Wittgenstein intersection

1.

ところでウィトゲンシュタインは、アスペクト視覚を表現する狭義の形式の命題「私は・・・を。。。として見る」「わたしは。。。と・・・に類似を見る」だけでなく、アスペクトの閃き(あるいはその体験)を表現するさまざまな形式の発言をも考察の対象としている。

「ウサギ!」という叫び(PPF138)、「浮かんでいるのが見える!」(PPF169)、「ああ、これは2つの六角形だ!」(PPF189)、「見てごらん!この眼がどのように見ているかを」(PPF201)、「いま、それは家だ!」(PPF207)等々。

アスペクト体験の表現の多くに、「叫びAusruf」という性格が属している。

その絵が二通りに解釈できることにある人が初めて気付いたとき、その人はたとえば「おや、うさぎだ!」と叫ぶことなどによってそれに反応するかもしれない。(・・・)
相貌を見る体験の自然で原初的な表現がこうした叫び声Ausrufなのであり、それは眼の輝きによって表されてもよかったはずだ、と私は言いたい。(何か目につくものがある!)(RPPⅠ861,862 佐藤徹郎訳)

そしていま、アスペクト転換[が生じる]。
新たなアスペクトの体験。あるいはアスペクト出現の体験。そして、その表現は叫びAusrufである。「ウサギだ!」など。(LPPⅠ474 古田徹也訳)

cf.PPF 169

これらの発言の状況(多くの場合)のポイントは、発話と同時に、話者や話しかけられた者が対象を目の前にしていることである。その点で、「私はこれら2つの顔に類似を見る。」(PPF111)の場合に類似する。

「私はこれら2つの顔に類似を見る。」と同様に、先に挙げた発言の多くが、状況によって、文法的役割を果たすことが可能なことに注意したい。
わかりやすい例では、「これは・・・だ!」という叫びが直示的定義の役を果たす場面をあげることができよう。もちろん、単純な「ウサギ!」という叫びも直示的定義の役割をするかもしれない。

2.

なおかつ、そのような発言が感嘆の表現としてもあり得るという事実にも注意しよう。

 しかし、「人はこの描かれた馬が走るのを見ているのだ!」と人が言ったとしたらどうか。-だがその際私は単に「これが走っている馬を表していることを私は知っている」と言いたいのではない。人はそれによって何か別のことを言いたいのだ。ある人が、こうした絵を見ると、手である身振りをしながら「ヒューッ!」と叫ぶことによって反応する、と想定せよ。それはその人は馬が走っているのを見ているのだということとほぼ同じことを意味するのではないか?またその人は「馬が走っている!」と叫ぶかもしれない。この叫びはその馬が走っていることの確認ではないし、それが走っているように見えるscheineということの確認でもない。それはちょうど人が「ほら、あの人はあんなに走っている!」と言うときーそれは他人に何かを伝えるためではなく、実は人々が一致してsich finden行うような一つの反応Reaktionであるのと同じようなことである。(RPPⅠ874 佐藤訳)

 上の断章は、「知る」ことと「見る」との違い、叫び、報告でない言表、人々の一致、といったテーマと感嘆の表現とを関連づけ、ウィトゲンシュタインにおいてこれらの問題が交差する様を垣間見せてくれている。(人々の一致というテーマは文法の問題とつながりがあるだろう。文法において人々は一致する。「証明において、われわれは誰かと一致する。(RFMⅠ66)」)

わたしが単に画像をそのように理解している(それが何を表現しているはずであるか知っている)のみでなく、そのように見ていることはどのように表現されるか?
このように表現される:「球は浮かんで見える」「人はそれが浮かんでいると見る」あるいはまた、特別な声の調子で「浮かんでる!」
これはしたがって、そのように受け取っていることの表現である。しかし、そうした表現として使われているのではない。(PPF 169)

 アスペクトの閃きの特徴的な表現とは何か。誰かがこの経験をしたことを、私はどうやって知るのだろうか。-その表現は驚きUberraschungの表現に似ている。(LPPⅠ437 古田訳)

 「驚き」とアスペクト体験の本質的結びつきを、ウィトゲンシュタインは認めようとする。(が、そこには躊躇も存在した。)

すなわち、アスペクト転換にとって本質的なのは驚くということだ、と。そして、驚くとは考えることだ。

しかし、これは結局、アスペクト転換に対する私の解釈に過ぎないのではないか。( LPPⅠ565、566 古田訳)

cf.PPF152

 「驚くとは考えることだ。」次の断章にも注意したい。

注意を惹かれるAuffallenというのは、<見つめることSchauen+考えること> なのか。否。数多くの概念がここで交差している。(LPPⅠ710 古田訳, cf.PPF245)