文法と応用

1.

一般的には、同じ字面の文が2つの異なった使用をされる場合には、2つの別の命題として、すなわち異なった意味を持つものとして扱い、それらが同じ字面を共有するという事実は重要視しないのが正しい哲学的姿勢とされるのだろうか。その立場に拠るなら、2つの命題が同じ字面を共有することは、(哲学的には)トリヴィアルな事実ということになるのかもしれない。

実際、『論考』でのウィトゲンシュタインは、そのような立場に立っていたといえるだろう。
そこでの「記号」と「シンボル」の区別に関わる議論(cf.『論考』3.32以下、3.328までの部分)から、そのことは読み取れる。

 ところが全く反対に、後期のウィトゲンシュタインにとっては、同じ文がさまざまな異なった使用を持つことこそが、根本的に重要で、注目すべき事実なのである。
それが、彼の後期思想を大方の「分析哲学」からのみならず、『論考』からも分かつ重要なポイントであるように思われる。

 

※命題とその様々な使用や効果について考察する哲学の潮流として、オースティンに始まる言語行為論があることは言うまでもない。ウィトゲンシュタインの手法と言語行為論の比較は重要な課題になり得るが、現状はそれが可能になる遥か手前の段階にいると言うほかはないだろう。

 

2.

 言語一般が有意味であるための条件に関する『論考』の説は、picture theoryと呼ばれる。pictureと英訳され、「像」と日本語に訳された原語は、Bildである。
しかし、次のような、ウィトゲンシュタインの読者を戸惑わせる事実がある。
後期のテクストにおいても随所で、Bildという概念が、『論考』のそれとは異なった意味でもって、あいまいな形で再登場する。しかもウィトゲンシュタインはそれに対して(かって『論考』2.1以下で行ったような)定義をあたえてはくれないのである。

 ラッセルはこの基本法則によって、ある命題について「それはすでに帰結しているー私はそれを実際に導出しさえすればよいのだ」と言っているように見える。同様に、フレーゲも、2点を結ぶ直線は、われわれがそれを引く前に、すでに存在していると言った。われわれもまた同様に、例えば数列+2における移り行きは、元来、我々がそれを口で言ったり書いたりして行う前に -いわば、後からなぞる前に- すでになされている、と言うのである。
このように言う人に対しては、「君はここで像を使っているのだ」と答えることができよう。(RFMⅠ21,22)

 後期のテクストにおける「像」について注目すべきことは、『論考』において「像」の条件であった「事態との論理形式の共有」という特徴が背後に退き、「様々に使用される」という側面が前面に出てくることである。

 1人のボクサーが特定の戦う構えをしている像を考えよ。この像は、どのように立ち、どう構えるべきか、あるいはどう構えるべきでないか、あるいはまた、どのように特定の人がどこそこの場所に立っていたか、等々を誰かに伝えるために用いることができる。この像は、(化学風に言うなら)命題基と呼ぶことができるだろう。おそらくこれと同じように、フレーゲは「仮定」なるものを考えていたのだろう。(PI22)

 そして、「像」の見かけからは、その使用は必ずしも明らかではない。さらにその見かけが我々を惑わし、混乱に引きずり込む。このことが繰り返し強調される。

 われわれの言語は、まず第一にある像を描き出す。その像をどう扱うべきか、その像をどのように使用すべきかは、いまだ不明瞭である。しかしながら、われわれの言述の意味を理解したいならば、それらのことが探究されねばならないことは全く明白である。ところが、像はその探究を免除してくれるように見えるのだ。つまり、像がすでに一定の使用を指示しているように。そうやって、像はわれわれをからかうのである。(PPF55))cf.PI11,658

 

※とはいえ、『論考』においても、

 3.327 論理的構文論に従った使用をまってはじめて、記号の論理形式が定まる。(野矢茂樹訳)

 といわれており、使用と論理形式の本質的連関自体は前提とされている。
しかも、しばしば「シンボルの知覚可能な側面である記号」cf.3.32によって、シンボルの異同が覆い隠されてしまい、そこから哲学の全体に満ちている「もっとも基本的な混同」(3.324)が生じる、と言う。
そして、その記号からシンボルを読み取るには、有意味な記号使用に目を向けねばならない(3.326,以上、野矢茂樹訳)とされており、ここには後期思想と一致した主張が読み取れる。

 

3.
重要なのは、次のことである。『論考』にあっては、論理的に正しい命題(トートロジー)は、真理条件を持たない(4.461)ゆえに、像ではない(4.462)とされていたのに対し、後期における論理的に正しい命題、すなわち文法的命題は、ある仕方で使われた像に他ならない。
それは、前回引用した、数学的命題と経験的命題の外見的一致の例を思い出してみれば分かりやすい。

 

※なお、<実験vs計算,証明>という対照に関して、ウィトゲンシュタインは同様の、パラレルな視点を持っていた。ここで詳しい解説はできないが、いずれ、触れる機会があるだろう。

 証明は最初は一種の実験であるはずだ、と言うことができるだろうーしかしその後に、まさに像として扱われる。(RFM Ⅲ 23)

よって、私はこう言うことができよう、証明は実験としてではなく、実験の像として役立つ、と。(RFMⅠ36)

 

4.
ただし、一般に「経験的命題」、「文法的命題」という2通りの使用が存在する、というわけではない。「経験的命題」、「文法的命題」それぞれもまた、様々に異なった使用を持ちえる。このことに注意しておきたい。

報告という言語ゲームは、その受け手に、報告の対象について知らせるのでなく、報告者について知らせるといったふうに転換されうる。
たとえば、教師が生徒を試験する際がそうである。(人は物差しをテストするために測ることができる。)(PPF94) 

 次は疑問形での「文法的命題」の例である。ここでも、その使用はさまざまでありうるし、文面のみからは決まらない。

 しかし、「式y=x^2は与えられたxに対してyを決定する式であるか」という問いによってわれわれが何をなすべきかは、それだけでは明らかでない。この問いを生徒に向けて、彼が「決定する」という語の使用を理解しているかどうかテストすることもできるだろう。あるいは、それは、xがただ一つの平方を持つことをある体系の中で証明せよ、という数学の課題でもありえるだろう。(PI189 cf.RFMⅠ1)

5.
ところで、Wの中期数学論と後期数学論を分かつポイントと目されているものがある。それは、数学的命題とその応用の密接な関係である。たとえば、『数学の基礎講義』において、ウィトゲンシュタインはそれを何度も強調している。


※ここでは、ウィトゲンシュタインの思想の展開における時期的区分の問題には触れない。ただ、奥雅博のように(『ウィトゲンシュタインの夢』p106~)PGの第Ⅰ部から後期が開始される、とすることには一定の妥当性がある、と考える。その区分を受け入れる場合、もともとビッグ・タイプスクリプトに含まれていたPGⅡは中期に分類される。

 

後期の数学論において、ウィトゲンシュタインは意味論的閉鎖性を放棄し、ゲーム内に閉じ込められていた意味をその適用の場面に解放していく方向で新しい治療法を模索している。(戸田山和久、「数学と数学ならざるもの、あるいは数学の内と外」、『ウィトゲンシュタイン読本』p145)

まず、 中期に代表的な、いわゆる文法の自律性を主張した文章の例を見よう。

算術が一種の幾何学であるという論評の意味は、まさに、算術的な構成が幾何学のそれと同様、自律的だということ、したがって算術的な構成は算術の応用を身をもって保証しているということ、に他ならぬ。・・・

だが、応用は計算に何を授けるのだろう?応用は計算にさらに新しい計算を付け加えるのか?もしそうなら、それはいまや別の計算になる。あるいは応用は計算に、数学(論理)にとってある本質的ないみで、内容を授けるのか?それなら、たとえしばらくの間でも応用を度外視できるのはいったいなぜか?・・・

われわれにとって文法とは一個の純粋な計算である。(ある計算の、現実に対する応用ではない。)(いずれもPGⅡ15より。坂井秀寿訳)

それに対し、『数学の基礎、『数学の基礎講義』では、数学と応用との関係は、別の側面が強調されている。

記号ゲームを数学にするものは、数学外での使用、したがって記号の意味である。

ちょうど、私がある形象を他の形象に(例えばある椅子の配置を他の配置に)変換するとき、この配置がこの変換の外では言語的使用をもたないなら、それは全然論理的推論でないのと同じである。 (RFM Ⅴ2, 中村秀吉・藤田晋吾訳p266)

計算自体が ある経過をたどるのであって、われわれの方がそのような経過を歩むのでははない、という理解を引き起こすものは、計算の適用ではないか。(RFMⅦ 5)

<必然的な>命題に現れる諸概念は、必然的ならざる命題にも登場し、かつある意味をもたなければならない。(RFMⅤ 41,中村・藤田訳 p305)

我々がそれらを証明と呼ぶのは、それらが適用されるからである。そして、もし、それらを予測のために使用したり、適用したりすることなどができないのであれば、われわれはそれらを証明とは呼ばないであろう。(WLFM p38)

 以上のような論点は、中期においてはほとんど強調されることが無かったが、後期においてにわかに表面に浮かび上がって来る。

 

※付言するなら、後期においても、「文法の自律性」は単純に否定されてはおらず、例えば次のように表現されている。

 ある意味では、数学の記号は数学によって初めて意味を与えられるから、数学においては記号の意味に訴えることができないのだ。(RFMⅤ16,中村・藤田訳 p283)

 6.

文法の自律性のテーゼ と 数学的命題と応用の関係の強調ーこの一見したところ、対立するかのような論点の関係は、どのようなものなのだろうか。
この問題を、数学論のみでなく他のさまざまな問題との関連のうちに浮かび上がらせることが、課題として現れてくる。

ただし、ウィトゲンシュタインの方法について先に概観しておくことが必要であるし、そのためにも一旦、「心理学の哲学」の内容を覗いておきたいと思う。