体験と持続、不適切な問い

1.
心理的概念の風景を眺めるに当たって、まず何に注目したらいいのだろうか?

意外にも思えるが、心理的概念全般の分類に関して、体系的な整理を意図した断章を、ウィトゲンシュタインはいくつか残している。(RPPⅠ836、RPPⅡ63、148)。
それらのなかで比較的早期のものを見てみよう。

 心理的なものの全領域は<体験>Erlebenの領域と呼ばれるべきであろうか?したがって、たとえば心理を表す動詞はすべて<体験動詞>(<体験概念>Erlebnisbegriff)と呼ばれるべきであろうか?これらの動詞の特徴は、その三人称は観察に基づいて言明されるのだが、一人称はそうではない、という点にある。この観察とは、振る舞いの観察のことである。体験概念の下位区分の一つが<経験概念>である。<経験>Erfahrungとはある時間持続し、ある特定の経過をたどるものである。その経過は一様であることも、一様でないこともありうる。経験には強弱が在る。考えGedankeはこれらの特性を持ってない。想像Vorstellungは経験である。<経験>の下位区分の一つが<印象Eindruck>である。・・・(RPPⅠ836 佐藤徹郎訳)

 思索の展開の中で、最初の問い「心理的なものの全領域は<体験>の領域と呼ばれるべきであろうか?」は否定的に答えられることになる。それを以下で確認してゆこう。

※ただし、「体験Erlebnis」と「経験Erfahrung」をめぐっては、少し厄介な事情がある。それについては、6.で触れる。

2.
「あらゆる心理的概念は、人(あるいは主体)が体験する心理的出来事を表すものである」と言えるだろうか?そして、それら「心理的出来事」は「体験」と呼ばれるべきである、と?
この言い方には、一見問題が無いように思える。
ところが、奇異に見えるかもしれないが、ウィトゲンシュタインは、思考Gedanke、意図Absicht、想起Erinnerung、意味するmeinen、意図するbeabsichtigenといった心理的概念は「体験ではない」と言う。

あるいは、それらは体験内容を持たない、と。(cf. RPPⅠ105)

「私は意図している」は、体験の表出ではない。(RPPⅡ179)


それは一定の時間に(・・・)関連してはいるが、-しかしその時間内の体験に関連してはいない。意味するmeinenことは意図するbeabsichtigenことと同様に、体験ではない。
しかし、何がそれらを体験から区別するのか?-それらには体験内容がない。それらに随伴し、それらを図解する内容(たとえば表象)は意味することでも意図することでもないのだから。(PPF279)

なぜなら「この説明をかくかくに意味するmeinen」という表現も、「この説明をかくかくに解釈するdeuten」という表現も、その説明が与えられ、聞かれる際に随伴する出来事Vorgangを言い表しているのではない。(PI 34)

私は、思考を体験と呼ぶことができない。(LPPⅠ810)

想起するerinnernことに体験内容はない。-しかし、それは内省によって認識できないのか? 内省は私が内容を探すとき、まさしくそこに何もないことを示さないだろうか?-(PPF369)

 3.
思考、意図、想起といった心理的概念は「体験ではない」という、彼の言葉の意味は何か? 
一つには、思考、意図等が問題となる言語ゲームにおいて、われわれは体験内容に関心があるのではない、という趣旨だと解釈できよう。

 話しているときに話者が持つ体験 への関心と 意図への関心は異なっている。(経験が、心理学者に、「無意識の」意図について教えることはあり得ようけれど。)(PPF282)

「私はこの語でこのことを意味した」は、ある心の動きの報告とは違った仕方で使われる、ある報告である。(PI676)

 「理解」についても、われわれの<関心>は、その時点における体験にあるのではない。

 では「今やっとわかった!」と言って跳び上がることに対応する特別の体験はないのか?その通りだ。-何も分かっていないのに、始終「ああわかった!」と言って跳び上がる人を想像せよ。そのような人についてわれわれは何と言うべきか。その人はいかなる体験をしていたのか。跳び上がる際の特別の<体験内容>がこの行為に特別の重要性を付与するわけではない。また自分はいまこの瞬間にすべてを理解したと誰かが言う場合も、それは体験内容の記述ではない。(RPPⅠ691 佐藤訳)

では、君がこの文を理解するためには、その文を聞いたとき何か特別なことが起こらなければならないのであろうか。ここで理解の体験のすべては、[言語の]使用法、言語ゲーム実践のうちに包み込まれているのではないか。そしてこのことは、こうした体験が、ここでは何らわれわれの関心事ではないことを意味するにすぎない。(RPPⅠ184 佐藤訳)

4. 

<関心>に関連して、次のような問いに注意しよう。

 「わたくしは・・・を望む」というのはある心の状態の記述だろうか。心の状態には持続がある。「わたくしは一日中・・・を望んでいた」というのはまさにそのような記述である。しかし、わたくしが誰かに「わたくしはあなたの来るのを望んでいる」と言う場合、-彼が「お前はどれくらいの間それを望んでいるのか」と尋ねたとすれば、どうだろうか。「わたくしは、自分がそう言っている間、望んでいる。」というのがそれに対する返答だろうか。わたくしがこの問いに対して何らかの返答をしたと仮定せよ。その返答は「わたくしはあなたが来るのを望んでいる」という言葉の目的にとってはまったく無関係irrelevantではないだろうか。(Z78 菅豊彦訳)

 「君はどれだけの間それを望んでいるのか」という問いは、「無意味」ではないようにみえるが、この言語ゲームにおける「関心」にとっては、「的外れ」(無関係、不適切irrelevant)であろう。
ウィトゲンシュタインのテクストを読む際に、<不適切なirrelevant>という言葉も重要な鍵になる。
(<不適切さ>という概念は、たとえば、<カテゴリー・ミステイク>という概念に比較することができるだろう。)

5.

では、先に挙げた概念(思考、意図、想起、・・・)を使用する言語ゲームにおいて、通常われわれの関心は何に向かっているか?
様々な答え方が可能であろうが、「志向的な内容に対してである」と、とりあえず答えておきたい。
すなわち、思考されている内容、意図されていることがら、想起された出来事、等へとわれわれの関心は向かう。
それらはいずれも、主体の体験とは区別された対象性を持っている。(「ノエシスノエマ」と比較。)
そして、<経験Erfahrung>を特徴づけていた、持続的な時間様態を、「志向の内容」は持たないのである。

 私は先に、志向Intentionは内容を持たない、と言った。だが、志向の言語表現の説明を、志向の内容と呼ぶことができる。しかし、それは一様な状態でありこの時点からあの時点まで持続する、とは言えないし、最初の語の始まりから最後の語の終わりまで続く、とも言えない。(RPPⅡ274)

 6.

「体験Erlebnis」と「経験Erfahrung」をめぐる、少し厄介な事情について。

ウィトゲンシュタインは、『心理学の哲学Ⅰ』836では、「心理的なものの全領域は<体験>Erlebnisの領域と呼ばれるべきであろうか?」と問いかけた上で、「体験」の領域の中に「経験Erfahrung」の領域を区別していた。すなわち、暫定的にすべての心理的概念を体験のカテゴリーにまとめた上、その内部で、「経験」の領域を、「ある時間持続し、ある特定の経過を辿るもの」という特徴の下に区分しようとした。ところが、『心理学の哲学Ⅱ』以後になると、心理的概念の中に、「体験Erlebnis」の領域と、「体験」ならざるものの領域を区別している。以前の「経験」概念の性格は、ある程度「体験」概念にひきつがれたようであるが、反面、新たな「経験」概念の地位は曖昧になったように思われる。しかし、このような線の引き直しが行われたにもかかわらず、「体験」や「経験」という概念の明示的で十分な定義はおこなわれないまま、以後もさまざまな考察の中に使用されることになる。さらには、英訳においては、どちらもexperienceと訳されることが多く、区別が付いていないという問題もある。