「知る」ことと「感覚する」こと

1.
先に引用した「直接的洞察」の例、数列の継続、自身の意図についての知、思い違い等。これらについて、「何によってそのことを知るのか?」と問われた場合、人を納得させる答えはすぐには出てこない。だが、次のように考えようとする強い誘惑がないだろうか。
すなわち、主体は自身の内部に生じる体験からその内容を知るのだ、と。
その体験とは、「感覚」であったり、「感覚」に似た「直観」や「洞察」と呼ばれるものであったりする。そのような体験こそが、判断の根拠なのだ、と。

この方角にある村落があるにちがいないという、裏付けもなく、そして見たところ何の理由もない感覚Gefühlのことをここで改めて想起せよ。もしもこの感覚がたいていはわれわれを欺くのでなかったとしたら、人はここで感覚によるについて語ることであろう。そしてこの感覚の源泉については、推測するか経験的に確かめるほかないのである。

ここで最も重要なのは次のことである。ある相違がある。人はその相違が<カテゴリー上のものである>ことに気づく。-しかしその相違の本質は何に存するかを言うことはできない。これが、内省Introspektionによって相違を認識する、と普通人が言う場合に起こっていることである。

(RPPⅠ792,793 佐藤徹郎訳 cf.PPF268 )

(この断章は「感覚への類比」に関連して以前にも取り上げた。)

2.

「・・・を感覚する」とは、推論や推測のようなプロセスに拠っていないこと、他の内容から推測するのでなく直接に洞察していることを意味する。cf.RPPⅠ807

 「われわれは情緒を見る」ーこれを何と対比して言っているかーわれわれは顔をしかめるのを見て、そこから(診断を下す医者のように)喜びや、悲しみや、退屈を推理するのではない。彼の顔を、悲しみに沈んだものとして、喜びに輝くものとして、退屈そうなものとして、直接記述しているのだ。たとえその容貌の別の記述を与えることができないときでさえも。(Z225 菅豊彦訳)

上の断章に述べられているように、ある内容を感覚することの規準の一つは、その「ある内容」の記述が無媒介に表出されることである。

ある人が私に言う:「私はそれを即座に、2つの六角形と見た。確かに、それが私が見たことの全てだった。」だが、私はこのことをどのように理解するのか?私はこう考える:その人は「君は何を見るか?」という問われれば直ちに今の記述でもって答えたであろうし、その記述を多くの可能な記述の内の一つとして扱いはしなかっただろう、と。その点において、その記述は、彼にこの図像を見せたときに返って来る「顔だ」という答えと同等である。(PPF186、図像は省略)

この点に、「感覚による直接的な判断」とその他の「直接的洞察」との類比の根のひとつがある。

3.
このような類比への傾向に対して、ウィトゲンシュタインは一見、否定的な態度をとっているように見える。

 数列を書いてゆく一つ一つの段階で、上述の規則を現に我々がやる仕方で使うようにさせるものは、洞察や直観の行為ではない。それを決定の行為と呼ぶほうがまだいいかもしれない。しかし、それもまた人を誤らせやすい。実際には決定行為のようなものが是非なければならぬというのではなく、ただ単に書くあるいは喋るという行為があるだけだ、という場合もあるからである。(BBB p143、大森荘蔵訳p229)

直観のみがこのような疑いを取り除くことができたのか。-それが内心の声であるなら、-自分がそれにどのようにしたがったらいいのか、私はどのようにして知るのか。そして、それが私を誤らせないということをどのようにして知るのか。というのは、それが私を正しく導くことが可能であるとするなら、誤らせることも可能だからである。(直観、余計な逃げ口上)(PI213)

 ただし、この場合も、感覚に似た現象の存在自体を否定しているわけではないことに注意しよう。
「洞察や直観の行為が、われわれに、規則にこの仕方で従うようにさせる」「直観が、われわれに、規則の正しい従い方を教える」という観念が批判されているのであり、感覚に似た現象(「直観」)の存在-非存在を問題にしているのではない。

4.

以前触れたように、ここで「感じる」と言いたくなることは重要な事実を示している、と考えることができよう。

さまざまに感覚概念が拡張されることについて、ウィトゲンシュタインは単に批判的な態度をとろうとはしていない。

事実は、単純に言えば、私が ある異なった技術を担っている言葉(ein Wort,den Träger einer anderen Technik)を 感覚の表現Gefühlsauadruckとして用いる ということである。つまりある新しい仕方で用いるのだ。ではこの新しい使用法は何によって成り立っているのか?一つには私がー「感覚Gefühl」という言葉の用法を通常の仕方で学んだ後にー「私は<非現実性の感覚Gefühl>を感じる」と言うということによって。その上、その感覚が一つの状態であることによって。(RPPⅠ126)

われわれの体験を表現するのにある特定の言葉を用いたいという逆らうことのできない傾向が存在することが、どうしてあってはならないのか。またそれにもかかわらず、われわれが自分の体験について反省してみると、その言葉は人を惑わすものである、ということがどうしてあってはならないのか。

私の言いたいのは、見ることとの比較がさまざまな点でぴったりしないにもかかわらず、われわれが「見る」と言いたくなることがどうしてあってはならないのか、ということなのである。あらゆる差異があるにもかかわらず、ある類似点に深く心を動かされるということが、どうしてあってはならないのか。(RPPⅠ1038 佐藤訳)

われわれは、自発的に、 「・・・を感じる」と言う

そのことは、我々に関する注目すべき事実といってよい。

それを認めた上で、ウィトゲンシュタインにとって、二つの(関連しあった)重要な問いが現れる。

ひとつは、いったいどこまで「感覚する」ことができるか、という問題。この問題は、それぞれの感覚ごとに問われることが可能である。

それは真正の視覚体験であるのか?問題は、どの程度までInwiefern視覚体験であるのか、だ。(PPF190)

こういうことも考えてみよ。赤や緑をわたくしは見ることができるだけで、聞くことはできないーしかし、悲しみはわたくしがそれを見ることのできる限り、聞くこともできる。(PPF228 藤本隆志訳)

ともかく「わたくしは歎きのメロディーを聞いた」という表現について考えてみよ!すると、問題は「かれは歎きを聞いているのか」ということになる。(PPF229 藤本訳)

もうひとつは、「単に(そうだと)知っていること」と「(そういう内容を)感覚していること」との違い、という問題である。

5.
ある事柄について、「聞いて知っていること」や「推測する」ことと、直接に「感覚している」こととの差異はどこにあるのか、その規準は何かという問題は、『探究Ⅱ』xiにおいて、繰り返し問われる重要なテーマであり、アスペクト盲への問いに結びついている。

 だが、わたしがその像を、たとえば単にそういう風に理解している(その像が何を表しているはずであるか、知っている)のみではなく、そう見ている、ということの表現は何であろうか?(PPF169,cfLPPⅠ607)

では、わたしはいつ、ただ単に知っているのであって、見ているのではない、と言うのだろうか?-おそらく、例えば、ある人がそれを設計図のように扱うときー即ち、青写真のように読むようなときーである。(振る舞いの繊細なニュアンスーなぜそれは重要なのか?それは重大な帰結を有するからである。)(PPF192,cfLPPⅠ648,657)

私が画像の中に、矢に貫かれた獣を見る時、私は矢尻が矢羽根につながっているのを単に知っているのか、それとも見ているのか?-私は矢を取り扱う際と同じように、2つの部分を取り扱う。つまり:私は機械の図面を判読するときのごとく、単に「この2つはつながっており、そこに軸が通っているのだ。」と言うのではない、;そうではなく、「その像のなかに何を見たか?」と問われれば、私は即座に「矢に貫かれた獣」と答えるのである。(LPPⅠ641 )

問題はこうだ。どのような点でInwiefernそれは見るということなのか。(LPPⅠ642 古田訳 cf.LPPⅠ644)

わたしは、その描画をそのような動物として見る人については、それが何をあらわしているかをただ知っているだけの人よりも多くの異なった事を期待するであろう。(PPF196 cf.LPPⅠ651)

また、われわれがするように写真を理解したり見たりしない人々が存在することもありえよう。この人々は、なるほどこのような仕方である人を描写しうることを理解するし、写真に基づいてその人の姿形をおおよそ判定することもできるが、その映像を像として見てはいないのである。このことはいかにして表現されるのか?われわれは何をこのことの表現Äußerungとみなすであろうか?それをはっきり述べるのは難しいかもしれない。
こうした人々はおそらくわれわれのように写真を見て楽しむということがない。彼等は「ほら、あの人のにこにこした顔を見てごらん!」と言ったたぐいのことを決して言わない。彼等はしばしばある人をその写真の像からすぐには見分けられないことがある。彼等は写真を読むことを学ばなければならず、それを読まなければならない。彼等は同じ顔の二つのよく撮れた写真を、いくらか違ったポーズで撮った像であると認めることに困難を感じる。(RPPⅠ1019 佐藤訳)

 最後の例には、この問題とアスペクト盲の問題とのつながりが示唆されている。ここで「像として見る」と言われていることの内容に注意しよう。

ウィトゲンシュタインアスペクト盲について話題にするとき、決して、アスペクトの転換が起きないことのみに関心が向けられているのではないことを確認しておこう。

もちろん、あらゆる画像の立体的相貌Aspektがある人には固定したままであるので、彼は相貌の転換を決して見ることがない、ということなら想像しうる。だが、この仮定はわれわれの興味を引かない

しかしながら、ある人々が画像Bilderに対してわれわれとは全く異なった関係をもちうる、ということなら考えうるし、それはわれわれにとってもまた重要である。(RPPⅡ480,481 野家啓一訳)

ここで言われているように、「アスペクト盲」という概念の核心は、この「像 Bildに対する、われわれとは異なった関係」にあるのだ。

 

以前触れたように、ここでの「知る」と「感覚する」の対立は、時間様態(アスペクト)の差異に根ざしてもいることを再度確認しよう。

 見ることにおいて本質的なことは、それが一つの状態であり、またそうした状態は別の状態へと急変しうる、ということである。しかし私は、彼がこのような状態にあることを、それゆえ知る、理解する、[概念的に]把握するといった傾性(Disposition)と比較しうるような状態にあるのではないということを、どうやって知るのか。このような状態の論理的特性とはいかなるものであるのか(RPPⅡ43 野家訳)

 

 このように、知性を惑わすというネガティブな相貌で見えていた「感覚への類比」は別の横顔を見せてくる。それも、ウィトゲンシュタインの思想の核心につながるものとして。