表出される傾性

(前回より続く)

1.

④「理解」「信念」「できること」「意味している」等が、「状態」ではあっても、感覚、感じ、等の「状態」とはカテゴリーを異にする、と主張される時、

「理解」「信念」「できること」等は傾性であり、感覚、感じはそうではない、と単純に区別して理解することは不適切である。

 

確かに、感じ、感覚に代表される「状態」と、「理解」等が代表する「状態」、この2つの区別をウィトゲンシュタインは問題にし、後者を、ある種の傾性と呼んだ。

 人は「機能的状態」について語ることができよう。(それはたとえば、私は今日ひどく不機嫌である、というような場合である。人が私に今日かくかくのことを言うと、私はつねにかくかくの反応をする。これと対比されるのは、私は一日中頭痛がしていた、というような場合である。)(RPPⅠ61 佐藤徹郎訳)

 私は自分の痛みの移り行きVerlaufに注意を払うことができるが、しかし私の信念Glaubenや知識Wissenの移り行きに同じように注意を払うことはできない。(RPPⅠ972 佐藤訳 cf.Z 75)

私は<意識状態Bewußtseinszustand>について語ろうと思う。その際、一定の像を見ること、音を聞くこと、痛みの感覚、味覚、等々をそう名づけたい。私は、信ずる、理解する、知る、意図するなどは意識状態ではない、と言いたい。これら後者[の状態]をさしあたり「傾性Disposition」と呼ぶとすれば、傾性と意識状態との間の重要な違いは、傾性は意識の中断ないし注意の移動によっては途切れない、ということである。(これはもちろん、因果的な注釈ではない)。人はそもそも、自分はあることを昨日から「途切れなく」信じている、あるいは理解している、などと言いはしない。信じることの中断とは信じていない期間のことであろうし、例えば信じている事柄から注意を外らすことや、あるいは眠ることではないであろう。
([英語の]'knowing'と'being aware of'との違い)(RPPⅡ45  野家啓一訳 cf.Z85)

以上のような指摘は、妥当なものとして受け入れられやすいと思う。

 

 それに対し、議論を呼ぶのは次のような見解である。

意図Absichtないし志向Intentionは、情緒や気分Stimmungでもなければ、感覚Empfindungや表象でもない。意図は意識状態ではない。それは真の持続をもたない。意図を、心的傾性seelische Dispositionと呼ぶことができる。ただし、人はこのような傾性を経験Erfahrungを通して自らの内に知覚するのではない。その限りで、この表現は誤解を招きやすい。それに対し、嫉妬しやすい傾向Neigungは、本来の意味における傾性である。自分がそうであることを、私は経験的に知る。(RPPⅡ178 cf.Z45)

 「嫉妬しやすさ」のような「本来の傾性」は「経験を通して」知られる。その経験は「内なるもの」(例えば自分の中の感情)である場合も、外的な行為に現れた傾向(その認知)の場合もある。

それに対し、「心的傾性seelische Disposition」を、人は「経験を通して自らの内に知覚するのではない」。

この主張に対しては、さまざまな批判が寄せられるだろう。

 

2.

 「信じる」を例に取る。

私がこのように考える:信じることは心の状態である。それは持続する;たとえば、文章のなかでそれがどのように表現されるか ということから、それは独立して存在する。つまり、それは信じている者の傾性Dispositionの一種である。その傾性が明らかになるのは、他人の場合、その人の振舞い、言葉、からである。さらに言うならば、「私は・・・を信じる」という表出からも、信じている内容を単純に主張する言葉からも、その傾性は同様に明らかになるのである。―では、自分の場合はどうなのか?私はどのようにして、自分自身の傾性を認知するのか?―その場合には、他人に対するのと同じように、自分自身に注意を払い、自分の言うことに耳を傾け、そこから結論を引き出すことができなければならないだろう!(PPF 102)

「信じている」ことを通常の意味での傾性と考えるなら、この概念の使用の重要な側面を見逃している、とウィトゲンシュタインは主張するだろう。 

自分が、一定の内容を「信じている」ことを、人は自分自身の発言や振舞いの観察から知ったりはしない。

かといって、それを自己の内面から知るわけでもない。

「人は確信Überzeugungを感じるのであって、自分の言葉や声の調子からそれを推理するわけではない。」人はたとえばこのように言う。

しかし人が確信を感じるとは何を意味するのか。間違いないことは、人が自分の確信やその確信から生ずる行動を、自分の言葉から推理しはしないということである。(RPPⅠ710 佐藤訳 cf.PPF 100 )

以前取り上げた(「感覚によって知る」)、「恐れ」の場合(LPPⅠ39, PPF5)と同じことが、確信と「感じ」との関係についても言えるだろう。

つまり、その感じは、そこから判断が引き出される根拠でもなく、それを持ち出すことによって判断が正当化される根拠でもない。「・・・の確信を感じる」とは、およそ「・・・を確信している」ことの言い換えに過ぎない。

 

以前にも使用した言葉で言うならば、自分が信じている、理解している、知っている、意図している、意味している等の事実は、直接的に洞察される。言い換えれば、観察に拠らずに表出される

3.

とはいえ、「経験を通して自らの内に知覚するのではない」という主張の意味はいまだ十分に明確ではないし、その妥当性についても同様である。

その意味を検討する際のポイントについて簡単にメモする。

ⅰ)「君、この計算をしてほしいんだが、仕方がわかるかね?」「わかりますとも。」 このような、よくある、「理解」の表出についての検討。

ⅱ)「今、私にはそれがわかりました!」PI 151)この種の表出についての検討。前回のと合わせて考察すること。

ⅲ)「理解している」「できる」「意味している」等の言葉の、具体的場面での使用の仕方は、誰もが、経験的に身につけてゆくものである。あらゆる対象について、「理解している」「できる」等の意味が、一挙に与えられるわけではない。あることについて「僕、できます」と答えたが、実際にはできなかった、等の経験は、誰しも覚えがあるだろう。そこには経験による判断と、その当否が存在し、学習のプロセスがある。

そのような、習得場面での事実を認めた上で、なおも「経験を通して自らの内に知覚するのではない」と主張できるか。

 

4.

「恐れ」も「心的傾性」なのだろうか?いや、「恐れ」は<真の持続>を持つことによって、「心的傾性」から区別される。

様々な情緒Gemütsbewegung。それらに共通する真の持続、経過。(怒りは燃え上がり、和らぎ、消え去る。喜び、憂鬱、恐怖もまた同様である。)(RPPⅡ148 野家訳)

しかし、多くの「情緒」は、(例えば)何分も続く歯痛のような、均一的な質をもっていない。その違いは、「経過Verlauf」の違いである。

上に引用した考察で始まる『心理学の哲学Ⅱ』148は他にも、非常に重要な数々の洞察を含んでいる。

「情緒」の表出と感覚の表出との類似と差異はどのようなものか?「理解」の場合とどのように異なっているのだろうか?