「説明」の周辺(21):情動、表出、経過

1.

同じく容貌を根拠にしながら、性格や運勢を判断するよりも確かな種類の判断がある。

ある人の表情から、その後の態度や言動を予想すること、

または、以前の状態や出来事について推察すること、である。

 

例えば、入学試験の合格発表日に、道で出会った受験生の友人が晴れやかな表情をしていれば、

「ああ、試験に受かったんだな」と考えるだろう。

 あるいは、有名政治家のパーティー会場の隅に、場違いな感じの若い男性が一人思いつめたような表情でじっとしていたなら、警備員は、男によるテロ行為を危惧して警戒に入るかもしれない。

 

これらの例のポイントは、表情を認知した時点から、そう遠くない範囲の時点の事象について判断していることである。

性格、人となり、運勢は、いわばその人の生涯の出来事に関わる事柄である。

人相学の、容貌から、そのような事象について知ることができる、という主張は、一般的には受け入れられていない。つまり、確実性は低くみなされている。

それに対し、一時的な表情からその人の言動や出来事へと、もっと短い時間のレンジについて推察するなら、確からしさはずっと大きくなる。

 

2.

では、 顔の表情から、その人の現在の感情や気分を読み取ることはどうだろうか?

これは、上の例よりもさらに短いレンジにおける、より確実な判断と言えないか?

偽装という問題を別にすれば、確かにそのように言うことができる。

ただし、顔の表情と感情、気分との間の結びつきは、行為や態度と感情、気分との結びつきよりも、さらに強いものであることに注意したい。

前回、あえて「人の行動、振る舞いや言葉が、そのまま、その人の性格(人となり)である」という言い方をした。それによって、行為と性格との間には、論理的(意味的)なつながりがあることを示唆した。

顔の表情と感情、気分との結びつきも、ただ経験的ではなく、論理的(意味的)なものでもある。

これは、後期ウィトゲンシュタインにおける主要テーマの一つ、「内面Inneresと外面Äußeresとの関係」という問題である。(言うまでもなく、この場合、顔の表情=外面、 感情、気分=内面、である。)

内面は外面と経験的に結びついているだけでなく、論理的にも結びついている。(LPPⅡ p63、古田徹也訳)

(もちろん、「偽装」についてどのように考えるか、は大きな問題となる。)

前回ことわったように、この問題にはここでこれ以上立ち入らない.

 

3.

 とはいえ、ある表情と、その前後の行為、態度等との結びつきも、その緊密さに差はあっても、単に経験的なものではないだろう。

そのことを考える上で、『心理学の哲学Ⅱ』の「心理学的諸概念の取り扱いについてのプラン」(RPPⅡ63, 148)における「情動(情緒)Gemütsbewegung」という概念の考察に注目しよう。

様々な情動。それらに共通する真の持続echte Dauer、経過Verlauf。(怒りは燃え上がり、和らぎ、消え去る。喜び、憂鬱、恐怖もまた同様である。)( RPPⅡ148、野家啓一訳、「情緒」⇒「情動」に改変。)

 「真の持続」は、先に「感覚Empfindung」が持つものとされていた。(cf. RPPⅡ63)

情動は、「真の持続」を持つだけではない。ここで「経過 Verlauf」というキーワードに注目しよう。

それぞれの情動には、いわば「一般的な(自然な)経過」が想定される。

そこからかけ離れた様態をもつ「情動」は、我々には不可解なものとなるだろう。

「悲しみ」という語は、われわれにとって、生活という織物の中でさまざまに変動しつつ、くりかえし起こるパターンを記述するものである。もしある人が示す悲嘆と喜びの身体表現が時計のカチカチ鳴る音とともに交替するようなものであったら、この場面では、われわれとっては、悲嘆のパターンに特徴的な経過も喜びのパターンの経過も存在しないのである。( PPF2)
「かれは一秒間はげしい痛みを感じた」-「彼は一秒間ふかい悲哀を感じた」というのがなぜ奇妙に響くのか。単にそれが稀にしか起こらないからなのか。(PPF3)

 さらに、情動には、「特徴的な表出行動」「特徴的な感覚」が存在する。

情動には特徴的な表出行動charakteristishes Ausdrucksbenehmenが伴う(顔の表情)。そして、そこからやはり特徴的な感覚charakteristische Empfindungenもまた生ずる。それゆえ、悲しみはしばしば 泣くことと共にやって来るし、また特徴的な感覚も泣くことと共にやって来る(涙ぐんで重たくなった声)。(RPPⅡ148、野家訳、改変。)

 「特徴的な表出行動」と「」との結びつきが語られていることに注目しよう。

情動の内容―それによって人が思い浮かべるのは、何かのようなもの、あるいはそれによって像が作られうるようなものである。(人を沈み込ませる憂鬱の暗黒、怒りの炎)。

人間の顔つきGesichtをもそのような像と呼び、そして顔つきの変化を通して激情Leidenschaftの経過を記述することができよう。 (RPPⅡ148、野家訳、改変。cf. RPPⅡ570)

 例えば、高血糖不整脈も人間の状態である。しかし、高血糖不整脈の人の、典型的で明確な像、というものは存在しない。(それに対して、脂質異常症の人については、われわれが思い浮かべがちな「像」が存在する。いわゆる「メタボな人」。)

だが、「情動」については、「像」に比せられる「特徴的な表出行動」が存在し、さらに「像」の変化で表現できるような「自然な経過」が存在する。

「情動」ー「表出」ー「経過」の結びつきもまた、単に経験的に観察されるにとどまらず、「論理的」である。

(とはいえ、もちろん、そのような結びつきが常に再現されるわけでは全くない。また、明確な「像」が常に存在するわけでもない。)

 

さらに、「情動」の「経過」は、それぞれの局面で、特徴的な言動、態度と結びついている。

「情動」と そうした言動、態度とのつながりも、単に経験的ではない。

例えば、ギャンブルで大金を摩ってしまった人が「大丈夫、もうショックは癒えたよ」と言いながら、その後もしばしば呆然とした表情を見せたり、後悔の愚痴ばかり口にし続けていたなら、「まだ彼のショックは癒されていない」と言わざるを得ないだろう。

(今はこれ以上の説明には進まない。)

 

4.

 以上のような「情動」というカテゴリーが心理学的概念の内に存在するとして、他人の「情動」を知ることの効用は何だろうか?他人の「情動」にどんな関心があるのか?

ウィトゲンシュタインが強調するのは非常に平凡な事実(に見えるもの)である。

私は彼の顔を仔細に観察する。なぜ?それによって何が私にわかるのか?たとえば彼が悲しいのか嬉しいのかということが。だがどうして私はそのことに関心があるのか?なぜなら私が彼の気分Stimmungを知ることができれば、それはある物体の状態(たとえばその温度)を知ることが出来た場合と同じことだからだ。私はそのことからさまざまな帰結を引き出すことができるのだ。(RPPⅠ890、佐藤徹郎訳)

すなわち、他人の「情動」「気分」を知ると、その人の行動、態度Verhaltenについて推察することが出来る。

「・・・と私は信じる」は、私の状態に光を当てる。この発言から、私の行動Verhaltenに関する結論を引き出すことができる。それゆえここには、情動や気分などの表出との類似性がある。(PPF96 、鬼界彰夫訳、cf. LPPⅠ422 ) 

気分と感覚印象との間の関連は、われわれが感覚印象や想像表象を記述するのに気分の概念を用いるという点にある。われわれはある音楽の主題やある風景について、それが悲しいとか喜ばしいなどと言う。しかしもちろんそれよりはるかに重要なのは、われわれが人間の顔や行為Handlungや振舞いBenehmenを記述するのにあらゆる気分の概念を用いるということである。(RPPⅠ926、佐藤訳、cf. Z505)

 

※「情動」は「経過」を辿る。「気分」は、一時的にであれ、同じものとして留まる。すなわち、一時的な「状態」である。「気分」には決まった形の移り変わりがない。
―ただし、次のように考えることもできないだろうか?「気分」の、一時的な滞留という様態も、「経過」の一種である、と。「気分」と「情動」の類似と差異をめぐる問題については、今これ以上立ち入らない。 

もちろん、情動の持つ固有の経過から、ある時点での表情をもとに、別の時点での表情を予想することも可能である。

しかし、表情から行為について推察することは、はるかに大きな重要性を持つ。

ここで、人間の行動と言うものは、幅を持った時間における出来事(過程)として現象することを想い出そう。
 
5.
ある架空の世界、そこでの人間、情動、行為について仮想する。
その世界で、ある情動を、時間区間、例えば[tₘ,tₙ]の間で生起する現象としよう。
 
その情動に特徴的な表情の移り変わり(経過)を、時点の関数f(t)に喩えてみよう。
時点tₐにおける表情をEₐで表せば、Eₐ=f(tₐ)と表せる。
情動の経過と特徴的な表情の経過との対応は一通りに決まっている、としよう。
(表情→情動 のつながりは、直感的(直覚的)に認知され、表情は情動の「像」として、いわば情動の代役をつとめることが出来る、と仮定する。)
 
さらに、その情動を持った人間の行為の展開は、その情動の経過に沿って、一通りに決まっている、と仮定してみよう。
(情動→行為 のつながりについては、非直感的に推理される、としておこう。)
 
その場合、表情―情動―行為 の間に決定的な関係が成り立つ。
するとある時点での行為の様態も、時点の関数に喩えることが出来、G(t)のように表せるだろう。
G(tₐ)=g(Eₐ)=g(f(tₐ))のように。
 
さて、われわれが時点t₁において、ある人物の表情を認知する、としよう。
時点t₁における一瞥による表情の把握は、実際の表情E₁ならびに、関数f(t)を見て取ることに喩えられよう。(つまり、「経過」を見て取ることがポイントとなる。)
もう少し言うなら、表情E₁を関数f(t)のt₁における値として見ることに、あるいはE₁=f(t₁) を見てとることに、喩えられるだろう。
 
そして、条件としてのE₁=f(t₁)から、tₘ≤ tₖ≤ tₙなるtₖについて、k時点での行為の様態G(tₖ)が推理される。
これは、G(t)を解とする方程式を解くことに喩えられるだろう。
 (このような比喩は陳腐とも思えようが、問題の整理には役立つかもしれない。)
 
果たして、この比喩は適切だろうか?