「説明」の周辺(39):「無時間的」、「同時的」

1.

 前回までの考察において、メタファー型の「美学的説明」で示される 類似性、同一性が、非因果的なつながりであることを主張した。

その後、シネクドキ型の示す内容も非因果的と言えること、メトニミー型の示す内容については、因果的、非因果的という2通りの見方ができること、を論じた。

 

そこで、次の問いを示唆しておいた。

メタファー型で示される類似性、同一性や、シネクドキ型で示される包摂関係は、非因果的かつ無時間的なつながり、と言ってよいだろうか?

(メトニミー型については、今は措く。)

 

 2.

直感的には「イエス」と答えたくなる。

「このシンフォニーの主題は、運命がドアをたたく音である。」という文言を美学的説明の例としよう。

この説明は、ある演奏会での特定の演奏について言われることも可能である。

しかし、そのような場合をも含めて、一般には、楽曲のフォルムについて言われる言葉であるだろう。そのフォルムは特定の時点を越えた存在という意味で「無時間的」だ、と言いたくなる。そしてそのフォルムに関する類似関係(「主題」と「運命がドアをたたく音」との)は、非因果的かつ無時間的であり、「美学的説明」は、そのような非因果的かつ無時間的関連付けを行う、と。

 

3.

 他方で、メタファー型の類似関係、シネクドキ型の包摂関係は、非因果的で同時的な関係だ、とも言いたくなる。「AはBだ。」「CはDに属する。」とはすなわち、あるものがAであるのと同時にBであり、Cであると同時にDに属する、ということだ、と。

 

 この「同時的という関係性」がimperfective aspect での表現と「相性が良い」ことに注意しておこう。

一般に、ある事象の「背景」とされるものは、その事象と「同時」あるいは「直前」に在るものごとである場合が多い。

”前景と背景” で取り上げた、「背景の時制としての半過去」というヴァインリヒの説を思い出すこと。

フランス語のみならず、英語の進行形も、日本語のテイル/テイタ形も、ある出来事の背景を描出するのに多用されることを想起したい。

次の例では、テイタ形によって、「背景の描写」がなされている。

(73) 山ノ上旅館ニ泊ッテイタ。夜中に地震ガアッテ、皆トビ起キタ。

(・・・)

上の例文(73)で、「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」というimperfectiveな描出は、「地震があった」「皆がとび起きた」という事象の「背景の描出」であり、「背景の説明」になっている、と言えよう。

ただし、「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」という事象が「地震があった」ことの原因でも理由でもないことは明らかである。さらに、日常的な意味で、「皆がとび起きた」ことの原因や理由とは言えないことも確かである。

では、それが事象の説明となる根拠、すなわち、事象との「関連」はどこにあるのか?

「山ノ上旅館ニ泊ッテイタ」ことが、「地震があった」「皆がとび起きた」ことの 現実における条件となっていたこと、であろう。ここで言う「条件となる」こと の意味は、時間的にみて、諸事象と「同時」であったり「直前」であったりすることだ、と言えよう。

”説明とimperfective aspect”

この場合の「背景であること」もまた、非因果的つながりと見なせることに注意しよう。

 もちろん、同時的に在る事象同士が、因果関係にある場合も多いのだが。

 

4.

「無時間性」について問うのは、後期ウィトゲンシュタインにおいて、「無時間的使用」が重要な概念であるからだ。

 

ウィトゲンシュタインは、遺稿の中のあちらこちらで、「時間的zeitlich使用」「無時間的zeitlos,unzeitlich使用」という対立する概念を用いている。

(cf. RFMⅠ23,27,101,103,104,105,Ⅵ2,36,Ⅶ69, RPPⅠ622, RPPⅡ5,439, LPPⅠ146,152,-162,759-762, RCⅠ1。 ここでは、“zeitlos”と“unzeitlich”は、同じ意味、と見なして議論を進める。

「無時間的」は「幾何学的 geometrisch」とも言い換えられている。(cf. LPPⅠ146)

 

そこで、その概念を明確にすれば、先の問いは、<メタファー型やシネクドキ型の「美学的説明」は「無時間的使用」に属するか?>という形で問うことができるだろう。

 

しかし、自らの用語に明確な定義を与えないまま議論を進めてゆく、という彼の姿勢はここでも変わりがなく、テクストから「無時間的使用」という概念を明確にすることは難しい。

ただし、彼の「無時間的使用」の概念は、われわれの「直感的」な捉え方を超えるものではないように見える。

「箱の中の100個のりんごは、50個と50個から成る。」― ここで重要なのは、<成るbestehen>の非時間的unzeitliche性格である。というのは、その意味するところは、100個のりんごが、いまあるいはしばらくの間、50個と50個から成る、ということではないのだから。(RFMⅠ 101、中村秀吉、藤田晋吾)

すなわち、「箱の中の100個のりんごは~」は、今という特定の時点ないし期間の事象として述べられているのではない。 (他に、LPPⅠ146を参照)

「無時間的使用」に対立する「時間的使用」についても、ウィトゲンシュタインははっきりした説明を残していない。ここでは、ある具体的な時点(ないし期間)と場所(複数でも可)に位置づけられる事象(複数可)について述べる行為が「時間的使用」である、と解釈してみる。

 

つまり、当ブログでは暫定的に、述べられた対象が特定の時空間に位置づけられるか否かを、時間的使用/無時間的使用の判別ポイントと考えてみる。(様々な穴はあるかもしれないが、今は問わない。)

 

同じ文が、時間的にも、無時間的にも使用可能、という論点。

「“Dädalus” は7音からなる。」という命題を例に。

“Dädalus”という語の音を数える際、結果を2通りの異なった仕方で見ることができる。(1)ここに書かれている(あるいは、これに似た、あるいは、今発音された、等の)語は、7音からなる。(2)“Dädalus”の音声パターンは7音から成る。

2番目の命題は、無時間的zeitlosである。2つの命題の使用は異なっていなければならない。

数えることは、二つのケースで同一である。ただ、それぞれの場合に何が達成されるか、に違いがある。(RFMⅥ36)

 

そして、時間的使用と無時間的使用との間の移行が存在する。

無時間的使用を支えているものは、一定の「環境」である。

命題「1フィート=・・・センチメートル」は、われわれの場合、無時間的zeitlosである。しかし、フィート尺とメートル尺が少しずつ変化するので、相互に換算されるためには、絶えず比較されなければならない場合を考えることができよう。

だがわれわれの場合には、メートルの長さとフィートの長さとの関係は、実験的に決定されたのではないか。確かに。しかしその結果が規則の烙印を押されたのだ。(RFMⅦ69、中村・藤田訳)

 

以上の引用からも察知されるように、「無時間的使用」は「文法的使用」に関連する概念である。

「文法的命題」は、特定の事象の描写としてではなく、「範例」として、特定の時点を越えてくり返し用いられる。また多くの文法的命題が、数や長さの単位のように、具体的個物ではないもの、その意味で特定の時空間のみに位置づけられないもの、について述べている。

 

しかし、<ある命題が特定の時点を越えて繰り返し、妥当なものとして用いられること>と、<その命題が特定の時空間に限定されないものについて述べていること> とは区別しなければならない。前者は、特定の時空に属する対象に関する内容であることも可能であるから。

そのように見れば、ウィトゲンシュタイン最晩年の『確実性について』は、前者の意味で規則のように用いられる経験的命題、に関する考察である、と言えるだろう。

 

また、「必然性」(「可能世界」)の観念が絡んでくると問題はさらに複雑になるだろう。ここでは、「無時間的使用」と「必然性」に関して起こる問いには敢えて立ち入らない。

 

以前注意したように、「文法的命題」としての使用、つまり「文法的使用」にも様々な仕方があり、単一のものと決めつけるべきではない。

両概念の多様性が十分に明らかにされてはいないのだから、「文法的使用」と「無時間的使用」がどこまで重なっているかは、これから検討されなければならない問題である。

 

 さて、「美学的説明」は、どれも「無時間的使用」と言えるのだろうか?

そう言い切るのに躊躇するのは、「美学的説明」が、現在目の前にある対象に関して発言されることも多いからである。ウィトゲンシュタインの云う「美学的困惑」は、何よりも目の前の対象によって強く呼び覚まされるものだろう。具体的に目の前に存在する対象に関わる言明は、時間的である、と言いたくなる。

このような直感は、2.での直感とは対立する。

 

そこで、別の側面からアプローチするために、「2つの使用」と、「無時間的使用」および「美学的説明」との関連に眼を転じて、問題を再考してみよう。