意図の表明

1.
ウィトゲンシュタインにおいて、「表出Äußerung」と「記述」の対立が問題となるケースの一つを、次の例に見ることができる。

 「私はそこへ行くことを意図している」これは心の状態の記述なのか、それとも表出Äußerungなのか。(RPPⅠ593)

 「意図の表明」は、はたして「心の状態の記述」なのだろうか?少し先で、ウィトゲンシュタインは次のように言う。

 「私は・・・を意図している」という発言は決して記述ではない。しかし一定の状況では、そこから、ある記述を引き出すことができる。(RPPⅠ599)

 「決して記述ではない」-ウィトゲンシュタインがこう主張するのはなぜか。その理由はこれらの周辺の箇所からは必ずしも明らかではない。だが、クリプキのよく知られた議論を参照すれば、この主張を正当化することができるかもしれない。

2.
クリプキが呈示した、規則遵守に関するパラドックスは、意図に関するパラドックスでもある。(Kripke, Wittgenstein on Rules and Private Language, 邦訳『ウィトゲンシュタインパラドックス』)
彼が議論の例としたのは、「’+’によって’プラス’を意味する」こと、つまり「’+’を’プラス’として使用することを意図する」ことであった。
この「・・・を意味する」あるいは「・・・を意図する」とは、、何らかの(身体的であれ、心的であれ)「事実」が成立していることを言っている(つまり、そのような事実を「記述」している)のだろうか?そのように見なすのは、自然なことに見える。

しかし、詳しい説明は省略するが、どのような「事実」も’+’による演算の正しい結果を正当化することはできない。その事実が、「実際に生じる心的状態」であろうと、「傾性的事実」であろうと。なぜなら、「意味することと意図することが未来の行為に対し有する関係は、規範的なのであり、記述的ではない」(邦訳p71)なのだから。
例えば、「’プラス’を意味する」という語句が、ある「傾性的事実」の記述に留まるのであれば、「計算間違いをする」という概念が成立しないのである(邦訳p56~57)。

クリプキの議論を受け入れるならば、「意図の表明」は自分の「内なる事実」の「記述」、あるいは「傾性的事実」の「記述」である、と主張しえないことになるだろう。

ウィトゲンシュタインの言葉を引用するなら、

 意味する(meinen)ことは、語に付随する出来事Vorgangではない。なぜなら、いかなる出来事も、意味することの持つ帰結を持ち得ないだろうから。(PPF291)

 同様に、「意図することは出来事ではない」とも言えよう。

あるいは、飯田隆が指摘するように、

このやりとりから見当がつくように、意味の懐疑論とまったく同じ論法が、自身の意図についての知識に対しても適用できる(・・・)こうした議論の行き着く先は、意図なるものは存在しないと言う結論だろう。(飯田隆『規則と意味のパラドックス』p110)

ただし、ここでは、「意味する(意図する)という事実は存在しない」と言うのでなく、「意味する(意図する)は、事実の記述として用いられるのではない。」と言い換えておく。

3.
「意図」に対し、「行為」は記述される、と言ってよいだろうか。

人はしばしば、自分や他人の「意図的行為intentional act」について語る。
たとえば、電話での会話で、相手の「君は今何をしているんだ?」に対する「私は自分の家を建てている。」という発言は意図的行為の報告、記述の例と言われよう。
しかし、意図の表明でもある、と言われてみればどうか?
実際に、「私は自分の家を建てている。」から、「話し手(「私」)は自分の家の建立を意図している」が帰結する。
無論、このことをどう解釈すべきかは直ちに明らかではない。

※例えば、その後すぐに発言者が亡くなり、家が未完成のままでも、さきの発言は偽にならない。しかし、その場合、他者が「彼は自分の家を建てた。」というなら、それは真なる言表ではない(いわゆるimperfective paradox)。
それゆえ、「私は自分の家を建てている。」は、そもそも行為の記述というより、意図の表明である、と主張したくなる人もいるかもしれない。

4.
仮に、「私は自分の家を建てている。」は、「私は自分の家の建立を意図している」を含む複合的命題である、としてみよう。(例えば、「私は自分の家を建てている。」は「私は自分の家の建立を意図しつつ、ある行為を行っているところだ」と等値である、と。)

こう仮定し、クリプキの議論を受け入れるなら、「私は自分の家を建てている。」を、単なる出来事の報告(記述)と理解することは不適切であることになろう(「意図する」は、「出来事の記述」ではないから)。

だが、素朴に考えるなら、「私は自分の家を建てている。」について言えることは、「彼は自分の家を建てている。」についても言えるだろう。

ならば、先の仮定からは、「彼は自分の家を建てている。」も(単なる)報告、記述ではないという結論になってしまうのだろうか?

5.
「私は自分の家を建てている。」
この言表は、たとえば、電話で、見えない人に向かって報告する、相手の目の前で自分がしていることを説明する、等々、様々に使用することが可能である。

問題は、「意図の表明として用いる、行為の記述として用いる、とは、それぞれ、どのようなことなのか。何がそれぞれを特徴づけ、区別するのか。その上で、ある言表が、両方の役割を果たすことがないか」等々である。

ウィトゲンシュタインは、「意図の表明」を「行動の陳述」として用いること可能であろうと指摘する。

 「私は・・・を意図している」という言葉は、「私はこの意図に合致するような、あることをしている」という陳述Aussageとして用いることができるであろう。(RPPⅠ594)

 そもそも、われわれは「記述」や「報告」によって何を行うのか?それは改めて問う必要のない、自明なことなのだろうか?ウィトゲンシュタインが問いかけるのはむしろそのことである。

もし君がこれらのことを不可思議と感じるなら、それより前にもっと別のこと、つまりそもそも記述や報告は何をなしうるかということを不可思議と感じたまえ。君の驚きの念をこの点に集中すれば、先に述べた他の諸問題は小さなものになる。(RPPⅠ621 佐藤徹郎訳)