アスペクト知覚と能力

1.
「・・・として見る」と、「・・・を意味するbedeuten, meinen」との類比を導入する。

以前にも取り上げたが、「・・・を・・・として見る」は「その表現が一つの比較Vergleich(直喩)であるような体験」と呼ばれていた。

 ある顔と別の顔との類似を見て取ること、ある数学形式と他の数学形式との類似を、判じ絵の描線のうちに人間の姿を、図式のうちに立体を見て取ること、”ne...pas"という表現の中の”pas"を「一歩」という意味で聞いたり話したりすること、-これらすべての現象はとにかく似てはいるが、また非常に異なってもいる。(視覚、聴覚、嗅覚、運動感覚)

それらすべての場合に人は一つの比較Vergleichを体験するということができる。なぜなら、われわれがある比較、ある言い換えをしたくなるということが、この体験の表現の内容だから。
それはその表現が一つの比較であるような体験にほかならない。(RPPⅠ316,317)

 「意味の体験bedeutungserlebnis」(例えば、「”ne...pas"という表現の中の”pas"を「一歩」という意味で聞いたり話したりすること」)もまた、「その表現が一つの比較(直喩)であるような体験」と呼ぶことができる。

 <体験されるものとしての意味>という問題は、ある図形をかくかくのものとして見たり、しかじかのものとして見たりするという問題に類似している。われわれはこうした概念上の親近性を記述しなければならない。どちらの場合にももともと同じことが問題になっているのだとわれわれは主張しない。(RPPⅠ 1064 佐藤徹郎訳)

「見る」と類似した状況は、「意味する」をめぐっても生じる。

確かにある図、例えば一つの文字は、正しく書かれることもあれば、また様々な仕方で誤って書かれることもありうる。そして、その図のこれらの把握の仕方には、相貌Aspektが対応しているのである。-ここには、孤立した語を発話する際に生ずる意味の体験との大きな類似性が見られる。(RPPⅡ375 野家啓一訳)cf.LPPⅠ706, PPF234

では、彼は何をしているのか。彼がいま体験の表出として語っているのは、別のときには知覚の報告であるようなものである。(意味の体験との強い類似性)(LPPⅠ176 古田徹也訳)

ウィトゲンシュタインに倣えば、「意味の体験」も、<・・・として見る>のように、「知覚のようであり、知覚のようでない」(cf.PPF137)と言えるだろう。

2.

一方で、「私は・・・で・・・を意味する」は、文法的に使用され得る。つまり、「・・・は・・・を意味する」ことを指摘する目的で、「私は・・・で・・・を意味する」と言うことができる。
一見、「心理学の哲学」において、ウィトゲンシュタインは「意味体験」の重要性(あるいは、意味体験への関心の重要性)を否定しているように見える。すなわち、「意味する」という概念が実際に有効に使用されるのは、「孤立した語を発話する際に生ずる意味の体験」の報告ではなく、もっぱら文法的使用においてである、と主張するかのように見える。
つまり、「わたしは‘いちご’でstrawberryを意味する。」という発言のように、言葉の定義、意味を相手に説明し知らせることに「意味する」という語の機能がある、と。この場合、「わたしは‘いちご’でstrawberryを意味する。」という発言は、「‘いちご’はstrawberryの意味である。」と言うのと、同様の機能を果たす。(ウィトゲンシュタインの言う「無時間的使用」)

 たとえば法廷では、あるひとがある語をどのようないみで使ったかgemeint habe、という問題の論じられることがあろう。そして、それがある事実から推論されることがある。-それは意図Absichtの問題である。しかし、そのひとがある語ーたとえば「銀行」という語-をどのように体験したかということが、似たようなしかたで意味あることでありえたであろうか。(PPF262 藤本隆志訳 cf.RPPⅠ1058)

ある人が何か発話をすると、そのとき自分の精神の内部で生じていたことについて(常に)すぐ我々に解説する、と想像してみよ。(それは一種の習慣なのだ。)その解説はいかなる状況においても我々の関心を惹くだろうか。

「私が『いし』と言ったときには、もちろん転がっている石を意味していた」。その言葉には意味の体験なるものが伴っていなければならなかったのか。(ナンセンス!)ー(LPPⅠ126, 127 古田訳)

cf.PPF279,

 ただし、そのように割り切ることに問題があることも彼は認めていた。

 「もし人が語の意味を体験しないんだったら、どうやって言葉遊びに笑うことができるんだ?」。«美容師と彫刻家»ー人はそうしたジョークに笑う。そしてその限りで、人は言葉の意味を体験していると(たとえば)言うことができるだろう。(LPPⅠ711 古田訳)

 3.
だが、仮に「意味の体験」の報告の重要性を認めないとしても、「・・・で・・・を意味する」は無時間的な使用のみで機能するわけではないことがあきらかである。つまり、辞書のように、「無時間的に」見出し語と対応する意味とを引き結ぶような機能しか果たさないわけではないのである。そのことにウィトゲンシュタインは注意を促す。

 「君は何を言うつもりだったかWas hast du gemeint」およびそれに類した問いは、二通りの仕方で使うことができる。一方では、言語ゲームを継続できるように、単に意味や意義の説明が求められているだけである。他方では、その文が話された時に何が起こったかということに、われわれの関心は向けられている。(RPPⅡ254 野家訳)

 まず問題となるのは、「・・・は・・・で・・・を意味した」という過去形での言表の機能である。

 意味するBedeutungという特殊な体験は、われわれがそれに対して[「その言葉は・・・を意味していたのだ」というような]ある説明を与え、しかもその際過去形を用いるという仕方で反応することによって特徴づけられる。その反応は、われわれが実用上の目的のためにある言葉の意味を説明する場合と全く同じである。(RPPⅠ688 佐藤訳 cf.Z178)

 「・・・で・・・を意味する」には、単なる文法命題にはない使用、ある「時間的使用」が可能である。「・・・で・・・を意味した」という過去形での使用、そして、「意味する」時点への言及が、この場合の使用の特徴なのである。

 「私がこの言葉を聞いたとき、それは私には・・・を意味していた。」という言葉で、人はある時点とその言葉のある使用に言及している。(PPF7 cf.RPPⅠ175)

君はこの表出によって、話の時点に言及する。君がこの時点に言及するか、あの時点に言及するかで違いが生じる。
単なる語の説明は発言の時点における出来事には言及しない。(PPF286)

 ポイントは、ある時点と(そう意味することを止めず、別のことを意味しない限りで)それ以後における、一定の言語使用の「能力」である。その時点は、「能力」の端緒、あるいは途上の時点なのである。
「意味が思い浮かぶ」「(突然に)意味を理解する」ことが、単なる心像の表象とは性格を異にすることについては、次をみよう。

 かくかくの意味がある人の心に浮かび、その後再び忘れられることがなかったとすれば、その人はいまその言葉をかくかくの仕方で用いることができる。
このように意味が思い浮かぶという体験をした人は、その意味を現在知っているのであり、それが思い浮かんだことは単にこの知識の端緒であったにすぎない。ここでは、心像表象の体験との類比は成立しないのだ。(RPPⅠ263 佐藤訳 cf.PPF14)

 ここで「忘れる」という概念に触れられていることに一つ注意しておこう。次の文章では、「できる」すなわち「能力」をあらわす言葉と「忘れる」との関係が指摘されている。

これらの「できる」という語の用法の事例に、「忘れる」「しようとする」という語が使われる用法の様々を示す事例をt附け加えるべきであろう。これらの用法は、「できる」の用法に密接につながっているからである。(BBB p116, 大森荘蔵訳p190)

 ここで示されているのは、「能力」の「持続」が重要な条件だということである。「忘れる」ことは、能力の持続を破壊するのである。

「できる」ことと「状態」の類比について、以前引用された指摘を思い出しておこう。

 それにもかかわらず、さまざまな理由から我々は、何かが可能であるとか誰かが何かができるとか等ということを、人なり物なりが或る特定の状態にあることだとして考える傾きがある。簡単に言えば、我々がもっとも使いたいと感じる表現形式は、「Aは何かをすることができる状態にある」、という形式なのだ、ということである。(BBBp117 大森荘蔵訳p192)

 4.
アスペクト視をめぐる表現もまた、ある「能力」の端緒の表現として使用される場合がある。すなわち、「アスペクトの閃き」が、ある「能力」の端緒となる場合である。(単純には、そのアスペクトにおいて見ることの端緒となる)

アスペクトの閃きと「突然理解する」こととの類比。

 「この顔にはきわめてはっきりとした特徴があるー」ということは、元来そのことに関してたくさんのことが語られうるということを意味する。-いかなる時に人はこのように言うのか。人がこのように言うことは何にもとづいて正当化されるのか。それはある特定の経験であろうか?人は自分が言うはずのことがすでにわかっているのか?人はそのことをすでにあらかじめ心の中で言ってみたのか?この状況は「いま私はどうやって続けていけばよいかわかった!」という場合の状況と似ているのではないか。(RPPⅠ505 佐藤訳)

 ある図形パズルが解けたことによって、類似の問題が解けるようになる場合を思い浮かべてみよう。
そのような状況で、「私はこの図の中にウサギの頭を見た」という発言は、「私は・・・が分かった」「私は・・・を理解した」「私は・・・ができるようになった」という表出に類似している。cf.RPPⅠ993

 「いまや私にはどう続けてゆけばよいか分かっている」-私にはこれが額であり、これが嘴であることが分かっている。(RPPⅠ882佐藤訳)

 始まりという性格を持つ体験について、RPPⅡ179を参照。アスペクトの閃きも、体験と呼ぶことができる。

「私はこの図の中にウサギの頭を見た」という発言は、「私は・・・が分かった(・・・を理解した)」「私は・・・ができるようになった」という表出に類似した使用が可能である。(今後、「私」は、似た図形の中に、ウサギ頭を容易に見分けられるようになるだろう。)

それを、「私はこの図を見ていて、ウサギの頭の存在に気づいた。」とも表現することができる。

ここでの<アスペクトを見る>は、<気づく>に類似している。

ただし、アスペクトの閃きの体験が驚きとともに表現されたとしても、それがある能力の獲得を必ずしも意味するわけではないことにも留意しておかねばならない。