数学的命題の二重性格

1.

正しい計算の答えは一つである、とはどういうことか。

その「正しい計算式」が、将来にわたって妥当なものとなる、

つまり、現実の計算に対するただ一つの「範型」として、その計算式が繰り返し適用されうる、ということである。

(前回触れた、繰り返し適用される、という、像が規則であるための一条件)

 

証明についても、次のように言われている。

 我々がそれらを証明と呼ぶのは、それらが諸々の適用を有するからである。そして、もし、それらを予測のために使用するとか適用するとかいったことができないのであれば、我々はそれらを証明とは呼ばないだろう。(WLFM p38, 大谷弘、古田徹也訳)

 数学的命題は規則(規範)としての役目をする。しかし、それがそうであるのは、現実に適応(応用)可能である限りでのことだ。
つまり、現実に生じる出来事の予測として応用できる限りでのことである。

後期のウィトゲンシュタインは、そのように、数学への見方を転換する。

「君がこれらの数で、私が他の数でやって見せたことを行うなら、・・・を得るだろう」-それは「この計算の結果は・・・だ」ということである。-そしてそれは、予言Vorhersageではなくて数学的命題である。とはいうものの、予言でもあるのだ!ー特別な種類の。ちょうど、縦列を加えていて、最後に、実際にしかじかの数が出てくるのを見た人が、本当に驚いて、例えば、こりゃどうだ、これが出てきた!と叫ぶかもしれないように。(RFMⅦ 4 中村秀吉・藤田晋吾訳)

計算技術においては、予言Prophezeiungenが可能でなければならない。

そしてそれが計算技術を、チェスのようなゲームの技術に似たものにするのだ。(RFMⅢ 67 中村・藤田訳)

注意すべきことは、予測される現実の出来事には、計算自身も含まれることである(上に引用したRFMⅦ 4を参照)。

数学的命題について言われたことは、文法的命題についても当てはまる。

 私は、命題「12インチ=1フィート」によって予言Voraussageをなしうる。つまり、12個の1インチ木片がつなぎ合わされると、別の仕方で測定された木片と等しい長さであることが判明するであろう、と。したがってその規則の意図Witzは、いってみれば、その規則によってある一定の予言が可能だということである。するとそれは、規則の性格を失うであろうか。-(RFMⅦ 2  中村・藤田訳)

そのように、数学的命題ないし文法的命題が、規則であると同時に、現実に対する予言として適用可能であるためには、自然的および社会的環境の安定性が必要である。(cf.RFMⅢ66、PI 142、PPF366)

上に引用したRFMⅦ 2の文は次のように続く。

なぜそういう予言が可能なのか。そう、 ーすべての物尺が等しくつくられていて、その長さか著しく変化することがなく、1インチないし1フィートに切られた木片も変化せず、われわれの記憶が「12」の数字まで数えるのに、二度数えたり、数え落としたりしないのに十分なだけすぐれている等のためである。(RFMⅦ 2 中村・藤田訳)

2.

 以上(実例による検討を抜かして)ごく大まかに見てきた、数学に対する新たな視点を端的に表現すれば、次のようになる。

 <必然的な>命題に現れる諸概念は、必然的ならざる命題にも登場し、かつある意味をもたなければならない。(RFMⅤ41 中村・藤田訳)

 例えば、「12X12=144」と計算する場合にのみ、「掛ける」という概念が正しく適用されていると言いうる。それでもなお、「掛ける」という概念は、間違った計算がなされる場合にも使用可能でなければならない。そうでなければ、「12X12を計算したが、164と答えてしまった。」等の命題が「無意味」であることになってしまう。

ウィトゲンシュタイン前期・中期の、「結果と過程を同値とする」数学観は、例えば、「12X12=164か?と問うことに意味があるのはなぜか?」、という「パラドックス」を生み出してしまった。
また、「計算間違い」という概念が消滅するかのようであった。
ここで、規則の表現(数学的命題、文法的命題)と事実の記述との本質的なつながりを承認しなければならない。

同時に、われわれが数学を含む広範囲の、「像が規則として使われるゲーム」に携わっている、という事実を認める。

再び、『数学の基礎』から、端的な表現を選ぶなら、

 数学的命題の二重性格―法則Gesetzとしての性格と規則Regelとしての性格(RFMⅣ 21  中村・藤田訳)

 (Gesetzという語の意味は多義的だが、これまでの議論の流れで解釈するなら、「法則としての性格」は、「記述としての性格」とも言い換えられよう。記述の性格を持つが故に、予言への適用が可能になる。)

これは「像」の二重性格ともいえるだろう。