「説明」の周辺(43):テンス、アスペクトと話者の体験

1.

前々回アスペクト知覚体験の表現との類比を通して、(一部の)「美学的説明」の中に、「体験の表現」の相を見ようとした。

(「体験の表現」の相を見る、とは正確にはいかなることか? という問いについては保留した。)


その際「美学」が(語源的にも)「感性の学」であることが意味を持ってくる。感覚器官による「感覚」は、「体験」のいわば典型的なモデルであり、「心的状態」のモデルでもある。そのポイントは「持続」であった。(cf. RPPⅡ63,148)

感官感覚Sinnesempfindungen:それらの内的連関と類比
すべての感官感覚は真の持続echte Dauerを持つ。始まりと終りを特定できる可能性。同時性Gleichzeitigkeit、つまり同時に生起する可能性。
(RPPⅡ63)

 ここで「同時性」が挙げられていることにも注意しよう。

 

2.

以前、数学的命題・証明を「美学的説明」に類比する(乱暴な?)アイデアに触れておいた。(”「説明」の周辺(37)”

だが、そのアイデアは、当然、無条件には適用できない。

数学的命題は、感覚、知覚によっては捉えがたい内容をもつものがむしろ圧倒的に多いからである。

しかし、われわれが数学の命題に対して抱く「無謬性」「一意性」のモデルは、指による計算や一目で見渡せる図形のような、視覚的相貌face(すなわちAspekt)をもつ事例である、とウィトゲンシュタインは考え、そのことの影響について考えようとしていた。

“認知の時間”“「説明」の周辺(19)”を参照。)

一方、多くの数学的命題がとる、同等性の表現(例えば、等式)というスタイルは、「美学的説明」における「比較」「並べて示す」というスタイル(”「説明」の周辺(36)”)に、類比することができるだろう。

とすれば、視覚的相貌に関連するプリミティブな数学的命題は、(内容と形式の両面で)「美学的説明」に類比されてもおかしくないだろう。

 

 だが、数学の命題と話し手の「体験」との関りは、別の形でも現れる。前回の⑤の叙想的テンス現象は、その例である。(ただし、この場合、数学的命題であることは、その関わり方には影響しない。)

 

3.

話し手の「体験」を言葉で表現する際、当然、テンスやアスペクトが重要な意味を持つことだろう。

 それと逆方向に、文のテンス、アスペクトの方から、話し手の「体験」の存在を浮かび上がらせること。そのような試みが、言語学において存在し続けたことに注意したい。

テンスやアスペクトを、言葉の表す内容に対する、話者の捉え方(「思想様式」)の表出、と理解する説が過去に存在した(細江逸記『動詞時制の研究』)。

(英語の)進行形について、それを、話し手の観察注意と結びつけて理解しようとする説があった(Jacobus van der Laan, ”行為と状態(5)”)。

そもそも英語学における進行相の特徴づけの中に、視覚のメタファーが抜きがたく存在しているように見える(”行為と状態(7)”)。

また、フランス語学でも、半過去の本質を、話者が「観察しているかのように」語る点に見ようとするとする流れが存在した(”行為と状態(6)”)。

 さらに、<叙想的テンス>に関して、話し手の「体験」「経験」との関りがテンスに影響を及ぼしているという説が提示されている(たとえば、金水敏定延利之)。

例えば、前回見た、「1009は素数だったね。」がタ形で表されるのは、話し手の過去における「1009は素数である」という情報との関りが、その文脈において重要な意味を持つから、とされる。

このように、話者の「体験」(「経験」)のエレメントが、一般的な叙述にも影響を及ぼし、しかも文法的な適否を左右する例は、(例えば)定延利之『煩悩の文法』が豊富な題材で解き明かしている。

「体験」との関り、といっても、叙述内容が実際に感覚を通じて体験される場合もあれば、それとは異なった「関り」もあることが、数学的命題の例から理解される。

 

 4.

「非因果的つながり」の表現に特定のアスペクト、テンスが選好され、しかもそのアスペクト、テンスが、表現される事象の時間様態とはズレているように見える、という問題。

この「問題」に、話し手の「体験」との関り、という観点を持ち込むこと、それが差し当たっての課題である。とはいえ、今確認したように、それは既に色々なかたちで行われてきた試みに通じている。言語学に疎い者として、ここで可能なのは、高々、様々な論考に触れて、あれこれ考えをさまよわせる程度のことかもしれない。

「体験」の表出という共通する面において、アスペクト知覚の表現の問題がこれらの問題とどのような交点をもつか、現状でははっきり言い表すことはできない。

 

ただ断っておくなら、当ブログでは、話し手の「体験」との関りを 、これらの現象を説明する唯一の原理とは看做さない。(細江『動詞時制の研究』の場合は、それに似た弊に陥っているように思われる。)

むしろ意図しているのは、「体験」のエレメントと他のエレメントとの重なりや絡み合いを、それがあるままに捉えることである。