言語学との関連について、いくつか

1.

進行相への当ブログの関心は、ウィトゲンシュタインのテクストから直接に喚起されたものではなく、いわゆる「行為の哲学」への関心を介して得られたものだった。

よく知られるように、動詞のアスペクトの問題は、アリストテレスにおける「デュナミス(可能態)/エネルゲイア(現実態)」の議論に現れ、その重要なポイントとなっている(『形而上学』第9巻)。

当ブログは、それについて語るだけの能力・資格をもたない。

それでも、次のことは言ってもよいだろう。アスペクトの問題が「行為の哲学」にとって枢要であるのは、単に、アリストテレスという「開祖」の議論に登場しているという理由からではない。目的時間言語、という3つの主題が、行為のアスペクト的性格をめぐって、結び目のように姿を現しているからだ。

 

2.

言語学に関する文章を読んでいて、ウィトゲンシュタインのテクストに表れたテーマとの関連に気づかされることは多い。

以前取り上げたものでは、ムーアのパラドックスと、日本語の感情形容詞の使用との関連がある。(”表出のディレンマ、おまけ”)

これについて、寺村秀夫が次のように指摘している。

・・・感情のムードを表わす文(感情形容詞で言い切りとなる文ー終助詞は別)は、その素材となる文の感情主格語が、三人称以外のものであることを要求するが、その形容詞が  ’~タ’ という形をとるときはこのことが見られない。これを説明するには、感情形容詞の ’過去形’ で終る文は ’感情のムード’ に支配されない、つまり何か異質のムードを表わすのである、と考えるのが最も自然であろう。

(寺村『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』p348)

すなわち、感情形容詞を述語とする文の場合、現在形と過去形とでは「同じ語の単なる活用変化のように見えながら、実は違ったムードを表わしている」(同書、p349)と。

この寺村の言葉には、『探究Ⅱ』ⅹ節での考察と共鳴するものがある(cf. PPF 89)。

 

3.

ウィトゲンシュタインのテーマと言語学のテーマとの関連の中で、取り上げておくべきものの一つについてメモしておこう。(彼のテクストを異なった視点や立場から眺めるために重要なことであるから。)今後の探究のためのメモであり、現時点でこれらを論じる知識はない。

 

当ブログの中心的テーマであった、ウィトゲンシュタインの「2つの使用」。それらは例えば「時間的使用」/「無時間的使用」とも呼ばれたが、言語学で行われてきた探求の中に、それらに対応するテーマを見つけることは容易である。

(なおかつ比較によって、言語学での捉え方とは異なる、問題に対する彼独自の姿勢を浮き彫りにすることもできよう。)

それは広い意味で、<総称性(genericity)>のテーマに属すると言えよう。

ただし、「2つの使用」に対応するペアは一つではなく、いささか錯綜した様相を見せている。ここでわざわざメモしておくのは、そのためでもある。

 

まず、stage-level/indual-level predicate の区別がある。

これは、英語の、無冠詞の複数形名詞 bare plural noun(例:firemen,students)を主語とした文の解釈に関わる。

stage level の述語を持つ文は、一時的で、特定の時空に結びつけられる性格を持つ(temporal,transient,episodic)。

それに対し、individual levelの述語文は、恒常的で、inherentな属性を表す。

(この区別は、当初、述語の語彙的な特性と見なされた。対して、ウィトゲンシュタインにおける「2つの使用」の区別は極めて語用論的である。)

 

日本語学における、事象叙述/属性叙述、という区別(益岡隆志)。

 

その他に、「2つの使用」に正面からは対応しないが、関連する対立のペアがいくつかある。

例えば、thetic judgement/categorical judgement という区別がある。

(この区別の内容については、人によって差がある。)

この区別の提唱者Anton Martyはフランツ・ブレンターノの弟子であり、ブレンターノの主張が大きな影響を与えている。(ここまで無関心だったが、フッサールの判断論も気になってくる。)

興味深いことに、この区別を現代の言語学に再導入した黒田成幸は、日本語の「が」と「は」の区別がその典型であると主張した。(ただし、その正当性については議論がある。)

そこで、日本語学における、無題文/有題文、という区別にも目を向ける必要があろう。

 

以上のような対立を、大まかに、non-generic/generic の対立と呼んでみよう。

(この呼び名が適切でなさそうな対立もあるが、今は問題としない。)

Firemen are available.

という文について、

「出動できる消防士がいる」と解釈するのを、non-genericな読解、

「一般に消防士は、出動可能な状態でいるものだ」と解釈するのを、genericな読解、と呼ぼう。

genericな読解は、habitualな読解に似たところがある。

(habitualな読解の例:I have a breakfast at 8. 私は、普段8時に朝食をとる。)

 

habitual aspectは、imperfective aspectに含められるが、言語学で従来から行われているのが、imperfective/perfectiveという述部の対立を、mass/count nounという名詞の対立に類比することである。

そこで、mass/countの区別を、non-generic/genericとの関連から見直すことも必要だろう。