「気づく」と「見る」

1.
前々回、「として見る」と「気づく」に類比されるべき使用が存在することを見た。
その一方で、「として見る」は、ある時点から別の時点までの「持続」を表現できることによって、「気づく」のような概念から異なっている。
「気づく」は、(気づいた内容を忘れない限り)気づいた時点から、ある「能力」が持続する場合に使用される。それはウィトゲンシュタインが言うところの、「真の持続」ではない。

気づくことと見ること。人は「私は5分間、それに気づいた」とは言わない。(RPP Ⅱ443)

「私はこの顔に恐怖を見る」が、言葉の使用としては正しくないような世界もありえるだろう。言葉の使い方を、次のように教えられることも考えられるからである;恐れに満ちた顔を人は<見る>ことができる;一方、顔の中の恐怖や、あるいは2つの顔の間の類似性や差異性に、人は<気づく>。
次の説明の中に、この2つの概念の関係が示されている:それらの違いを認識するには、ある人が2つの顔の類似をその打鐘から次の打鐘までの間、見た、と言うことがいかなる意味をもちうるのかをよくかんがえてみよ。あるいは、「・・・から・・・までの間、類似性に気づけ!」という命令について考えよ。(RPP Ⅱ552、553)

「正午から10秒間だけ、・・・に気づいた」は(特殊な状況を背景として想定しない限り)奇妙であるが、
「正午から10秒間だけ、・・・を・・・として見た」は奇妙に思えない。
ここに見逃しえない、時間様態(アスペクト)の差異が示されている。ここで、「見る」が「状態」であるという指摘が重要性を持って現れる。

 見ることにおいて本質的なことは、それが一つの状態であり、またそうした状態は別の状態へと急変しうる、ということである。しかし私は、彼がこのような状態にあることを、それゆえ知る、理解する、[概念的に]把握するといった傾性(Disposition)と比較しうるような状態にあるのではないということをどうやって知るのか。このような状態の論理的特性とはいかなるものであるのか(RPPⅡ43 野家啓一訳)

確かに、われわれが今「その図を・・・として見る」と呼んでいることを、その図をしかじかのものとして「把握する」と呼ぶことに決めることはできるであろう。-ところで、たとえそう決めたとしても、もちろん問題を片付けることにはならない。むしろわれわれは、今度は「把握する」の用法を研究するであろうし、とりわけ、この把握が何かしら停止したStationaeresもの、すなわち始まり終わるような一つの状態Zustandであるという特質を研究することであろう。(RPPⅡ388 野家訳)

 「気づく」「理解する」「意味する」が、ある時点以後の「能力」の持続(傾性的な)を表すのに対して、「として見る」は、ある時間間隔における状態の持続(「真の持続」)を表現できる。

 わたくしは実際にそのつど何か違ったものを見ているのか、それとも自分の見ているものを違ったしかたで解釈しているにすぎないのか。わたくしはこの最初のほうを主張したくなる。だが、どうしてか。-解釈することは考えること、行為することである[のに]、見ることは一つの状態なのである。(PPF248 藤本隆志訳)

 「考える」と「見る」の時間様態の差異については、RPPⅡ257を参照。

2.

さらに、「持続」の中でも、「没入Beschäftigung(専念)」という様態をウィトゲンシュタインは問題にする。

 では、私が「われわれは肖像画を人そのものととみなすbetrachten」と言う時-いつ、また、どれだけの間、われわれはそうするのか?われわれがそれを見ている間(そして、別の何かとして見ていない間)つねに、であろうか?
私は、これを肯定することできるが、それによって みなすBetrachten という概念を規定ことになるだろう。-問題は、これに関連した別の概念が、なおわれわれにとって重要となるかどうかである。即ち、そのように見る という概念、しかも私が、像に対して、それが描き出された対象そのものであるように没入するbeschäftigen場合にのみに適用されるような、そのように見る という概念が。(PPF199 cf.LPPⅠ681)

 「・・・を・・・として見る」は「その表現が一つの比喩であるような体験」と呼ばれた。
そのような体験に主体が「没入(専念)beschäftigen」していることを、「・・・として見る」は表現できる。「・・・として見る」のその種の使用は、体験の表現として、「叫び」と類縁性をもつように思われる。

では、そのような使用の機能は何かどのようにしてそれが感覚の表現に類比的であるのか?それがウィトゲンシュタインにとって重要な問題であった。

 私が、それについては自分にも他人にも何も語りはしないけれど、たとえばある写真を見つめ、顔の表情に心を奪われbeschäftigen、それをいわば心に留め置くことがありうる。
私は、その写真のまなざしが語りかけるままにさせる。おそらく初めて私はその像を本物の顔のように見る。<その表情に応答せよ>。ここで「その際、何が起こっているのか」と問うてはならない。そうではなく「人はこうした表出で何をするのか」と問え。(RPPⅠ1033 )

この目、このにすぎないものが、ある方向を見るということがどうして可能なのか?ー「ほら、こんなふうに見ているのだ!」(こう言いながら人は自分で<見て>みせる。しかし人はその絵を眺めている間、たえずこう言ったりしたりしているわけではない。ではこの「ほら、こんなふうに見ているのだ!」というのは一体何なのか。-それはある感覚Empfindungの表現なのであろうか?(RPPⅠ880 佐藤徹郎訳)cf.PPF201

ここにひらめいているものは、観察の対象に対する一定の没頭Beschäftigungが持続している間だけ存続する、とわたくしは言いたい。(「かれがどのような目つきをしているかを見よ。」)ー<わたくしは言いたい>ーだが、そうなっているか。-「どのくらいの間あることがわたくしの念頭に浮かんでいるかauffallen」を自問せよ。-どのくらいの間それがわたくしにとって目新しいのか。(PPF237 藤本訳)

cf.239,240

 実は、「意味する」に関しても、「として見る」の場合にパラレルに、使用の違いを問題にすることができる。一方には、文法的使用、もう一方には、主体の没入の表明としての使用がある。

 「・・・という言葉はその意味で満たされていた」という伝達には、「それは・・・という意味をもっていた」という伝達とはまるで違った使い方、まるで違った帰結が確かにある。(LPPⅠ785  古田訳)

 だから、「意味の体験」に寄せられる関心は空しいものばかりとは言えないのである。

3.

ウィトゲンシュタイン自身が、以上のことをまとめて述べたような断章がある。

 私が誰かに向かって次のように言う場合には、私は彼に何か別のことを伝えているのである。
(a)彼が見ていないそのデッサンには、しかじかの形が含まれているー
(b)彼が見ているそのデッサンには、彼がまだ気づいていない形が含まれているー
(c)私になじみ深いそのデッサンがこのような形を含んでいることを、私はたった今発見したー
(d)私はちょうど今、そのデッサンをこのような相貌で見ている。
これらのそれぞれの報告は、異なった関心に彩られている。

一番目の報告は、知覚された対象の部分的な記述であり、例えば「あそこに何か赤いものが見える」という報告に類比される。
二番目は、私が「幾何学的報告」とでも名づけようと思うものである。それは一番目のものとは対照的に、無時間的である。事情はしかじかであるという発見は、数学的発見と同じ性質を持っている。(RPPⅡ438, 439 野家訳)

xi節冒頭(PPF111)の例に類比させるなら、

(a)は、「「私はこれを見る」(そして、記述、描画、模写があとに続く)」、

(b)は、「「私はこれら2つの顔に類似を見る。」-私がこれを伝える当の人は、私と同じく明瞭にこれらの顔を見ていてもよい。」

に対応している。

(c)は、「いま、わかった!」という叫びに類比される。

(d)は、主体の専念を伴った「・・・として見る」の例である。

 

「これらのそれぞれの報告は、異なった関心に彩られている。」