」とか、我々が言うのは、どういう特別な環境Umständen下においてか?(RFMⅥ 43)

間違って推論することと、推論しないことの違いは何であるか?間違って加算することと、加算しないことのちがいとは?これを熟考せよ。(RFMⅥ 48) 

 ここで「環境」あるいは「状況」への問いが現れることに注意。

ある主体の行為が「計算間違い」であるとされ、「計算しない」ことではない、とされる条件。これは、それぞれの環境、それぞれの主体によって実にさまざまであり、あらゆる場合に妥当する単純な基準は存在しない。われわれは、それぞれの機会において、さまざまな条件を勘案しながら、決定に至るであろう。
場合によっては、両者の区別が疑わしくなることも起こりえる(幼い子供の場合など)。

「規則に間違って従うこと」が成立するために、必要な条件は、常識的には、「その規則に従って行為しよう」とする「意志(意図)」の存在であろう。そのような「意志(意図)」の成立と、(それぞれのゲームによって異なる)種々の状況、環境の成立との関連が、ここで示唆されている。

 

3.
ここには、行為と意図(意志)の問題が顔を出している。
『考察』の時期、すでにこの問題が気づかれていたことを確認しておきたい。

 注目すべきことに、言語を理解するという問題は、意志の問題Problem des Willens と関係がある。
命令を遂行する以前にその命令を理解する、ということは、行為を遂行する以前にその行為を意志する、ということと同類な点がある。(PB 13 奥雅博訳)

 「行為」のみでなく、行為に関わる「道具」においても、似た問題が存在していることに注意する。

 ここで例えば、「これはブレーキレバーであるが、しかし機能しない」と語られるとすれば、そこでは意図Absichtについて話されているのである。壊れた時計を依然として時計と呼ぶ場合も、全く同様である。(PB 31 奥訳)

 われわれは、もはや正確に時を刻まなくなったものを、なおも「時計」と呼ぶ。
なぜ、それは「時計ではない」ものではないのか。

「壊れた時計」と「時計でないもの」との違いは何か?
こう問うてみれば、先の問いとの類似性が明らかになる。