実験と計算を往還する(2)

1.

正しい計算といえども、われわれがまず実行し、その結果を、われわれが正しい計算と認めたのであり、天から与えられてわれわれの許にあるわけではない。

一方では、いわば試行としての、規則に従いつつ記号操作した結果(式、図形、等)としての「計算」「証明」があり、他方では、規則に則って行われたことを公認された「計算」「証明」がある。

特定の結果に至った操作の過程を、同一性を保ちつつ反復可能なものとして捉えることで、「実験の像」としての「計算」「証明」が得られる。

こう言えるかもしれない、証明は最初は実験の類であるはずだ、ーただし、その後、ただ像Bildとして把握される、と。(RFMⅢ23)

過程をただ、印象深い像として見ることで、その実験という性格は消え去る。(RFMⅠ80)

前者は、いわば、「いまだ実験のレベルにある計算」である。当たり前の事実に見えるが重要なのは、両者とも同じ記号で構成されていることだ。

そして、十分に訓練された人が、ノーマルな状況で、ある計算を行えば、「正しい計算」が示す答えを算出するであろうことは高い確率で予測できる。そういう事実は、「計算」の成立にとって外的なことがらではない。

 数学的命題は、この技術を学んだある社会の成員たちが、他の成員たちと一致して、結果として得るものを予言する、という意味で予言だ、といったとしたら、どうか。こうして、「25x25=625」は、われわれの見解の通り人人が掛算の規則に従っているとき、かれらは掛算25x25によって625という結果に至るであろう、といっているのである。―これが正しい予言であることは疑いえない。そして計算の本質がそのような予言にもとづいていることにも疑問の余地は無い。すなわち、われわれがそのような予言を確信をもってなしえないなら、何かを<計算する>とは呼ばないであろう。これはがんらい、計算は一つの技術だ、ということを意味する。また、われわれが語ったことは技術の本質に属することである。(RFMⅢ66 中村秀吉・藤田晋吾訳)

しかし、ウィトゲンシュタインは、ここで言語ゲームの違いを強調する。

「計算、例えば掛け算、は実験だ:われわれは、結果となるものを知らないでいて、掛け算が終わった後に、それを知るのだから」(・・・)

計算の場合、私は最初から、結果となるものごとが知りたかった。その結果こそが、私の関心であった。 そう、確かに、私は結果に関心を抱く。だが、私が語るであろう結果にではなく、私が語るべき結果に対して、である。(RFMⅢ69)

 

数学の命題は、われわれ人間がどのように推論し計算するかを語る人類学的命題なのか。-法典は、この国の人々が泥棒その他をどのように取扱うかを語る、人類学にかんする著作なのか。-こういえるだろうか、「裁判官は人類学にかんする本を参照して、泥棒に懲役刑を宣告する」と。いや、裁判官は法典を人類学のハンドブックとして使うのではない。(RFMⅢ65 中村・藤田訳)

予言と規則の間、および実験と計算の間の転換の本質とは、異なった種類の言語ゲームで使われること に他ならない。アンスコムの買い物リストの例で、同じ単語が、妻の命令と探偵のメモという異なった言語ゲームに登場するように。

 

このように、「数学的命題の二重性格」に類比的な、「実験と計算の二重性格」が存在する。

 

2.

 確かにウィトゲンシュタインは「計算は実験ではない」と繰り返し主張した。

しかし、同時に彼が見ていたものは、われわれが実験と計算の間を往還する姿だった。

 つぎを吟味せよ。<われわれの数学は実験を定義に変える>(RFM Ⅶ 18 中村・藤田訳)

だがわれわれの場合には、メートルの長さとフィートの長さとの関係は、実験的に決定されたのではないか。確かに。しかしその結果が規則Regelの烙印を押されたのだ。(RFMⅦ69 中村・藤田訳)

 こう言えるかもしれない:実験ー計算は、その間を人間行動が往来する両極である、と。(RFMⅦ30)

 われわれは、かわるがわる、対象のある性質を本質と見、非本質と見る(RFMⅠ 85)。それは、われわれが同じ「像」を、あるときには範型として立て、あるときには実際に起こることの記述として使用するという、実践の円環の中で生きているからである。

数学はー私はいいたいー問に対する答を教えるだけではなく、問と答とを含む全言語ゲームを教えるのだ。(RFM Ⅶ18 中村・藤田訳)

数学は、単に答えの発見ではなく、問うこと、答えを得ること等が結びついた行為のシステムである。

<数学は、実際に即したものであるためには、事実を教えるのでなければならない>-だがその事実は数学的事実でなければならないのか。-しかしなぜ数学は<事実を教える>代わりに、われわれが事実と呼ぶものの諸形式をつくり出してはいけないのか。(RFM Ⅶ18 中村・藤田訳)

 

以上、性急にまとめてはみたものの、取り残された問題は非常に多く、かつ大きい。

しかし、一旦、視線を『数学の基礎』から転じてみよう。

 

 3.

文法的命題の使用とは何か、を問う中で、結果が操作の規準となるような使用に注目した。考察の結果、見えてきたのは、そのような使用がより大きな言語ゲームのサイクル(「問いと答えを含む全言語ゲーム」RFM Ⅶ15)に組み込まれて機能している、という現実であった。

<必然的な>命題に現れる諸概念は、必然的ならざる命題にも登場し、かつある意味をもたなければならない。(RFMⅤ41 中村・藤田訳)

そこにおいて役割を変えながら循環するという性格を、後期ウィトゲンシュタインにおける「像Bild」という曖昧で謎めいた概念の一側面として、見出そうと試みた。

 

そこで、さらに、今まで触れてきた問題が、数学に限らない非常に広大な裾野をもっていることを確認しておくべきだろう。