1.
(前回から続く)
②結局のところ、ウィトゲンシュタインの議論が前提とし根拠としているもの、
それは
「理解や能力の保持を表明し、他者がそれにやりとりする言語ゲーム」と
「内的状態、感じ、あるいは感覚を表明し、他者がそれにやりとりする言語ゲーム」の差異であろう。
だが、その差異の存在は自明なのだろうか?
私が彼を大変よく知っている、彼とは数えきれないほど何度も会ったり話したりしたから、と言う場合、それは感じGefühlを記述しているのではない。ではこれが感じの記述ではないことは、何に依るのか。(・・・)
私がもちろんその顔を自分はよく知っている、確かにこれ以上ないほどに熟知している、と言う際に、私が何らかの感じを表現しているのではないということはどのように示されるのか。(RPPⅠ120)
この差異を解明することは、重要な課題であり続けている。
2.
③表面的にみれば、両者の差異を曖昧にするような事実がたやすく眼に入るだろう。
さて、ところが、「知る」という語には次のような使いかたもある。われわれは「いまやわたくしはそれを知っている!」と言い、―まったく同様に「いまやわたくしにはそれができる!」「いまやわたくしはそれを理解している!」と言う。
次のような例を思い描いてみよう。Aは数列を書き出している。Bはかれを見ていて、数の系列の中に法則を見つけようと努力している。それがうまくいくと、かれは「いまやわたくしは続けていける!」と叫ぶ。―すると、この能力、この理解は、何か一瞬のうちに生ずるものwas in einem Augenblick eintrittなのだ。(PI 151、藤本隆志訳 )
「われわれは語の適用全体を一瞬のうちにmit einem Schlage把握できるかのようだ」(・・・)ーそれはまさに、われわれがそれらを、はるかに直接的ないみで<一瞬のうちに把握する>ことができるかのようである。(PI 191、藤本訳 )
人は、この「なにか一瞬のうちに生ずるもの」(PI 151)を、容易に「知覚」の一種とみなすだろう。たとえば、「直観」という言葉でそれを呼ぶであろう。そして、「いまやわたくしはそれを理解している!」は、そのような「知覚」の報告である、と。
(もちろん、知覚は感覚の一種である、とも。)
この「なにか一瞬に生ずるもの」と「知覚」との類似は、たとえば次のことに現れる。
それらは、ある時点で生じ、同時に(いわば)完成する。そして、その内容がその時点以降においても(忘れられない限りにおいて)把握され続ける。すなわち、その内容把握は持続する。(「アスペクト知覚と能力」)
しかし、この「なにか一瞬に生ずるもの」自体が、一定の期間持続することはありえるのだろうか?これは奇妙に響くが、感覚(感じ)との差異に関わる真面目な問いである。
(ここでも持続が議論の焦点となる。)
ひとは、意味の理解を表象映像のように固持することができるか。つまり、語のある意味が突然わたくしの念頭に思い浮ぶとき、―それはまた、わたくしの心の前で停止stehenbleibenしていることもできるのか。(PPF 11, 藤本訳)
できない、と答えるとしたら、―その不可能性は、経験的(事実的)なものか、それとも文法的(概念的)なものか?
「計画の全体が一挙に私の心に立ち現れ、5分の間、そこに留まった。」なぜ、これが奇妙に響くのか?こう信じたくなるかもしれない:閃いたものと留まったものは、同じものであることはできない。(PPF 12)
この問いは、アスペクト知覚への問いにとてもよく似ている。
あたかも相貌Aspektというものは、ただ一瞬ひらめくだけで持続するstehen bleibtことのない何かであるかのごとくである。とはいえ、これは概念に関する考察なのであって、心理学的考察ではありえない。(RPPⅠ1021、佐藤徹郎訳、cf.LPP Ⅰ518)
われわれはみな相貌Aspektの一瞬の変化という出来事を知っている。―しかしかりに人が「Aはaという相貌を―ただし相貌の変化が起こらないとしてのことだが―ずっと思い浮かべているのか」と問うたとしたらどうか。この相貌が、いわばより鮮明になったり、より不明瞭になったりすることはありえないのか。―そして私がこのようなことを問うとは何と奇妙なことではないか!(RPPⅠ506、佐藤徹郎訳)
だが、結局のところ、ウィトゲンシュタインは、アスペクトの停留という様態を認める。
その様態こそ、アスペクト知覚と感覚一般との類似の要でもあるのだ。
「見ることは、ある状態である(PPF248)」そして、状態は持続する。
「彼を見ると、私はそこにいつも彼の父親の面影を見る。」いつも?-ともかく、それが一瞬Augenblickeのみでないことは確かだ。この相貌Aspektは持続しうる。(RPPⅠ528 佐藤訳)
確かに人は、「さあ、その図形を五分の間・・・として見なさい」と言うことができる。もしそれが、その図形をこの相貌Aspektのままに平衡を保っていなさい、ということを意味するのならば。(RPPⅡ539 野家啓一訳)
ここでは、閃きと停留という2つの様態が区別されつつ、存在する。
しかし、ここまでの引用からわかるように、停留の側面にはどこか捉え難さがある。
そこに「・・・として見る」ことの、「○○○を見る」ことに対する類似と差異が現れる。
きわめて重要なこの問題に、ここではこれ以上深入りすることはできない。
3.
上で述べた現象は、言語学的にみれば、状態動詞の起動相(inchoativeまたはinceptive,ingressive aspect)的使用という現象である。
perfectiveと imperfectiveの形態的区別が存在する言語の多くにおいて、特定の動詞、とりわけ特定の状態動詞は、perfectiveの形では、実際には、状況の開始を表示することに使われることができる(起動相的意味)。
(Comrie, Aspect, p19)
例えば、日本語においては、「理解する」「知る」は、「ル」形では起動相的に使用され、状態を表す場合は「テイル」形で表すのが普通である(「できる」との違いに注意)。
英語では(通常)状態動詞が進行形を取らないため、またドイツ語では進行形が存在しないために、このような区別がなく、例えば "I understand.", "Ich verstehe."が状態を表すことにも状態の開始を表すことにも使用される。
※しかし、日本語においても、特定の使用状況下で、「知る」等の状態動詞が「ル」形で状態を表すことがある。そこにも興味深い問題があるが、今取り上げることはできない。
(続く)