体験による出来事化

1.

定延利之『煩悩の文法』は、「知識の表現と体験の表現との差異」という、ウィトゲンシュタイン『探究Ⅱ』xi節に通じるテーマを中心に、さまざまな興味深い言語現象を論じている。

ウィトゲンシュタインの場合は「知っていることと 感覚していること との差異」が問題であった。当ブログは、これをxi節の中心的テーマの一つと捉えてきた。cf.”「知る」ことと「感覚する」こと”

 

『煩悩の文法』で中心的にはたらいているテーゼは、

「体験は状態をデキゴト化する」(『増補版 煩悩の文法』p20)

である。

一瞬の状態は、たしかにそれ自体では状態でしかない。

だが、私たちがその状態を「生きる」ことによって、その状態は、私たちの人生の一部となり、立派なデキゴトとなるのだ。(定延、同上、p23)

ここでの「状態」や「デキゴト」の意味、背後にある「モノの存在に関する文法とデキゴトに関する文法の差異」、「状態はデキゴトではない」等のテーゼについては、この場で説明する余裕はないし、原著に当ってもらうより他にない。

 

思い出すのは、「出来事、過程 Vorgang 」がウィトゲンシュタインにおいても重要な概念であったことである。

特に、「意味することは出来事ではない」(PPF291)、「理解を心的出来事と考えないようにせよ」(PI 154)といった重要な主張の基底にこの概念が関わっている。

彼が‘Vorgang’という語を使うとき、明確な定義を示して、それに即して使っているわけではない。それでも、「ある時間幅の中で進展する事象」という含意がそこにあることは間違いないと思われる。

とはいえ、彼が、「意味すること Meinen」や「理解すること Verstehen」が出来事(過程)Vorgang でない、とするのは、それらが時間幅のない一瞬の出来事であるから、ではないだろう。(この問題には、今は立ち入らない。)

ただし、そのことは一旦、視野の外において、「時間幅の中での進展」という相から、「出来事」という概念について見てゆこう。

 

「出来事」には「時間幅の中での進展」が本質的、と考えるなら、(文字通りの)「一瞬の出来事」という概念には矛盾があることになる。

しかし、定延はそれに異議を唱える。つまり、「体験による、一瞬の状態のデキゴト化」を認める。

 

2.

定延は、『煩悩の文法』に先立つ「「インタラクションの文法」に向けて:現代日本語の疑似エビデンシャル」(2002)で、先の引用の中の「一瞬の状態のデキゴト化」と同様のことについて、次のように述べている。まず、言語学研究における、従来の「デキゴトモデル」に触れたのち、

これらのデキゴトモデルに共通しているのは、「デキゴトは時間の進展を必要とする」という考えである。(・・・)しかし、 本稿の考察から明らかになったことは、デキゴトにとって時間の進展は必要でない 場合がある、ということである。(定延、「「インタラクションの文法」に向けて」p179)

時間の進展のない、一瞬のデキゴトの例として定延が挙げるのは、視覚による「レストランがある」という情報の取得、「みそ汁がうまい」という内心の表出が表現するもの、である(定延、同上)。

しかし、「一瞬の状態」は無条件に「デキゴト」として表現されるわけではない。定延は広範な例によってそのことを論証し、次のように言う。

一瞬の状態(たとえば[レストランがある])はどのような場合でもデキゴトとして表現されるわけではない。状態がデキゴトとして表現されるには、その状態は知識としてではなく、認知体験として表現される必要がある。(定延、同上)

「一瞬の状態」が「体験として」表現される、そのための条件が問題となる。

そのためには、認知者と環境とのインタラクションが話し手にとって重要なものになっている必要がある。探索意識と体感度は、このインタラクションを活性化する大きな要因と言える。(定延、同上)

ここではその意味を説明する余裕はないが、彼の云う「探索意識」と「体感度」は共に、今後の当ブログの展開においても重要なものとなるだろう。

 

3.

ここで、定延の考察を、当ブログの問題意識に引き付けて、次のように述べ直してみよう。

表情、視覚的アスペクト、形象的類似、言葉の意味、といった「一瞥性」を持つ(一瞥で把握される)事象は、主体の認知体験によって、「出来事化」される。

 (※「一瞥されるもの」と「過程(出来事)」の、時間的様態上の対立、その他については、”「説明」の周辺(20)(21)”で、軽く触れた。)

 

そのような「一瞥される」ものは、しばしば、「無時間的命題」(cf. RCⅠ1)によって表される。それについて少し説明を加えておこう。

形象的類似を例にとり、「この2つの顔には似たところがある」という文(およびそれに類する文)について考える。

これが「無時間的に使用」されることが可能なことは明らかだ。

この文は、もし私が「彼らは似ている」を「彼らはいま似ている」に置き換えることができないのであれば、無時間的である。(LPPⅠ162)

しかし、「時間的な使用」もまた可能である。「この2つの顔」が、それぞれ特定の人に属するものであるなら、その二人の顔が、今たまたま似ていることを言うために、この文を使用することができよう。

(日本語の場合、「この二人の顔は似ている」の方が自然であろうが、細かい言い回しの違いは、今は無視しておく。)

私が「この二つの顔には似たところがある」と言ったとしても、私にとって何が重要かは様々でありうる。この発話はたとえば、この種の顔とその種の顔に似たところがあるということを意味しているかもしれない。そこでは、その二つの種類は記述によって特徴づけられる。私はこの人たちの顔に関心があるのかもしれないし、あるいは、彼らにどこで会おうがその顔のかたちに関心があるのかもしれない。(LPPⅠ155、古田徹也訳)
「君は、何か共通するところがあるのはこれらのかたちの間である、と言いたいのか。ーそれとも、これらの人間の間であると言いたいのか」(LPPⅠ158、古田訳)

このように、 「この2つの顔には似たところがある」という単独の文のみからは、時間的使用か無時間的使用かを判断することはできない。今、無時間的に使用された際のこの文の内容を「無時間的命題」と呼んでおく。

 

さて、 「この2つの顔には似たところがある」ことの認知体験 を表す文、例えば「私はこの二つの顔が似ているのを見る」も、二通りに使用できる。

「わたしはその2つが類似しているのを見る」は、「その2つ」がどのように定義されているかに応じて、時間的にも、無時間的にも用いられうる。(LPPⅠ 152)

例えば、「わたしはその2つが類似しているのを見る」という発言で、2つの顔の形象的類似に聞き手の注意を惹くことができる (cf. PPF111,112, ”2つの使用”)。このような使用は、「この2つの顔には似たところがある」の無時間的使用に類比できよう。

また、以前取り上げた「いま、行進曲だ」という発話にも比較できる。

 

しかし、「わたしはその2つが類似しているのを見る」は、まずは体験の表現である。そのことに重点を置いて時間的に使用することも、もちろんできる。例えば、「わたしはその2つが類似しているのを、3分間見た」のような表現が可能である。

これを、無時間的命題の内容をもった体験の表現、と捉えるなら、「無時間的命題の出来事(過程)化」あるいは「無時間的命題の時間化」と呼ぶこともできよう。すなわち、無時間的命題「この2つの顔には似たところがある」は、認知体験によって「出来事化」「時間化」を受ける、と見ることができる。

その認知体験は、アスペクトの「閃き」でも、「恒常的な見え」(cf. PPF118)でもありうるだろう。

ここでは、定延が言うような「一瞬」の認知体験のみならず、時間幅をもった認知の体験をも「出来事化」に数えよう。

 

このような「出来事化」「時間化」は「無時間的命題の時間的使用」と呼ぶこともできるだろう。その様態に何種類かを区別できることに注意しておきたい。

「彼と父親が似ていることに、私は二、三分の間気づいていたbemerkteが、その後気づかなくなった。」―彼の顔が変化し、父親と似ているように見えたのがわずかの間だけだった場合、こう言うことができるだろう。しかしこれは、彼らが似ていることが、二、三分もすると私の注意を引かなくなった、という意味でもありうる。(PPF239、鬼界彰夫訳)

今、細かい話は抜きにして言うと、「出来事化」における持続に影響を与える要因として、

対象の変化、知覚の持続と終結、の他に、

注意あるいは関心の持続と終結、が挙げられる。

(さらに「・・・として見る」が傾向性的な「見る」をも表現できること、を思い出せば、

習慣の持続と消滅、をも付け加えることができるだろう。)

 

ここで、「注意」や「関心」と「体験」との関係、という問題が浮上している。この問題は、これまでも何度か姿をちらつかせていた。(cf. "行為と状態(6)")

定延の云う「探索意識」が、これと関係するだろう。しかし、今はいきなり扱うことは困難なので、問題の存在のみを意識しておこう。