状態としての「・・・として見る」

1.

これまで「・・・を・・・として見る」と「・・・で・・・を意味する」の類比を軸にして、「として見る」のさまざまな時間様態を区分してきた。
「・・・を・・・として見る」の特徴として、ある時間間隔における状態の持続を表現できることが指摘された。
だが、そのような「状態の持続」にも、さらにいくつかの様態が区別できる。
その一つが前回触れた「没入」である。

 

簡単には、次のようにまとめられよう。

①傾性的な見る 

 私がそれを常にウサギとして見てきたというのは、次のことまで意味しうるだろう。すなわち、それが私にとって常にウサギだったということ、それに対して私が常にウサギとして語りかけてきたということ。子どもはそのように振る舞う。
このことは、私がそれを常にウサギとして扱ってきた、ということを意味する。(LPPⅠ 472 古田徹也訳)

「彼を見ると、私はそこにいつも彼の父親の面影を見る。」いつも?-ともかく、それが一瞬のみでないことは確かだ。この相貌は持続しうる。(RPPⅠ528 佐藤徹郎訳)

cf.RPPⅡ549、PPF199( betrachten 見なす)

 その条件は、「変化の不在」である。

 「私はそれをいつもこんなふうに見ていた」-これによって人がもともと言おうとしていることは、「私はそれをいつもこんなふうに理解していた。そしてこのような相貌の変化は全く起こらなかった。」ということなのである。(RPPⅠ524 佐藤訳)

 ②アスペクトの閃きを見る。

そして、私は、アスペクトの’恒常的な見え’とアスペクトの’閃き’を区別しなければならない。(PPF118)

私はある顔を観察し、突然に別の顔との類似に気づく。私はその顔が変化していないことを見ており、なおかつ、それを別様に見ている。(PPF113、「気づく」と「見ている」の使い分けに注意。)

これは瞬間的な事象として「持続」に対立するものと見なされるかもしれない。しかし、「持続」の極限的な例として扱うことも可能である。

その意味で、ちょうど、動詞の進行相が、ある時点における瞬間的事象ではなく、動作の持続を表すことに比較できるだろう。

③没入して見る

「彼女の絵は壁から私に向かって微笑みかける」私がそれを見るとき、いつもそうである必要はない。だが、この表現は、私は常にそれをそのように見るわけではないという別の表現を正当化するものでもある。(LPPⅠ685)

 

②③は、①から、主体の「没入(没頭、専念)」の有無という特徴において異なっている。②についても、次のように言えるからである。

 アスペクト転換を見るとき、私はその対象に没頭していなければならない。(LPPⅠ555 古田訳)

cf.RPPⅠ1022

そして、②アスペクトの閃きを見る は、③没入して見る の部分的クラスとして、③に包含される、とみることもできそうである。

ただし、アスペクトの閃きと持続については、ウィトゲンシュタイン自身にも動揺があった。下の2つを比較。

アスペクトはただ一瞬閃くだけであり、そこに留まることはない。そして、これは心理学的な所見ではなく概念的な所見でなくてはならない。(LPPⅠ518 古田訳)cf.RPPⅠ1021

 確かに人は、「さあ、その図形を五分の間・・・として見なさい」と言うことができる。もしそれが、その図形をこの相貌のままに平衡を保っていなさい、ということを意味するのならば。(RPPⅡ539 野家啓一訳)

 また、①、及び③の一部は、「驚きの不在」によって、②とは異なっている。

 すなわち、アスペクト転換にとって本質的なのは驚くということだ。そして、驚くとは考えることだ。(LPPⅠ565 古田訳)

②の表現として典型的なものは「叫び」であろう。①を表明するのに、叫びはふさわしくない。 

(とはいえ、アスペクト転換の体験をした人が必ず、驚きや叫びの表現によって体験を表したりするわけではない。cf.PPF153, 154)

2.

①②③で見たように、状態を表す「として見る」は、ある時間間隔における状態の持続を表現する。

しかも習慣的(反復的、傾向的)な状態を表現する用法、進行中の状態を表す用法(驚きの表現および没頭の表現) の両者を併せ持つ。

その点において、諸言語における行為の動詞の非完結相imperfectiveの用法に類比することができるだろう。

「として見る」と意図的行為の報告との類比を後に取り上げるが、その関連において注意しておきたい。