1.
前回、次のように述べた。
表情、視覚的アスペクト、形象の類似、言葉の意味、等の「一瞥されるもの」は、しばしば「無時間的命題」によって表現される。
そして、「一瞥されるもの」を認知する体験は、その「無時間的命題」を「出来事化」し、「時間化」する、と。
この構図は、とりわけ「言葉の意味」の場合に、見て取りやすいだろう。
ずっと以前、この問題について触れたことがあるが、ここでは、意味盲の問題に絡めて再び取り上げてみよう。
2.
意味盲とアスペクト盲をめぐっては、ウィトゲンシュタインのテクスト間で、興味ある対照が認められる。
・『心理学の哲学Ⅰ』では、「意味盲」という言葉が出て来るが、「アスペクト盲」という言葉は登場しない。
・『心理学の哲学Ⅱ』では、「アスペクト盲」という言葉、「意味盲」という言葉が、いずれも登場する。
・『ラスト・ライティングスⅠ』と『探究Ⅱ』では「アスペクト盲」という言葉のみが登場する。
とはいえ、「意味盲」あるいは「アスペクト盲」という呼び名が登場しないテクストにおいても、それらの現象自体は描写され、考察されている。彼が、両者を結びつけて考えようとしていたことは、それらの言葉が登場する箇所の文脈を見れば明らかである。
(例えば、『心理学の哲学Ⅰ』§167と§168を参照。また、アスペクト盲の概念が重要であるのは、アスペクト視の概念と意味の体験という概念との連関が存在するから、と主張する『ラスト・ライティングスⅠ』§784、『探究Ⅱ』§261を参照。)
ただし、両者の取り上げ方、特に想定される現象に対するアクセントの置かれ方には、無視できない違いがあるように思われる。
その確認を通じて、「体験」と「時間化」との間のズレを明るみに出すことが今回の課題である。(ここでは、アスペクト盲、意味盲について、網羅的に取り上げることは目的としない。)
3.
『探究Ⅱ』において、アスペクト盲は、「何かを何かとして見る能力の欠如」として導入されている(PPF257)。そして、アスペクト盲の人には、あるアスペクトから他のアスペクトへ、見え方が転換することがない、と想定されている(PPF257、258)。
たとえば、黒十字を含んだ二重十字の図形を見分けることはできても、「いま、これは白地に黒の十字だ!」とは言わない、と(PPF257)。
そして、アスペクト盲の人は、総じて像に対して、我々とは違った関係をもっているであろう、それは「音楽的な耳」の欠如に類比できるだろう、と主張されている(PPF258、260)。
ウィトゲンシュタインは、そこからさらに、「ある語の意味を体験しない人には何が欠けているのか?」という問いへと移ってゆく(PPF261)。その後も、「意味の体験」に関する議論が続いてゆく。
しかし、より早期にまとめられた『心理学の哲学Ⅰ』を検討することで、意味盲の問題の別の側面が見えてくる。
4.
アスペクト盲が議論される『探究Ⅱ』xi節に先立つⅱ節の冒頭で、次のように述べられている。
「私がこの言葉を聞いたとき、それは私には・・・を意味していた。」という言葉で、人はある時点Zeitpunktとその言葉のある使用の仕方 Art der Wortverwendungに関わっている。(PPF7)
その言葉によって人は、「意味関係」(ある言葉が、何かを意味するという関係)を、自らの生の中の具体的な時点に位置づけている、と言えよう。ウィトゲンシュタインは、このような関連づけを、この言表の本質として捉えている(PPF7 の残りの文章を参照)。
それに対し、
単なる語の説明は発言の時点における出来事Geschehnisには関わらない。(PPF286)
すなわち、「この語は・・・を意味している」のような「単なる語の説明」は「無時間的」な「意味関係」を示すのみである。「この語は・・・を意味している」の内容は「無時間的命題」として捉えることができる。
さて、PPF7の元となった断章、『心理学の哲学Ⅰ』§175を見てみよう。
実はそこでは「意味盲」に対する言及がなされていた。(『心理学の哲学Ⅰ』の中で、「意味盲」という語が初出する箇所でもある。)
「私がこの言葉を聞いた時、それは私には・・・を意味していた」と言う人は、ある時点と、その言葉のある使用に関わっている。―ここで奇異に見えるのは、当然、その時点との関係Beziehungである。
「意味盲の人」とはその関係を喪失している人であろう。
(RPPⅠ175 )
つまり、意味盲の人は、自らと、言葉の特定の使用の仕方と、具体的な時点との関連付けBeziehungを失っている人だとされる。
具体的には次のように考えられるだろう。
意味盲のひとは、「その語」を様々な文章の中で使用することはできる。しかし、「私はその時、この語で・・・を意味していた」という文を用いることはできない。
後の文の内容は、我々が先に「無時間的命題の時間化」と呼んだものである。
すなわち、意味盲の一つの側面は、「無時間的命題の時間化」ができないこと、すなわち自分のいる現実の時間の中への位置付けができないこととして特色づけられていたのである。
『探究Ⅱ』でのアスペクト盲の取り上げ方が、アスペクト転換の体験の有無や視覚体験の内容に注目しているのに対し、『心理学の哲学Ⅰ』での意味盲は、まずは「時間的に位置づける」能力に注意して考察されているのだ。
5.
なぜ、意味盲の人は、「無時間的命題の時間化」ができないのか?
この「時間化」とは「体験による出来事化」であり、意味盲の人には言葉の「意味関係」の体験が不可能だから、というのが予想される返答である。
だが、ここで疑念が差しはさまれるべきだ。
「無時間的命題の時間化」は、本当にそのすべてが「体験による出来事化」なのだろうか?
ここで詳しく検討することはできないが、ウィトゲンシュタインは、「私はその時、その言葉で・・・を意味していた」と正当に言える場合にも、必ずしも「意味する体験」が起こっている必要がないことを、さまざまなテクストの中でくり返し確認しようとした。(例えば、BBBp34、PI 665、692-3、RPPⅠ230、PPF16、37を参照。また、「意図する」も、同じ問題を共有していることに注意。cf. RPPⅠ185-8)
自問してみよ。誰かに「私はあなたにお目にかかれて嬉しく思います。」と言い、そのことを意味している時、これらの言葉に沿ってある意識的な出来事が起こっているのか?すなわち、これらの言葉に翻訳されるような出来事が? そんな場合は稀だろう。(BBB, p34)
とすれば、過去における「意味する」ことについての言明(「私はその語で・・・を意味した」)ができないことと、意味する体験ができないこととは、イコールで結び付けられるものではないだろう。
6.
ここで「仮想された体験」という問題が現れている。
”「説明」の周辺(6)”で、次のようなことを述べた。
「・・・を意味する」「・・・として見る」のような表現は、実際の体験を描出する使用の他に、比較や正当化、説明のための言い回しとしての使用もある、と。
(「・・・を意図する」も同様である。)
後者の場合、想定される体験は、実際には生じていないことがある。
しかし、その場合でも、「時点との結びつき」は存在する。
それゆえか、あたかも特定の体験が生じたかのように受け取られやすい。
すなわち、「意味する」「として見る」「意図する」等の、「仮想された体験」が存在するかのように。
いうまでもなく、ウィトゲンシュタインは、それによって引き起こされる混乱を哲学的問題の源泉の一つとして見ていた。
ここで、「時間化」(=特定の時点に結びつけること)と、「体験による出来事化」との間のズレが表面化していることに注意しよう。
7.
『心理学の哲学Ⅰ』の後続の断章では、意味盲について、さらに角度を変えながら考察されている。その内容、特に意味盲の性格付けが最終的にどのようになったかについては、後日検討することとしたい。
またそれに関連するが、RPPⅠ175での意味盲への言及がPPF7では消去されることになった理由についても、検討は後の課題としたい。