円環と概念

1.
ある命題が「規則として」扱われるかどうかが、アプリオリに決定されているわけではない。

ただし、実験について、正しい結果、間違った結果が語られる場合も存在する。例えば、実験室で生徒が、H₂SとSO₂をこれこれの比で混合したものの、爆発が起きなかった場合、われわれは生徒が正しい結果を得なかったと言うかもしれない。
ここで、われわれがこの実験の画像を持っている、としよう。しばしば、科学のテキストの中に実験の画像があるような具合に。あるいは、次のような、化学式を持っているとしよう:
  2HCl+2Na=2NaCl+H₂
この式は、通常、数学の式のようには扱われないであろう。つまり、それは経験的に検証されるものであろう。
 だが、この式が純粋な数学における式のような役割を担うことも可能であろう-すなわち、この式が、実験がどのような結果になるかを記述する方法に組み込まれた場合においては。-この式を実験の結果に左右されないもの(つまり、数学的命題)にできるだろうか?-ただし、実験こそが、式のあらわす観念をもたらすものであることは依然真実なのであるが。もしも、何が実験の結果として起ころうともこの式は正しい、と見なされるように、式が使用され始めたとしよう;そのとき、式は規則の役割へと沈下(あるいは上昇)する;そして、我々は今や、この規則を用いて実験を記述することとなる。たとえば、「ある実験において、何かが消失してしまった」などとわれわれは言うであろう。(WLFM, p98~99) 

 

この実験(2HCl+2Na=2NaCl+H₂を再現する実験)を我々はモニターを通した映像で眺めているとしよう。そして、生徒が塩酸のなかにナトリウム片を落としても、気体らしきものが発生しなかった とする。
われわれとしては、どのように考えるだろうか。
さまざまな可能性がありえる。


1.「塩酸」と見えるものは実は塩酸でなかった、あるいはナトリウム片とみえるものはナトリウム片でなかった、という実験対象の取り違い。


2.ナトリウム片を塩酸の中に入れたようにみえたが、実際にはビーカーの外に落としていた、という「操作のミス」。それにわれわれが気づかなかった。


3.薬物等の影響で、われわれの視力に低下が起こり、気体の泡が見えなかった。(この過程の全体を、別の状況に移すことで、薬物の我々に対する影響を検証する実験と見なすこともできよう。ウィトゲンシュタインが言うところの「心理学的実験」の観念を参照のこと:RFM Ⅰ 75, 158-161,)


4.かの式は常に正しくはない、という可能性(命題2HCl+2Na=2NaCl+H₂を規則として扱わず、否定可能なもの、経験的な命題として扱う)。

 

現実には、われわれは4番目のように考えはしないであろう。つまり、先の命題は、現実には「規則」として扱われるだろう。(その場合、「1~3のいずれかが起こったに違いない」とわれわれは考える。)
このとき、規則と見なされた式は、それに適合しないように見える現実に直面しても責めを負わない。

 だが、彼は「これが起きることが分かった」とは言わず、「そうでなければならないことが分かった」と言う。この「なければならない」は、彼がその状況から、どのような種類の教えを引き出したか、を示す。
「なければならない」は彼が円環Zirkelを作り上げたことを示している。(・・・)
「そうでなければならない」は次のことを示している、この結果が当の過程Prozeßにとって本質的なものとして承認されたこと を。(RFM Ⅵ7)

この「なければならない」は、彼が概念Begriffを採用したことを示す。
この「なければならない」は、彼が円環Kreisを回っていることを意味する。
彼は、この過程から、自然科学の命題を読み取ったのではない。そうでなく、概念規定Begriffsbestimmumgを引き出したのだ。
概念とは、ここでは方法を意味する。すなわち、その適用に対比されるものとしての方法を。(RFM Ⅵ8)

特定の 結果を 当の過程(あるいは操作)が備えるべき「本質的なもの」とみなし、行為の実行や評価の際に規則を適用して行くことで、人は、規則を規則として確立する。
ここでウィトゲンシュタインは、「円環(Zirkel,Kreis)」という言葉で事態を表現している。
そして、ここでは、「概念」という概念を、この円環構造をなす実践の中で形成されるものとして意味づけている。

この円環構造を、規則を表現する命題の適用にしばしばみられる重要な徴表としてよいだろう。
この円環を特徴づけるのは、「過程(操作、手続き)と結果の同一(内的結びつき)」である。

数学へ入り込めば、手段the meansと結果は同じものとなる。逆に、手段と結果を区別するなら、それは数学でなくなる。(WLFM p53)

 上の文では、過程の代わりに手段と言われている。