the time of a killing

1.

前回、telicな動詞を(正しくは、accomplishment verbを)imperfect aspectで(正確に言えば、progressiveで)用いることに問題の根源があると思われるかもしれない、と書いた。

あるtelicな行為がその行為であるための規準=終点、目標endに到達していない状況を、(にもかかわらず)その行為の名で呼ぶことになるから。

2.

しかし、ある行為が過去の事象であれば、その行為が特定のtelicな行為となる規準を満たしたかどうかは決定されているはずであり、「彼は家を建てた」あるいは「彼は家を建てていた」は真偽が決定された記述である。

 しかし、imperfective paradoxは、まさにその地点に生じる。 「彼は家を建てた」が偽である状況について、「彼は家を建てていた」という主張が真であることがあり得る。

3.

それが問題になるのは自然言語の意味論を考えようとする場合である。進行形の文の真理条件について、われわれが直感的に受け入れやすい定義は次のようなものだろう。

 定義A

「彼は海岸通を走っている」がある時点t において真であるのは、次の場合であり、その場合に限る: ある時間的インターバルⅠが存在し、tはⅠに含まれる、終端でない一時点である。そして、Ⅰに含まれる全ての時点において、「彼は海岸通を走る」が真である。(cf.Dowty, Word Meaning and Montague Grammar, p146)

しかし、これは「海岸通を走る」のようなactivity verbでは妥当と思えるが、「家を建てる」のようなaccomplishment verbの場合には具合が悪い。なぜなら、広がりのない一時点、たとえば、2000年1月1日正午に「正男が家を建てる」とは(「家を建てている」の意味でないとしたら、あるいはその時刻に完成する(もしくは建て始める)、の意味でないとしたら)言わないから。

(もちろん、「正男が家を建てる」が「正男が家を建てている」の意味ならば、後者を前者によって定義することは意味がない。また、「正男が家を建てる」が「正男が家を完成する」の意味なら、ある時間的インターバルのすべての時点で真にはならない。)

「去年、正男は家を建てた」「今年の秋、正男は家を建てる」のように、幅のある時間的インターバルを指示する副詞句でなければ、「家を建てる」とは共起できない。

そこで、次のように定義しよう。

定義B

「正男は家を建てている」がある時間的インターバル Ⅰにおいて真であるのは、次の場合であり、その場合に限る:ある時間的インターバル Ⅰ'が存在し、「正男は家を建てる」がⅠ'において真であり、Ⅰ⊂Ⅰ'であり、なおかつ、ⅠがⅠ'の終端ではない場合。(cf.Dowty, Word Meaning and Montague Grammar, p145)

 ところが、imperfective paradoxの存在は、「正男は家を建てている」の真理条件が、「正男は家を建てる」の真理条件に基づかない例を示すように思われる。

(その解決のために、意味論においては、可能世界モデルを導入する等の方策がとられることになるが、それらについては、ここでは立ち入らない。)

4.

上述した定義Aは、進行形の文の真理条件を、perfectiveな文の真理条件を用いて説明しようとする。

しかし、accomplishment verb(例えば「家を建てる」)の場合、それをある時点についてperfectiveに言う(例「2000年1月1日正午に正男は家を建てる」)ことは明瞭な意味を持たなかった。

(※もちろん、上述したような解釈を排するとして。)

そこで、perfectiveな文の真理条件を、「ある時点において真である」から「あるインターバルにおいて真である」に変更することで、accomplishment verbにも適用できる定義を得ようとした。あるaccomplishment verbが、始まって終わるまでの期間をⅠ'とすれば、定義Bが成立するように思われる。

(imperfective paradoxによる困難は、今措いておく。)

5.

しかし、そこでも問題が持ち上がる。

accomplishment verbの一例として「・・・を殺害する」について考えよう。

「「AがBを殺害する」が真である最小のインターバルⅠ' を一義的に決定できるだろうか?」という問題が、「殺害時刻 the time of a killing」の問題として知られている。

次のようなストーリーを考えよう。

シナリオA

某年7月7日、午後6時に家政婦Aが、雇い主Bのスープに毒薬を仕込む。

午後7時、Bがスープを飲む。しばらくして、Bは苦しみ始める。

午後7時半、今度はAが突然の心臓発作で倒れ、午後8時に絶命する。

Bは1人になって、助けを呼ぶこともできず、翌日午前1時に死亡する。

この一連の事態のなかで、「AによるBの殺害」はいつからいつまでに亘るのだろうか?

3つの説を考えて見る。

①午後6時から毒を仕込み終わる時まで(あるいは、Bがスープを飲み終わる時まで)、という説:

⇒「午後7時半には、BはAに殺害されていたが、Bは生きていた」?

②午後6時から、Aが死亡した午後8時まで、の説:

⇒「午後9時には、BはAに殺害されていたが、Bは生きていた」?

③午後6時から、Bが死亡した翌日午前1時まで、の説:

⇒「午後9時、すでに死んでいるAは、Bを殺害していた(progressive)」?

いずれを選んでもそれに付随する数々の奇妙な主張が可能となるように見える。

 

 しかし、例えば、「某年7月、AがBを殺害した」という言表には、問題はない。

(ただし、これは定義Bには使えない。「某年7月」=Ⅰ' として、「某年7月10日」=Ⅰとすると、Ⅰ⊂Ⅰ'だが、「某年7月10日、AがBを殺害した」は正しくない。)

 

このように、ある時間的インターバルに、あるaccomplishment verbで表される行為を位置づける(perfectiveに叙述する)ことも、決して自明な課題ではない。

 

さらにシナリオBを考えよう。

シナリオB

(午後8時まではシナリオAと同じ)

午後9時、たまたま訪ねてきた友人に発見され、病院に運ばれて、Bは命を取り留める。 

さて、2つのシナリオにおいて、Aの行った身体的行動は正確に同じである、としてみよう。たとえそうであっても、翌日正午の時点で、「AはBを殺害した」という文は、シナリオAでは真でありシナリオBでは偽となる。

 

6.

基本的には、ある行為があるaccomplishment verbの名で呼ばれるためには、その行為が一定の終点=目標endに到達していることが条件となる。しかし、現実には、そのような終点に到達しなかった行為についても、その名で呼ばれることは多い。またその場合、そう呼ばれるか否かを、行為の環境が左右する場合も多い。

さまざまなaccomplishment verbの間で、そう呼ばれることを終点の非-実現が制限する強さや、環境の影響のあり方について、程度の差が存在する。

たとえば、「掛け算する」という行為について、「「12x12は?」と尋ねられて「144」と答えること」は一つの規準である、と言える。ただし、「124」とか「134」とか答えた者についても、通常の環境においては、「彼は掛け算したが、計算違いをした」と言われるだろう。

しかし、「24」とか「0」とか答えた者については「掛け算した」とは言われないだろう。

「殺害する」という行為について。「AはBを殺害したが、その後もBは生きている」とは言わない。「殺害する」という動詞の使用については、行為の対象が死亡する、という規準(=end)の適用は、「掛け算する」の場合よりも厳格である、と言えるだろう。

※endが一つのみに決定されていることと、規準(=end)の適用が厳格であることとは異なっていることに注意しておきたい。

 

すなわち、諸々のaccomplishment verbの使用され方を、類似と差異の網の中で見ることが可能であろうし、そこに種々の傾向性を見て取ることができるかもしれないが、そのことは今措いておく。必要なのは、まず、このような現象をわれわれの言語使用における自然史的事実として認めることである。

 

ここまで、問題を引き起こしてきたのは、accomplishment verbの使用がはらむ「揺らぎ」「あいまいさ」であった。それらが由来するものは、accomplishment verbの適用規準が(本来的には)行為の結果end(=目的)であることと、行為の遂行に時間を要すること、である。

imperfective paradox,  the time of a killing問題ともに、この2つが関わっていることはわかるだろう。そして「し損ない」や「しようとする」という観念とのかかわりにも気付かれるだろう。